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 峠にだいぶ登れるようになった。早朝の走りで基礎体力がつき、真波くんの引きのおかげもあって、登坂初心者にしてはいい速度で坂を登れるようになった。
 日に日に最長記録を更新した登坂は、最後の坂で記録が止まっている。最後には急勾配の坂が立ちはだかり、ペダルが重く感じ、息が切れ切れになってなかなか前に進まない。深い泥道の中を進んでいるみたいで、途中で挫折して地に足をつけてしまうのだ。
 あの坂を越えるために真波くんに坂を登るコツをたくさん聞いてみたけれど、完全登坂にはまだ遠い。「たまには他の人の意見も聞いてみたらどうですか?」という真波くんの提案に従って、今日は色んな人にコツを聞いてみる予定だ。

 部活が終わったすぐ後。部室で更衣室に向かう東堂くんを引き止め、登坂のコツを聞いていた。

「オレの場合は無駄な動きを減らすことだな。まず、ペダルを回す足に力を入れ過ぎない。一度下まで回したら、ほんの少しだけペダルから足を浮かせるイメージで……」

 ベンチに座って講義をする東堂くんにうなずきながら、メモを取る。後で福富くんや黒田くんにも聞いてみる予定だからごっちゃにならないように気をつけなきゃ。
 東堂くんが一通り話し終えたところで、後ろから足音が聞こえた。東堂くんは顔を上げて――

「荒北、ちょうどいいところに来た! お前もちゃんに登坂のコツを伝授するがいい!」

 なんでよりによって荒北くんに……。思ったことがそのまま顔に出てしまいそうで、とっさにうつむく。
 更衣室に行こうとした荒北くんは立ち止まり、怪訝な顔で私と東堂くんを交互に見た。

「ハァ? 登坂のコツ?」
「最近ちゃんが足利峠の登坂に挑戦していてな。真波と一緒に登っているのだが……」
「真波って……あぁ、アイツか」

 ほんの少し時間をかけて真波くんのことを思い出した荒北くんの表情が、一瞬だけ引きつったような。荒北くんが思ったことを考えようとして――やめた。いまさら考えたところで、私には関係のないことだ。

「前だけを見ろ。そんくらいしかねーよ」

 それだけ言って彼は更衣室に消えた。

「雑なアドバイスだな……」

 東堂くんが更衣室のドアを半目で見る。
 前だけを見ろ。荒北くんに言われると、皮肉を言われているみたいでいい気はしない。
 あれから時間が経った今もこの気持ちを引きずっている私にとって、それは到底難しいことだ。


「山を登るコツゥ?」

 早朝のサイクリングロードでアズナさんに登坂のコツを聞くと、大げさに復唱された。

「うん。今完全登坂を目指してて、最後の坂で登れなくて困ってるんだけど……なにかコツ、教えてもらえたらなぁって思って」

 アズナさんは少し考えこみ、

「……自転車から降りて歩くことやな」
「えっ」

 ここで冗談を言われるとは思わなくて、一気に脱力する。たしかに、自転車から降りて歩けば山頂に着くけれどそういう問題じゃない。

「そういうことじゃなくて……」
「もともと自転車の基礎すらなってないキミがあの峠を地に足つかず登れるワケないやろ。バカなの、キミ」
「それはわかってるけど……。冬になる前に登り切りたいんだよね」

 冬になると寒くなり、ただでさえ苦しい登坂がさらに苦しくなってしまう。最近、風が強い日が増えてきたし、なるべく早めに制覇したくなった。

「……しいていえば、登れないって考えは捨てろ。ゴールした瞬間の自分の姿を描くんや」
「ゴールした自分……」
「ボクはそれで、多くのレースの走ってきた」

 今まで、頂上を目指して走ってきたつもりだったけど、心のどこかで「本当に登りきれるのかな」っていう気持ちはなかったとは言い切れない。アズナさんの精神論は私にとって、自分で気づかなかったところを突いてきた。

「……ま、キミの場合、気持ちよりもまずペダリングからやけどな」

 アズナさんがサドルに跨がり、クリートのついたシューズをビンディングペダルにはめる。

「アズナさん、ありがとう」
「なに言うとるん、キミ。ボクの話はまだ終わってないよ」
「……うん?」
「今からボクがキミのフォームを矯正する。まずはいつもどおり、この道を自転車で走るんや」

 アズナさんのやろうとしていることをやっと理解して、破顔する。

「早く自転車に乗ってくれ。ボクにも時間というものがあるんや」
「ゴメンゴメン」

 すばやく自転車に乗る。この後のアズナさんの指導は厳しくて終わった頃にはへとへとになったけれど、完全登坂に一歩近づいた。