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 早朝はアズナさんの背中を追いかけながら平坦を走り、部活が終わった夜や休日、真波くんと予定が合えば峠を登って完全登坂を目指す日々が続いた。
 まだ荒北くんに対してぎくしゃくとした思いはあるけれど、以前に比べればだいぶ落ち着いた。自転車に乗っている間はつらいことを忘れられて、くよくよ悩む時間が減ったからだ。
 今思えば、真波くんが登坂に誘ってくれたのはいいきっかけだった。もし誘ってくれなかったら、今も荒北くんのことで悩んでいたに違いない……。
 初めての登坂から二週間後の今日。今日も真波くんと一緒に、峠の道中を自転車で登っていた。

「はっ、はっ」

 リズミカルに息を吐いて、ペダルを回す。
 初回は山の中腹前で挫折したけれど、今は中腹を越えられるようになった。
 目指す山頂まであと半分。急勾配のヘアピンカーブに一気に体力を削られそうだ。
 苦しくなって、前を見上げる。目の前には真波くんがいて、私とは対照的に苦しい様子も見せずにペダルを回している。
 小柄で頼もしいクライマーの背中を見るとまだ登れそうな気がした。
 カーブに差しかかり、さらに苦しくなる。まだ行けると信じて、ペダルを踏む。

「あっ――」
さんっ!?」

 足に限界がきて、自転車ごとぐらりと横に倒れる。
 山中に真波くんの声が響くと同時に私は落車した。

「っ――」

 痛みをこらえて目を開く。膝小僧を擦りむいてしまった。

「大丈夫ですか!?」

 仰向けになった私を真波くんがのぞきこむ。視線が下に移ると、表情がこわばった。

「大変、手当てしなきゃ……! オレ、急いで麓の売店に行って応急セット買ってきます」
「大丈夫だよ、このくらい。怪我の手当ては後にして今は登坂を続けよう」

 大きな怪我でもないし、せっかく登坂の最高記録を更新している最中なのだ。ロードレースではよくあることだし、そんなに慌てなくても大丈夫だと思うのだけど……

「ダメッ! こういうのは放っておくと、後で大変なことになるんです……!」

 いつもより切羽詰まった口調で真波くんが言った。彼の目がほんのりと涙で潤んでいる。

「……ゴメンね、真波くん。お願いしてもいいかな……?」
「えぇ、もちろんです」


 地面に腰を下ろしたまま木々を見上げて待っていると、すぐに真波くんが戻ってきた。自転車のハンドルにはビニール袋がぶら下がっている。
 真波くんはビニール袋から応急セット一式を取り出して、私の怪我の手当てをしてくれた。消毒を済ませ、器用にガーゼを貼っていく。

「手際いいね」
「オレ、自転車に乗り始めたばかりの頃怪我が絶えなくて。最初の頃はどうってことないやって思ってたんですけど、ある日お医者さんに『適切な処置をしないと足が動かなくなることもあるんだよ』って言われたことがあって。それから、怪我をしたらすぐに手当てする習慣ができちゃったんです」
「足が動かなくなるかぁ……」

 すり傷程度で足が動かなくなるなんて大げさだと思うけれど、当時小さかったであろう真波くんにとってはさぞかし怖い話に聞こえたのだろう。
 自転車に乗るには足が命だ。足がダメになってしまったらペダルが回せない。野球選手は腕が資本であるように、ライダーは足が資本なのだ。

「だから、怪我は放っておいちゃダメですよ?」

 応急処置を終えた真波くんがにっこりと笑う。私が年上のはずなのに、峠にいるときは真波くんが頼もしく見えてばかりだ。


 翌日の月曜日。部活が終わって正門に向かっている途中、後ろから誰かが私を呼び止めた。

!」
「福富くん?」

 福富くんが息を切らせて走ってきた。

「最近、オレになにか隠してないか?」

 予想していなかった言葉に鼓動が跳ねる。おもわず周囲を見回したけれど、幸い正門前にいるのは私と福富くんの二人だけだ。

「なにもないよ」

 動揺を悟られないように、いつもどおりを繕った表情で答える。

「嘘をつくな。オレの目を見ろ」

 福富くんが力強い声で言った。
 彼の目を見るものの、このまま見ていると嘘がバレてしまいそうな気がして――私は視線をそらした。気づいた福富くんの表情がこわばる。

「……オレは、あの時お前に助けられた。今のオレがいるのはお前のおかげでもある。もし、お前が困っているときは全力で力を貸そうとも思っている」

 わかってるよ。そう思ってくれるのはすごいうれしい。だけど、

「オレがそんなに頼りないか?」

 福富くんに心配をかけてしまったことに、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
 本当なら今悩んでいることを正直に話して、このことを忘れてしまいたいのだけれど。部活の和を乱すようなことは避けたいし、福富くんは幼なじみ以前に主将だ。色恋沙汰のことを話せばあきれることが目に見えるし、なにより福富くんを困らせたくない。

「ゴメンね。福富くんがそう思ってくれるのはうれしいけれど……これはもう、私がどうにかするしかないの」

 心配してくれたのに、こんなことしか言えないなんてもどかしいけれど。彼には、これしか言えない。

「だから大丈夫だよ。心配しないで」
「待て」

 聞こえなかったフリをして正門に向かう。ゴメンね、福富くん。