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 冬が少しずつ近づいていることと、最近台風が日本に上陸しつつあることが相まって、今日は風が強い。悪天候だけど、この日を迎える前に東堂くんやアズナさんに登坂のコツを聞き、指摘されたところはできるだけ直すように努力をした。
 今ならこの峠を登れるような気がする。悪天候という理由で他の日に延ばしたくはなかった。

「風、強いですね。本当に今日登るんですか?」

 なびく髪を手で押さえた真波くんが言った。

「うん。みんなにアドバイスもらったし、今なら登れそうな気がするんだ」
「……そっか。それならさんに付き合います」

 真波くんが自転車に乗り、ペダルを踏む。私も自転車に乗り、真波くんと顔を合わせると同時に走りだした。
 何度か先頭を交代しながら坂を登っていく。次第に風が強くなり、車体がふらついてきた。

「ここからしばらく先はオレが引きます」

 真波くんが前に出る。この強い風に真波くんはびくともしない。

さん。もっとオレの後ろについてください」
「……こう?」

 ペダルの回転数を上げ、真波くんの自転車の後輪に近づく。
 その時、幻でも見たのだろうか――。真波くんの背中から、白くてきれいな翼が見えた。その翼が私を守って風を防いでくれる。

「真波く……」
「余計なことは考えないで。気を抜くと落車しちゃう」

 真波くんのおかげで風は全く受けないけれど、耳を澄ますと風が吹き付ける音が聞こえる。
 真波くんの言うとおり、ここで気を抜けば落車してここまでの登坂が台無しになる。翼のことは考えず、真波くんの背中を視界に捉えてペダルを回す。

『ペダルを回す足に力を入れ過ぎない。一度下まで回したら、ほんの少しだけペダルから足を浮かせるイメージで……』

 東堂くんの言葉を思い出す。ペダリングに気をつけると、苦しくなってきた坂もまだまだ登れるような気がした。

『登れないって考えは捨てろ。ゴールした瞬間の自分の姿を描くんや』

 アズナさんの言葉を思い出す。ゴールしたときの私は、きっとへとへとになって頂上に着いた途端、自転車から降りて地べたに座り込んでいるだろう。頂上に着いたら、どんな景色が見られるのかな。足利峠の頂上にはまだ行ったことがない。

「ねぇ、さん。結構キツいでしょ?」

 振り返らずに真波くんが言った。風が強く、勾配が急な坂を登っている今でも口調はいつもと変わらない。

「うん。クライマーって本当にすごいなぁって思うくらい……キツい」

 登坂を始めて、改めて真波くんをはじめとするクライマーはすごいなって思った。私ならこの峠を登るだけでいっぱいいっぱいなのに、彼らは多くの坂を登ってきた。それがどんなに大変なことか、登坂をしている今少しだけわかった気がする。

「真波くんはさ、なんで登坂が好きなの?」
「こうやって坂を登ってると、心臓はバクバクだし、足はパンパンだし、時々めげそうになるし……全身つらいじゃないですか。でもオレ、その痛みが好きなんです」

 ペダリングに気をつけながら、真波くんの言葉に耳を澄ます。

「痛く感じるって、生きてるっていう証拠じゃないですか。変に思うかもしれませんが、オレにとってそれって結構大事なことなんです。信じてもらえないかもしれないけれど、オレ、昔体が弱かったんですよ? あの頃、部屋の中で過ごすことが多くて……時々オレは、本当にここにいるのかなって思ったりもしました」

 そんなある日、オレを見かねた幼なじみが外に誘ってくれて……その時オレは、自転車に出会いました。強風の中、真波くんが穏やかに語る。

「あの時、形の変わった自転車を選んで、最初はうまく乗れなくて。その時たくさん作った擦り傷も、坂を登っている今の体中の痛みも……オレにとってはかけがえのない証なんです」

 子どもの頃の真波くんを想像してみる。今の彼では全く想像できない、病弱の少年。
 他の子どもと比べて自由に動かせない体に、彼はなにを思ったのだろう。――生き長らえているだけの人形。それに近いことを考えていたのかもしれない。
 自転車の登坂で得られる痛み。五感を研ぎ澄まして、体の変化を振り返る。
 気を強く持たなければ、重心が後ろに移動して簡単に落車するだろう。足は乳酸が溜まっていて、心臓は早鐘のように鼓動を打っている。こんな痛みは、進んで登坂をやろうとしない限り感じられない痛みだ。

「ねぇ、さん。オレは坂を登ることしか知らないけれど。痛みを受け入れる方法だって、あると思うんです」
「真波くん……」

 だから真波くんは私を登坂に誘ったんだ。
 登坂している間、気を紛らわすことが目的なんかじゃない。真波くんは私に、あえてその傷に立ち向かえと言っている。

「ずっと悲しそうなさんの顔を見て、忘れることなんてできないって思ったから。オレには、こんなことしか言えないけれど」

 真波くんの言葉を胸に、荒北くんのことを思い出す。思えば、あの日から逃げていたのは荒北くんじゃなくて私だったのかもしれない。
 荒北くんに拒絶される前の時間に戻って、時々胸が苦しくなるけれど平穏な日々を過ごしたかった。
 この傷に向き合わないまま、全てを荒北くんのせいにしてしまいたかった。
 どんなにふさぎ込んだって、気を紛らわそうと自転車に乗っても。結局今、荒北くんのことを好きな気持ちは変わらないままだ。
 荒北くんのことを忘れたり、他の人を好きになったりすることよりつらいかもしれない。でも、こんなになった今でも、揺るがない気持ちがある。

「そろそろ後ろに下がります。ここからはさんの番だ」

 真波くんが右にそれて、スピードを落とす。

「決して無理はしないでください。途中でやめても、オレは何度でも付き合いますから」
「ありがとう、真波くん」

 真波くんが私の後ろにつく。もう、風から私を守ってくれる翼も、心強い背中も私の前にはない。
 強く風が吹いて、ふらつきそうになる。つらいなって思った時、今まで思い出すのを避けていた声が聞こえた。

『前だけを見ろ』

 そういえばこの言葉、聞いたことがあるなと思ったら。小さい頃、自転車になかなか乗れなかった私に福富くんが言った言葉だ。
 福富くんは数年の時を経て、彼に同じことを言ったのだろう。道理で彼が考えたには固い言葉だと思った。

 めんどくさいって言うわりに、夜も時間を割いて自転車の練習をするひたむきなところが好きだった。

 なかなか心を開かないぶっきらぼうな人だけど、優しいところが好きだった。

 彼が伸びる様を、かなうことなら近くでそのまま見ていたかった……。

 前のように近くにいることはもうできないけれど。でも、こんな状況になった今も、荒北くんにはインハイに出るという夢をかなえてほしいと思う。
 今の登坂と同じように、時々切ない気持ちを思い出しては胸が痛むのだろう。それでも私はこの場所にいたい。どんなに傷ついても、遠くの位置から荒北くんを応援したいって思う。
 ――これが、私の答えだ。

 ペダルを回す。今まで鉛のように重かった足は、嘘のように軽くなった。


 頂上に着くと、真っ先に自転車から降りた。膝の力が抜けて、地べたにそのまま座り込む。
 辺りを見渡すと、「足利峠 頂上」という文字が書かれた素朴な木の看板。風が強い今日この峠に好んで来たライダーは私と真波くんの二人だけで、人気は皆無だ。

「お疲れ様」

 ほっぺにひんやりとした感触。真波くんがアクエリをくっつけてきた。
 アクエリを手に取り、真波くんを見上げる。

「ありがとう、真波くん。真波くんが引いてくれなかったら私、この峠を登ることができなかった」
「いいえ。これはさんの力です。最後の激坂、ずっとさんが登ってたんですよ?」

 言われてやっと気がつく。なかなか越えられなくて苦戦していた最後の坂を、私は荒北くんの言葉を思い出して登り切っていたのだ。

「山の頂上って空気がいいね。これで天気がよかったら最高なんだけど……」

 空を仰ぐと一面に曇り空。落ち着いたら頂上から見える町並みを見るつもりだけど、この天気じゃあまりいい景色は見られないだろう。
 真波くんの隣でアクエリを一気に飲む。山頂の冷たい風が、火照った体を冷ました。