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箱根に着く頃には雨がやみ、夜になっていた。レース後からなにも言わない荒北くんの背中をひたすら追いかけて、夜道を二人で歩く。
荒北くんが落車したと聞いた時には頭の中が真っ白になって、急いで救護テントに向かった。スタッフの説明を聞く限り、かすり傷程度で特に問題はない。大きな怪我じゃなくてよかった……。
今日は天気が悪かった。落車するのも無理はないし、また次頑張ればいいだけの話だ。
だけど荒北くんはなにかを思い詰めた顔で、箱根に戻った今でも、私と一言も口を利こうとしない。私も荒北くんにかける言葉が見つからず、うつむきながら荒北くんの後を追っていた。
人気のない道に入ると、荒北くんが突然足を止めた。
「……明日から自主練、来なくていいから」
「なんで……? 私、荒北くんになにか嫌なことした?」
「いい加減気づけよ! お前がいるだけでつらいんだよ!」
荒北くんがやっと顔を上げて見せた顔に息が止まる。
今までに一度も見たことのない鋭い眼光。憎しみのこもった視線に、体が硬直して動けなくなる。
「お前のそういうところ、南雲に似てるんだよ! お前に会ってからとっくの昔に辞めた野球部のことを思い出すようになって、そういやアイツとケンカ別れをしたってどうしようもない後悔をして……お前のせいでいらないこと考えるようになった。最近ペダルが重いのも全部お前のせいだ!!」
「荒北くん……」
「こんなの、お前から見たら理不尽だってわかってるけど。オレが弱いだけだってわかってるけど……。でもオレはここで立ち止まりたくない。だから自主練には来るな、オレの近くに来るな。これ以上、悩ませるな……!」
『栄吉くんの進む道の先には、うちはいない方がいいんじゃ』
あの時の佳奈ちゃんの言葉が脳裏によぎる。――私は、佳奈ちゃんと同じだ。自分では一生懸命頑張ってきたつもりでも、結果的に荒北くんの足を引っ張ってしまった。
秋から彼が悩んでいたスランプの原因。それはまさしく、私にあった。
「……ゴメンね」
涙が零れ落ちる前に、その場を駆け出す。
後ろから続く足音はない。これで本当に荒北くんに突き放されたのだと思うと、こらえていた涙が溢れだした。
自宅をとうにすぎてしまったけれど帰る気にはなれず、偶然見つけた小さな公園の中に入る。街灯だけが夜の闇を照らす寂れた公園には、私以外誰もいない。ブランコを見つけて、そこに腰をかける。
目を閉じると、さらに涙が溢れた。皮肉なことに、事が起こった後でこんなにも荒北くんのことが好きだったんだなって実感する。
――本当は荒北くんのこと、前から好きになっていたことに気づいていた。
でも彼は部活仲間であり、インハイに向けてひたむきに練習を続けている。そんな彼の邪魔になりたくなくて、この気持ちに気づかないフリをして接していた。
荒北くんも、私のこと好きなのかなって時々思ったりして。甘酸っぱく感じたり、時に胸が苦しくなったりするこの思いをこのままでいいやって放っておいたら……いつの間にか、荒北くんがスランプに悩むようになって。
どうして私は荒北くんのことを好きになってしまったのだろう。荒北くんの夢をかなえるつもりが、恋愛感情を持ってしまったことで壊れる寸前まで追い詰めてしまった。
「……さん?」
誰もいない公園の中、どこかで聞いたことのある声がした。涙を拭いて声がした方を見ると、真波くんがいた。偶然私を見つけて公園に入ってきたのだろう。
「なにかあったんですか?」
「なんでもないよ」
「でも……」
「ゴメンね真波くん。今は一人にしてもらえるかな。今の私、本当に余裕なくて……」
かぶりを振り、頬に流れる涙を隠そうとうつむく。
「放っておけません。このまま帰ったら、さん家に帰らない気がするから」
強気に言って、真波くんは隣のブランコに座った。
ほっといてって言ったのに……。口をつぐむものの、真波くんは黙って夜空を見上げている。
このまま黙っていると、また泣いてしまいそうだ……。
「……好きな人にフラれちゃった。その人のこと、今までずっと応援してたんだけど……いつの間にか私自身が重荷になってたみたいで、もう関わらないでくれって言われちゃった……」
言葉にするとつらい。泣きたくなる気持ちをこらえて続ける。
「その人のこと、自分で思っていたよりも好きだったのかな。涙が止まらなくて……」
少しの間、沈黙が訪れる。
やがて真波くんが空を見上げたまま口を開いた。
「オレ……さんみたいに大切な人っていないから、こういうとき、なんて言ってあげたらいいのかわからないんですけど……。でも、その人もその人なりに悩んでさんと離れることを決めたんだと思います」
そうだと思いたい。今思い返してみれば、荒北くんも不調の原因に前から気づいていたのかもしれない。原因がわかっていたならもっと早くに突き放すこともできたはずだ。
「だから、さんにひどいことしたと思うんですけど。さんのこと、決して嫌いになったわけではないと思うんです」
先ほどの荒北くんを思い出す。あの言葉を言うのに、どれほど時間をかけて悩んだのだろうか。
だとしたら、今日限りで荒北くんとは距離を置かなきゃいけない。私が隣にいることで、彼は夢をかなえられなくなるのだから。
考えに沈んだ時、手に温かいものが触れる感触がした。そのままぐいっと引っ張られて、真波くんに手を握られていることに気づく。
「帰りましょう。こんな所にずっといたら風邪ひいちゃう」
私の手を握った真波くんの手はとても温かい。外に長くいたせいか、自分でも気づかないうちに体が冷え切っていたようだ。
「……そうだね」
真波くんの手を握り返し、ブランコから立ち上がる。
これから先、私はこの気持ちを心の奥底に沈めて部活に励まなければいけない。抑えきれない感情に押しつぶされそうになるけれど、こんな感情部活に持ち込んじゃダメだ。
真波くんと歩いている途中、夜空を見上げる。雲間から月が見え隠れしていて、不安定な心を一層あおった。