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愛車を携えて久しぶりにこの道を訪れる。
肌寒い季節が終わりに近づき、最近まで雪が積もっていたサイクリングロードはほとんど雪が溶けていた。
サドルに跨がり、ペダルを回す。徐々にスピードを上げると、体中に気持ちのいい風を受けた。
ゆっくり走っていると、一人のライダーが私を追い抜いていく。
追い抜いた人を見ると、黒を基調としたサイクルジャージ。すらっと細身な体躯に、去年の秋に出会ったあの子に見えるけれどそれは違う。あの子はもっと手足が長くて、ヘルメットからシューズにかけて全身黒で固めていた。
なんとなく追い抜かれたのが悔しくてスピードを上げる。
カーブに差し掛かると私はブレーキのレバーをひいて減速をしたが、男は速度を落とさずにカーブを曲がり――
ガランッ!!
男の乗っていた自転車が派手に横転した。
「だっ、大丈夫ですか!?」
急いで自転車を止めて、尻もちをついている男に声をかける。
「痛ってェ……」
顔をしかめた男と目が合った。
「……ンだよ」
「立てますか……?」
しゃがんで男に手を差し伸べる。
「ガキじゃねーし一人で立てらぁ」
男は一人で立ち上がろうとして――
「……なんてな」
私の手をつかんだ。
私は男の手を握ると、力を入れて後ろに引いた。男が立ち上がる。
「まさか、またここで転ぶなんてな」
同じ学校の同じ部活仲間であり、クラスメイトであり――私の好きな人でもある荒北くんは笑って言った。
「走るにはまだ早かったかな。路面、凍ってるし」
よく見るとアスファルトの上に霜が降りている。やっぱり、この道で走るのは早かったかもしれない。
「ま、ゆっくり走る分には問題ないだろ。……足はもう、大丈夫なのか?」
荒北くんが私の足元を見て言った。数ヶ月前にしていた包帯は全部取れている。
「もう大丈夫だよ。その代わり、せっかくみんなに教えてもらった走り方のコツ忘れちゃったけれど」
ここまで自転車で走ってきたけれど、以前のような走りができていないような。なにか大事なことを忘れているのか、ただのブランクなのかはわからない。
「じゃあオレが見てやんよ。一回走ってみろ」
「えっ、でも……」
荒北くんに自分の拙い走りを見られるのはなんだか恥ずかしい。
「遠慮すんな。行くぞ、」
荒北くんがサドルに跨がり、ペダルを回す。私も自転車に乗り、荒北くんの後を追いかける。横目で風景を見ると、前に彼と長いこと話をした場所が視界に入った。あの日からもう三ヶ月経ったんだなって思うと、時間の経過が早く感じる。
ここで、あの日の出来事の続きを語ろう。
あの日、荒北くんは時間をかけて、昔プロの野球選手を目指して練習に励んでいたこと、肘を壊したことがきっかけでその道を諦めたこと、周囲に心を閉ざしたこと、福富くんと出会って自転車部の門戸を叩いたこと、そして……私を突き放した理由を教えてくれた。
荒北くんが全てを話し終えた頃、空の色が大きく変わっていた。話し始めた時には茜色だった空が今では紺色が混じり、空の向こうにうっすらと一番星が見える。
「お前に言わなきゃいけないことがある」
荒北くんが私に向き直る。私も同じように向き直り、まっすぐに荒北くんを見つめる。
「ここまで来るのに、だいぶ時間がかかったけれど。オレは、お前のことが好きだ」
いつからかわかっていたけれど、改めて言われると胸にこみ上げてくるものがある。
その言葉に、私も荒北くんに言わなくちゃいけないことがある。
「私も、荒北くんのことが好き。もしかしたら、また荒北くんの足を引っ張っちゃうかもしれないけれど。それでも私は荒北くんの隣にいたい」
荒北くんの頬が朱に染まる。たぶん、私も同じくらい真っ赤になっている。
「両思いってヤツだな。……でも」
荒北くんの顔がうつむく。
「今はと付き合うことはできない。見てのとおり、オレは来年のインハイを目指して自転車に乗っている。……正直、お前に割く時間がない」
「……うん」
予想していた言葉だった。
もしこれで「付き合おう」なんて言われたら、うれしいけれど怒ってた。荒北くんの目指していることを思えば、今は付き合うべきじゃない。
「付き合うことはできないけど……オレ、もうお前を離さないって決めたから。インハイが終わった後も、この気持ちが絶対に変わらない自信がある。だから、事が全部終わったらオレはもう一度に告白する。その時、お前の返事をもう一度聞かせてくれ」
「……うん」
「オレはそんなことしないケド。もし途中で他のヤツのことを好きになったり……お前の気が変わったりしても、オレはお前を責めないから」
「……でも嫌だけど」荒北くんが小声で付け足した。そんなこと言わなくても、荒北くんと同じで、私の気持ちは今も未来も変わらないと思う。
「だから、しばらくは仲間としてよろしくな」
「懐かしいなぁ」
荒北くんにフォームをたくさん指摘されてへとへとになった休憩中。ボトルを飲みながらあの時のことを思い出し、一人つぶやく。
「なにが懐かしいんだ」
「なんでもない」
荒北くんは「ふぅん」と不服そうな相づちを打ってボトルを飲んだ。
あれから私は荒北くんの自主練習を再び手伝うようになった。荒北くんが過去に向き合って強くなったからか、スランプには今のところ悩まされていない。
荒北くんに接する態度は以前とあまり変わらない。その逆もしかり。時々、ちょっと手が触れたときに妙な空気になることと、二人でいるときの荒北くんの私に対する呼び方が、名前に変化しただけだ。
「私も、呼び方変えた方がいいのかな?」
「呼び方って何の?」
「靖友くん……って」
思えば私のことを名前で呼んでくれる新開くんや、幼なじみの福富くんでさえ名前で呼んだことがない。こうやって男の人を名前で呼ぶと、やっぱりなんだか恥ずかしい。
それを聞いた荒北くんがきょとんとして耳が赤くなり、赤くなったかと思いきや眉間にしわを寄せて……
「却下。部活中にオレのこと名前で呼んだらアイツら不審がるだろ」
「でも、荒北くんだって私のこと下の名前で呼んでるし……」
「オレは場合によって使い分けてるし。変なところでうっかり名前呼ぶヘマもしねェからいいんだヨ」
荒北くんの言葉に理不尽さを感じながら、まだ雪が残っている遠くの野原を見る。
「……もうすぐ、春になるね」
「ん? あぁ、そうだな」
あの雪が完全に消える頃には春になって……私にとって、最後の高校生活の春が訪れる。
その先には夢焦がれていたインターハイが待っている。こうやって荒北くんの隣にいられるようになったけれど、ここから始まったばかりで、まだまだこの物語の終着点は先にある。
遠くに、箱根山に向かって一直線に飛ぶ白い鳥が見えた。不意にあの時、足利峠で私を引いてくれた真波くんの白い翼を思い出した。
「春になったら今度は箱根山に挑戦しようかな」
「頑張れヨ」
「……手伝ってくれないんだ?」
「登坂、苦手じゃねーけど嫌いなんだよ」
「ま、時々は付き合ってやるけどよ」どっちつかずの荒北くんの言葉に、私は小さく笑った。