53
翌日の日曜日。荒北は電車を乗り継ぎ、中学の時の母校を訪れた。待ち合わせの時間より少し早めに来て、母校の周りをぐるりと歩く。
南雲たちと話しながらくぐった正門、年季が入った校舎、こぢんまりとした野球部の部室。
「懐かしいな……」
一周した時、荒北が一人つぶやいた。
今日、南雲と過去のケリをつけるために、荒北はあえてここを選んだ。肘を故障するまではまぶしい思い出がたくさんあって、肘を故障した後はちくりと胸を刺すような思い出がたくさん詰まった母校。卒業する時、二度とここに来ることはないだろうと思っていた。
(まさか、もう一度ここに来るなんてな……)
フェンス越しに、グラウンドで野球部が練習試合をしている様子が見えた。数年前に見かけた時はすぐに目を背けた光景だが、今は昔を懐かしむ余裕がある。
中学生だったあの頃はマウンドの上に立って、多くのボールを投げていた。今となっては遠い昔の出来事のように懐かしく感じる。
「靖友」
背後から自分の名を呼ぶ声に振り返る。呼んだのは南雲だった。
「久しぶり。インハイ以来だな」
「うん。今日は誘ってくれてありがとう」
たわいのない話をしながら、かつて野球部にいた時走り込みでよく通った土手を二人で歩く。
最初は上側を歩いていたが、南雲に「川沿いを歩こう」と言われ下側に移った。市内を二分する川は静かな音を立てながら流れ、時折吹く風が心地いい。
「なぁ、南雲。単刀直入に聞くけど……オレのこと、怒ってるか?」
「怒ってるって?」
「オレが野球部を辞めた後のことだ。オレはお前に、ひどいことをした」
やはり南雲はあの日々のことを忘れているのだろうか……。荒北が落胆しかけた時、南雲は大きくかぶりを振った。
「怒ってなんかないよ! むしろボクは……あの時、どうして靖友の故障に早く気づけなかったんだろうって後悔ばっかりで……!」
「南雲……」
「本当は久しぶりに会ったあの日、あの時のこと、謝ろうって思ったんだけど……もし靖友が怒っていたらかえって嫌な気持ちにさせるだけだって思って……結局なにも言えなかった」
だからあの時南雲は、何事もなかったかのように自分に接してきたのか。
南雲は忘れてなどいなかった。自分と同じように、過去にどう向き合ったらいいのかわからず、不器用に接していた。ここまで来て、そのことがようやくわかった。
納得した荒北が頭を下げる。
「ワリィ、南雲。もう遅いかもしれないけどよ、お前にはたくさん迷惑をかけた」
「そんな、謝らないでよ。君はなにも」
「いいや、した。オレがふてくされても、お前だけはオレの味方でいてくれた。なのにオレは、肘を壊したことを周りのせいにして、お前のことも遠ざけた」
「靖友……」
あの時心を閉ざした自分がもどかしくて、唇を強くかみしめる。謝っただけで今まで自分がやってきたことが許されるとは思っていない。
だからこそ、荒北は自分自身のやり方でけじめをつけるためにここまで来たのだ。
「……殴ってくれ」
「えっ……?」
「あの時はオレから殴った。次はお前の番だ」
荒北が頭を上げ、南雲を見据える。南雲は予想どおりうろたえていた。
「なんで……そんなことしなくてもボクは……」
「お前の今までの苦労考えたらこれは当然のことだ。オレは今日、過去にケリをつけるためにここまで来た。謝るだけで許してもらおうなんざ思ってねェし、お前がそこまでやってくれないとけじめがつかねェ」
南雲の視線がさまよう。やがて荒北を見て、
「じゃあ、靖友もボクを殴ってよ」
「……は?」
なにを言ってるんだコイツは。今度は荒北がうろたえた。
「ケンカしてから、ボクは靖友のことを忘れようとした……。一番ひどいことをしたのはボクだ」
「バカ! それはオレが……!」
「だから、ボクが一番悪いんだ!」
「オレが悪いっつってんだろ!」
「ボクだよ! なんで君はいつも強情なんだ!!」
「強情なのはお前だろ!? どっからどー見たってオレのせいじゃねーか!」
「なんでこんな時だけ自分のせいにするんだよ!! 今まで散々ボクが悪いって言ってたじゃないか!!」
両者の顔が真っ赤になる。
(そんなに言うなら、オレから殴ってやるよ……!)
(そんなに言うなら、ボクから殴ってやる……!)
二人の拳が交錯する――
数分後、荒北と南雲は草むらの上に大の字になって仰向けに倒れていた。頬や胸がヒリヒリと痛む。
(に会う前に手当てしとかないとな……)
痛みが刺す頬をさすりながら荒北は思った。こんな状態で会ったら、は間違いなく慌てるだろう。
「……オマエ、途中から本気出したろ」
「靖友も本気だったじゃないか……」
最初は手加減をした殴り合いだった。いつからか本気の殴り合いになってしまい、気がつけば両方ともボロボロになっていた。
なんでこんなことになったんだ……。先ほどのことを思い返していたら無性に笑いたい気分になり、荒北が大声で笑う。荒北の笑い声を聞いた南雲がつられて笑った。
「なんか、お前とこうやって本音でぶつかったの、初めてな気ィする」
南雲とは二年間、バッテリーを組んで多くの時間を過ごしてきた。
当時はなんでも話せる一番の親友のように思っていたが、今の荒北から見ると腹を割って話したのは今回が初めてのように感じた。
「ボクもそう思う。思い返せば中学の時、靖友の顔色うかがってばかりだった気がする。先輩には大口叩くし、今だから言えるけど……結構ヒヤヒヤしたんだよ?」
「オレも。お前気が弱いからオレなりに気ィ使ってた気がする」
「本当かなぁ、それ。あんまりそういう風には見えなかったけれど」
南雲が笑う。たしかにオレなりに気を遣ってたんだぜ、と荒北がそっぽを向く。
「ねぇ、靖友」
「ア?」
「いつの日かした話、覚えてる? 好きな女の子の話」
「ん? あぁ……」
うっすらとではあるが覚えている。あれは中学二年の時、荒北が肘を壊す前のことだ。
部活動の時間になっても南雲の姿が見えない。南雲がいないと投球練習ができない荒北は南雲の姿を捜し、校舎裏で彼の姿を見つけた。
「好きです、付き合ってください」告白する女子と、「ゴメンね」と謝る南雲の会話が聞こえてきた。
女子は頭を二度下げ、その場を逃げるように去っていった。女子の姿が見えなくなった時、物陰からこっそり様子をうかがっていた荒北は南雲の前に姿を現した。
「よくやるよ」
南雲のあどけなさを残した甘い美貌と、学年の中でも際立って優しい言動に女子からは壮大な人気があった。時々女子が南雲を呼び出しては告白する光景を荒北は何度も目にしたことがある。
「靖友は好きな子いないの?」
「いねーよ、んなモン」
荒北の中で女子といえば口やかましいかすぐ泣くかのどっちかに分かれる。大好きな野球に打ち込むことで心が満たされる荒北は、この時色恋沙汰に興味を持つことはなかった。
女に時間を割くくらいだったら投球練習をするなり練習試合で経験を積むなどして、夢のために一歩近づく方が有益だと思っている。
「そういう南雲はどうなんだよ」
「ボクもいないなぁ。野田くんが彼女と一緒にいるところを見て、楽しそうでいいなぁってたまに思うんだけど」
「そうかぁ?」
野田は同じ野球部の部員で、たまに彼女が部活にやってきては野田に差し入れをして「お前のために頑張るから」「応援してるよ、野田くん」と見てるこっちが砂糖を吐きそうな甘い言葉を交わしている。
「野田がうらやましいからってお前も女にうつつを抜かすなよ。お前はたった一人のバッテリーなんだ。そうなったらオレが一番困る」
「はいはい」
南雲が苦笑する。本当にわかっているのかと思った荒北は不服そうな目で南雲をにらんだ。
「靖友は今はそう思うかもしれないけどさ。もしかしたらこの先、いい子に巡り会えるかもしれない」
「どうだか……」
肩をすくめる荒北。こんなにひねくれた自分を好いてくれる女子ははたしているのだろうか……。想像はつかないが、ただひとつ。いたとしたら、そいつはかなりの物好きだ。
「スポーツに打ち込むのも大事だけどさ。もし、好きな女の子ができたら……その子のこと、大事にしてあげてね」
「あれからさ、好きな女の子できた?」
草むらに寝そべったまま南雲が言った。
「……あぁ、できた。今年の秋からスランプに悩まされて、お前と同じように突き放したけれど……それでも、オレのことを守ってくれた優しいヤツだ」
の顔を思い浮かべる。まさか彼女が、南雲が言っていた人になろうとは。初めて会った時には思いすらしなかった。
「その人ってさ、もしかして自転車部のマネージャーさん?」
「なんで知ってるんだよ!?」
荒北がばっと上半身を起こす。
「実はインハイ一日目の夜、靖友とその子が一緒にいるの見かけたんだよね。靖友が照れくさそうにしていて、すぐに好きな子なんだってわかった」
荒北の頬に朱が差す。一発で南雲に看過されるようじゃ、この先人前でのに対する態度も考えなければならない。
「あの時、野球から自転車に変えたんだって気づいて、とても寂しくなったけれど。その子と楽しそうにしている姿を見て、靖友の心から笑った顔を久しぶりに見て……うれしく思ったよ。靖友がもう一度前を向いたんだって」
南雲が半身を起こして荒北に問う。
「ねぇ、靖友。靖友は自転車部でどこまで行くつもりなの?」
その言葉は以前も聞いた記憶がある。野球部に入部したての頃、南雲は似たようなことを荒北に聞いた。
『ねぇ、荒北くん。荒北くんは野球部でどこまで行くつもりなの?』
「てっぺんに決まってンだろ。オレ、来年のインハイ目指して毎日必死に練習してるんだ。お前のダチの……京都なんとか? 悪いけど負けねェから」
あの頃と同じように、不敵な笑みで荒北は言った。それを見た南雲が微笑む。
「応援しているよ。今度こそ君が頂点を見られるように。来年のインハイ、必ず応援に行くから……」
南雲と別れ、再び電車に乗り元来た道を戻って箱根に着いた。箱根に着くと、今度はバスに乗り目的地に向かう。
バスから降りると、空はほんのりと茜色に染まっていた。道なりに歩き、周囲を見渡す。
川が一望できる所に、彼女の後ろ姿が見えた。
「」
荒北がに声をかけ、彼女の隣に並ぶ。
「荒北くん」
「遅くなってワリィ」
「ううん。暇だったし大丈夫だよ。……それより、その顔どうしたの?」
荒北の頬には小さく切ったガーゼが貼られている。
「あぁ、気にすんな。青春の証だよ」
「ふぅん……。そっか」
が再び川を見る。荒北も倣い川を見ると、夕日の光が差し込んでいて水面は宝石のようにきらきらと輝いて見える。
何度かこのサイクリングロードに来たことはあるが、景色をじっくり見たのは今回が初めてだ。夕日の光が反射して光り輝く水面がこんなにも美しいものだとは思わなかった。
幼かったあの頃、思い描いていた自分とは大きくかけ離れた道を歩いてしまった。
あの頃の夢だった野球選手になることはもうできないけれど、こんな自分も嫌いじゃない。
が荒北を庇って怪我をした後、荒北はまずなにをすべきか悩み、ひとつの決意をした。
(と向き合うために、昔の話をしよう)
思えばを突き放したのは、昔のしがらみが原因だった。あの事故を経て、に向き合うと決めた荒北は、まずは自分の過去を話すことに決めた。
夕日を見て、どこから話をしようか迷う。
迷った末に、小さい頃に思い描いていた夢から話すことに決めた。
「に、聞いてほしいことがあるんだ」
「……うん」
「オレ、ガキの頃から野球が好きでさ」
穏やかな風が吹く。荒北は凪いだ心で、昔のことを静かに語り始めた。