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 日曜日の昼、真波くんが問題を解き終わるのを待ちながら、昨日買った自転車雑誌を手に取る。表紙には大きな文字で「自転車男子特集」と書かれている。今月号は中学や高校の自転車部、十九歳未満のライダーが特集のネタとして取り上げられている。東堂くんに是非買って読むようにと言われて、コンビニで見かけた時に買ってきたのだ。
 何度かページをめくると、箱根学園の自転車部一同の写真が載っているページにあたった。ソファの中央に監督が座っていて、監督の左右には福富くんと東堂くんが座っている。この撮影の時私も声をかけられたけれど、男子ばかりの集合写真に女子一人、というのも大きく浮きそうな気がしたので遠慮させてもらった。
 そのページの隅に目が留まった。小さな枠の記事に、これから注目の選手という見出しのタイトルに荒北くんのインタビューが載っている。こうやって雑誌で見ると、手の届かない人になってしまったみたいだ。

 あれから一週間が経った。自主練習の手伝いには行かなくなったものの、同じクラスで同じ部活という環境上、荒北くんとどうしても言葉を交わさなきゃいけない場面がある。なるべく意識しすぎないように必要最低限の会話をして、荒北くんもいつもどおりの口調で返した。一週間経った今になると、自分の感情を取り繕うことがうまくなったと思う。
 ちなみに荒北くんは、あの夜を境に調子を取り戻し、この前のトレーニングレースでは一位を取った。監督も荒北くんの評価を改めつつあるという。これから荒北くんはもっともっと速くなって、箱根学園のエースアシストとして全国に名を轟かせる日も近いだろう。
 それは喜ぶべきことなのに。もう荒北くんの近くにいられないのだと思うと、悲しくて複雑な気持ちになる。

「……さん。……さん?」

 いつの間に呼びかけていたのか、真波くんの呼びかけで我に返る。

「ごっ、ゴメンね! 書き終わった!?」

 慌ててノートをこちら側に寄せ、参考書に書いてある問題文とノートの回答をじっくりと見比べる。

「……全問正解だね」

 ノートを返そうとすると、真波くんは窓の外を見ていた。

「いい天気ですね」
「そうだね」

 今日は一日中晴れの穏やかな天気。先週の大雨と天気が逆だったらよかったのに。どうしようもないことを考えては、また気分が沈みそうになる。

「ねぇさん。勉強はこのくらいにして、山、登りに行きません?」

 窓を見るのをやめた真波くんが微笑して言った。


 久しぶりにヘルメットを被り、真波くんと一緒に自転車で峠の麓に来た。
 この峠は足利峠と呼ばれている。いつの日か東堂くんに聞いたことがあるけれど、登坂を始めるには最適な峠だと言っていた。箱根山に比べれば低い山だけど、最後にペダルが鉛に思えるほどの勾配が急な坂は登坂力を鍛えられるという。近くに整備された道路があるため車がここを通ることはほとんどない。登坂の練習にはうってつけだ。
 自転車で走るのは好きだけど、ヒルクライムは進んでやったことがあんまりない。少し登っただけで地に足をつけたくなるし、正直自分でやる分には登坂の魅力が実感できなかったからだ。

「オレが引くんでついてきてください。もし苦しくなったら遠慮せずに言ってくださいね」

 真波くんはそう言うと前に出て、シッティングで坂を登り始めた。私もペダルを踏み、真波くんの後を追う。

 数分後、まだ中腹にも達していないのに息苦しくなる。前を見上げると、真波くんの背中が見える。
 福富くんたちに比べれば小柄な背中は、私を引きながらペダルを踏みゆっくりと上下に揺れている。坂を登っている今その背中はとても頼もしく見えた。
 ペダルが重い。足に乳酸が溜まっているのを感じ、ギアを一枚落としたくなる。でも今ここで落とせば、この先の坂がもっとつらくなるだろう。
 ギアを変えずに精一杯ペダルを踏む。

「大丈夫ですか?」

 後ろを振り返らずに真波くんが言った。

「大丈夫、まだいける……」

 本当は苦しいんだけど、私は嘘をついた。
 登坂をするときは大抵つらいと思ったときに足を止めるのだけれど、今日はなぜか自分の行ける限界まで走ってみたくなった。
 坂が終わり、平坦に入る。短い平坦の後、さっきよりも勾配が急で長い坂が続く。
 この先も頑張らなきゃと意気込んだ時、真波くんが急に止まった。

「今日はこの辺にしましょう」
「なんで……? まだ登れるよ?」
「今日はウォーミングアップです。登坂の経験がないさんが、この峠を登り切るにはまだまだ時間が必要です。これからしばらく、完全攻略を目指してオレと一緒にこの峠を登りましょう。坂を登っていると、その時だけ気が紛れるから」
「あ……」

 小さな声を漏らして気づく。授業中の時も、部活の時も、なにをやっている時も荒北くんのことが頭によぎっては沈んでいたけれど、登坂をしている時だけは忘れられた。これから先、真波くんと一緒に時間をかけて、足利峠を攻略するのはたしかにいいかもしれない。


 真波くんと山を登った後、あの山を登り切るにはまず基礎体力が必要だと思った私は、毎朝早く起きて近くのサイクリングロードに行って、自転車で走るようになった。本当は平日の夜や休日など、走れる時間は他にもあったけれど。もしかしたら荒北くんに会ってしまうかもしれないことを考えると、一番出会う可能性の低い早朝に走るしか他ないと思った。
 サイクリングロードに入り、人気がないことを確認してペダルを踏む。こんな時間に走るのは私くらいだろう。そう思っていたら、もう一人いた。黒のサイクルジャージに黒のレーパン、黒のアイウェア……全身黒ずくめのライダーを毎日見かけるのだ。その黒ずくめの男はとても速くて、毎回後ろから私を追い越しては、見えなくなる所まで行ってしまうのだ。
 今日も黒ずくめの男が私の隣を横切る。ハンドルをつかむ手やペダルを踏む足はすらっと長く、おそらく身長も高いのだろう。
 男は次第に失速し、近くにあるベンチの脇に自転車を止めて降りた。私も近くに自転車を止め、降りる。

「速いですね」

 男に声をかけると、

「キミ、コース取り下手すぎ。ペダルに力入れすぎ」

 初対面なのに結構な指摘を受けた。不意に荒北くんを思い出して胸が痛む。
 男がアイウェアをはずし、こちらを見る。大きな黒目の堀が深い顔。この顔、どこかで見たことがあるような……。

「名前、なんて言うんですか?」
「キミになんで教えなあかん」
「どっかで見たような気がして……」
「気のせいや」
「それに、これから話をするときに名前なんて呼べば……」

 頭をかいて苦笑する。同じ年頃の男の子だと思うのだけれど、思ったより警戒心が強い。

「みどう……いや。……アズナブル」
「……外国人?」
「アホか。子どもの頃見てたテレビのキャラから取ったんや」

 アズナブルさん……長いのでアズナさんと呼ぶことにしよう。アズナさんはサドルに跨がり、

「本当の名前はボクを追い抜いたら教えたるわ。ほな」

 そう言うとペダルを回し、去っていった。
 加速し、遠くに消えるアズナさんを背中が見えなくなるまで見送る。
 たしかにあの人どこかで見たんだけどなぁ……。そのなにかが思い出せない。