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 早朝、サイクリングロードを自転車で走っていると前方にアズナさんを見かけ、一気にスピードを上げる。
 偽名を教えてくれたあの日の後、アズナさんは私に気を留めることなく自転車で走り、時々横で「おはよう」って声をかけても無視してスピードを上げ、去っていく。
 こんなに冷たい対応をされたら、嫌われてるんじゃないかって思って距離を置くのが普通だと思うけれど……。この道を一緒に走る仲間ができてうれしいのか、私は距離を置くということも考えずにアズナさんに接していた。
 珍しくアズナさんがスピードを落としたかと思うと、初めて言葉を交わした時の場所で止まり、自転車から降りてボトルを飲む。
 少し遅れて私も自転車を止め、アズナさんの隣に並んだ。

「キミさ、何のために自転車に乗るん?」

 アズナさんはあいさつもなしに聞いてきた。急いで返す言葉を考える。

「えっと……気持ちいいから?」

 言った後で言葉が足りなかったことに気がつく。自転車で走っているときの風を切る感覚を指して言ったつもりだ。

「なぜ今、こんな早朝に来て自転車に乗ってるんやっていう意味や。キミのコース取りヘタクソやし、なんやがむしゃらにペダル踏んで現実逃避しているように見える」

 自分の走りを思い返し、言われてみればなるほどなと思う。アズナさんは鋭い観察眼を持っているようだ。

「なにがあったんや」

 アズナさんの大きな黒い瞳と目が合う。――この人は福富くんと同じだ。嘘を言ったら簡単に見抜かれてしまうだろう。
 朝早くからサイクリングロードを走っているのは基礎体力をつけるためだ。足利峠を登りたいと思ったのは……真波くんの誘いがきっかけだったけれど。それ以前に、漠然とした理由がある。
 私は迷って目を伏せ、再びアズナさんを見た。アズナさんはいつもと変わらない表情で、真面目に聞いているのか、それほど興味がないのか真意はわからない。
 ……ちょっと怖いけれど、勇気を出して言ってみる。

「好きな人にフラれたんだ。前から自転車に乗ることは好きだけど、その人のこと、それと同じくらい大好きだったから……。その人のことを考える時間を減らすために、現実逃避で自転車に乗ってるの」

 改めて言葉にすると少し恥ずかしくて、ありもしない傷口がヒリヒリと痛む。

「キモッ」
「えっ」
「キモい。キモすぎやわ。そんなことのために毎朝早起きして自転車乗ってるん?」
「たしかに気持ち悪いかもしれないけど、こうするしか他に方法はないんだ。そういうアズナさんは何のために走ってるの?」

 アズナさんは沈黙し、値踏みするような目つきで私を見る。その視線をまっすぐに受け止めると、アズナさんの口が動いた。

「勝利を喜んでくれる人の顔が見たくて、ひたすら自転車に乗ってた。今はもうおらへんけど……それでもボクは空から見とると信じて、ペダルを回している」

 サイクリングロードの横に広がる川を見ながらアズナさんは言った。川が朝日の光を受けて水面がきらきらと輝いている。
 さっきまで口が悪かったアズナさんの横顔は、昔を懐かしむように優しい目をしていた。
 口が悪いのに優しい。まるで、どこかの誰かに似ている……。そう思ったら、またちくりと胸が痛んだ。
 彼もそうだった。ぶっきらぼうな言動の裏には、実は相手のことを思って彼なりに優しく接していることを私は知っている。

「君、好きな人に似ているかもしれない」

 アズナさんと荒北くんはどこか似ている。そう思って、不意につぶやいた。

「はぁ? ボクに惚れるとかやめてくれよ」
「しっ、しないよ!」

 大声で否定する。元からそんなつもりはないし、誰かを代わりにしようだなんて思ったことはない。
 アズナさんは「本当に勘弁してくれよ」と言うとボトルを飲んだ。
 真波くん以外にもう一人、悩みを打ち明けることができた。キモいって言われたのはちょっとショックだったけれど。でも、安易に同情されるより、笑い飛ばしてくれる方が何倍もいい。

「ありがとう、アズナさん」
「そんなこと言われてもボク変な気になったりせぇへんよ」
「だからそんなつもりないってば」

 胸のつっかえが取れたらなんだかおかしくて、つい大声で笑ってしまった。

「前から思っとったけど、キミ、ボクより変やで」
「そうだね」

 笑いが収まらない私の相手が面倒になったのか、アズナさんは水面を見た。ようやく笑いが収まって私も一緒に水面を見る。
 これから数時間後には学校が始まる。長い授業を終えて、部活をやって、真波くんと一緒に峠を登って……。
 あの時から日常が大きく変わってしまって、時々寂しく思うことはあるけれど。山頂を目指して登坂をして、時々アズナさんにけなされて笑って。何回も繰り返せば、荒北くんのことを忘れられそうだ。