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「そんな登坂した後で今日も来るなんてバカなの?」

 足利峠を完全登坂した翌日の月曜日。早朝のサイクリングロードでアズナさんに報告すると、こんなことを言われた。
 一時期荒北くんに似てるって思ったけれど撤回しよう。荒北くんの方がまだ言葉にトゲがない。
 けれどアズナさんも彼と似たようなもので、素直になれない人だと思うと特に反感は持たなかった。……でも、少しは褒めてほしい。

「まぁいいわ。ちょうどキミに言うことがあったんや。……ボクは明日からここに来れへん。引っ越すことになった」
「こんな時期に?」
「あぁ。高校でやりたいことがあってな」
「高校かぁ……。……うん? 高校?」

 アズナさんを上から下まで見る。てっきり同い年だと思ってたけど……

「アズナさん、中学生だったの!?」
「そんなに驚くことか」

 アズナさんがぷいと顔を背ける。今の言葉が気に障ったようだ。

「アズナさん、今までありがとう。アズナさんのアドバイスがなかったら私、あの峠を登り切ることができなかった」

 あの時スパルタで指導してくれたアズナさんのコーチは的確で、登坂をするのに大いに役立った。真波くんと同じく、感謝してもしきれない。

「……みどうすじ、あきら」
「うん?」
「御堂筋翔。これがボクの名前や」

 こんなところで名前を教えてくれるとは思わなかった。忘れないように、しっかり覚えておこう。

「キミのこと、本当は知っとるわ。箱学自転車部のマネージャーやろ」
「なんで知ってるの?」
「インハイの時に眉間にしわ寄せて給水所に立ってたのよう覚えとるわ」

 最終日辺りの話だろうか。まさか他の人の目にそう映っていたのかと思うと一気に恥ずかしくなる。

「京都伏見という高校の名前、ちゃんと覚えとけ。来年のインハイで箱学をぶっつぶす」
「それなら、なんで箱学のこと聞いてこなかったの?」

 御堂筋くんなら、箱学のことを聞いても私は不審に思わずに答えていただろう。そのくらい、私は彼を信頼していた。

「別に、キミに聞くまでもないし。その辺の情報収集は自分でやるわ」

 御堂筋くんが自転車に乗る。これから次、御堂筋くんに会うのはおそらく来年のインターハイだ。
「さよなら」なんて言葉は合わないし、「またね」なんて言葉は御堂筋くんが好まないだろう。だから私は、あの時巻島くんや田所くんに向けて言った言葉を、御堂筋くんにも言おうと思う。

「うちの自転車部は強いから負けないよ」

 御堂筋くんが背中を向けてペダルを踏む。
 カチンと歯をかんだような音が鳴って、そのままペダルをこいでいく。

「ありがとう、アズナさん。次はインハイで会おう」

 振り返らずに走る背中を、見えなくなるまで見送った。


 昨日の風が一段と強くなり、時々大きく吹き付ける風の音がする。
 なんだか胸騒ぎがする、あまり気持ちのよくない天気。今日の部活は室内練習になるだろう――と思いきや、自転車部は急きょ休みとなった。
 放課後の予定がなくなってしまった私はウサギ小屋に足を運び、ウサ吉と遊んでいた。ウサ吉は先月換毛期を迎え、茶色かった毛並みが、今は雪うさぎのように真っ白だ。太ったのか体重も重い。

「あっ、さん! ちょうどいいところに!」

 フェンス越しに私に声をかけたのは、クラスメイトの田島くんだった。

「荒北にさ、明日の放課後保健委員の集まりがあるって伝えておいてくれる?」
「自分で言いなよ……」

 一度目は同情で協力したけど、二度目はちょっと……。というか、私は伝書鳩じゃない。

「だってさん同じ部活じゃん? クラスメイトのよしみってことで」

「でも」と言うと同時に田島くんが逃げる。田島くんめ、明日覚えてろ。
 明日彼をどうこらしめてやろうかと考えながらポケットにある携帯電話を取り出す。メール作成画面を開いて、久しぶりに荒北くんのアドレスを呼び出して――携帯を閉じる。
 メールで伝えた方が早いけれど。荒北くんに会って、直接伝言を伝えよう。


 旧校舎の近くに行くと、猫とたわむれている男子生徒の姿が見えた。彼が一人でいる時に声をかけるのは久しぶりだ。

「荒北くん」

 声をかけると、荒北くんは驚いて私を見た。

「なんだ、お前か」

 驚いて損した、と言わんばかりに視線を戻し猫をなでる。
 猫は私に気づいた瞬間、びくりと反応して脱兎のように逃げていった。

「あっ……」

 荒北くんの手が行き場を失う。困って、とりあえず立ち上がって私に視線を向けた。

「で、何の用だよ」
「田島くんが、明日の放課後保健委員の集まりがあるってさ」
「ふぅん。そっか」

 久しぶりにふたりきりのときに言葉を交わしたけれど、やっぱりどこかよそよそしい。でも、痛みと向き合うって決めた今、不思議とつらくはない。

「それじゃあ」

 その場を去ろうとすると、

「……足利峠、登れたか?」

 荒北くんの表情は変わらない。まさか、峠のことを聞かれるとは思わなかった。

「登れたよ」

 頂上に行った時の達成感を思い出して、微笑混じりに答えた。
 荒北くんに話は終わった。今度こそ去ろうとすると、びゅうっと強い風が吹いた。砂埃が目に入る。
 髪やスカートの裾を押さえて、目を瞑る。
 上から金属音がした。とても嫌な予感がして、目を開けて空を仰ぐ。
 旧校舎の屋上からフェンスの一枚が剥がれるように落ちる。フェンスの落ちる場所が荒北くんの立っている所だとわかった時、体が動いた。
 ――荒北くんが怪我をするなんてダメだ。そんなことをしたら、今まで荒北くんが積み重ねてきたものが全部台無しになってしまう。
 荒北くんが目を開ける。私はありったけの力を両手にこめて、荒北くんの胸を押した。――できれば、彼が怪我しない、遠くの位置まで押し出すように。
 荒北くんを遠ざけることにいっぱいいっぱいで、自分を守ることまで頭がまわらなかった。でも、こうでもしないと荒北くんは怪我をする。

――?」

 荒北くんが手を伸ばす。体は後ろに飛んでるからきっとその手は届かない。
 これから起こることを思い浮かべる。怖くて、でも大丈夫だよと精一杯笑ってみせる。
 だって、君が自転車に乗れるのなら。速くなれるのなら。それだけで私は幸せなのだから。
 荒北くんの手が届く前に、体が地面に強く叩きつけられた。
 その瞬間、意識がなくなった。