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終業式前に、荒北くんにこんなことを言われた。
「オレ、終業式終わった次の日実家に帰るから。しばらくこっちにはいねェけど、間違えて学校に来んなよ」
間違えて学校に来るなとは荒北くんの自主練習のことを指しているのだろう。ぽかぽか陽気ですっかり春だけど、荒北くんが言うほどボケてはいない。
荒北くんの姿が見えない部活に少しだけ寂しさを感じながら、一日一日を一生懸命過ごしていく。
そろそろ荒北くんの顔が見たいなぁとちょっとだけ思った時、ポケットの中にある携帯が振動した。
部活の休憩中に携帯を取り出して画面を確認すると、荒北くんからメールだ。
『今日の夜暇?』
件名もない、六文字のメール。そういえばいつ実家から寮に帰ってくるのか聞いていないけれど、今日帰ってきて早速自主練でもやるのだろうか。
「暇だけど、自主練でもやるの?」とメールの文面を入力して送ると、すぐに返事がきた。
『空けて待ってろ』
携帯の画面を半目で見た。
荒北くんからのメールは非常にシンプルで、文字を入力することすら面倒なのか時々聞きたいことに答えてくれない。
メールの画面を閉じると、待ち受けに表示されている日付を見て今日はエイプリルフールであることに気がつく。せっかくだから今日は荒北くんになにか嘘でもつこうかな……。そう考えたものの、この後の練習が忙しくて、部活が終わる頃にはすっかり忘れてしまった。
夜、家で今日のごはんはなににしようかと考えながら荒北くんの連絡を待っていた時だった。
玄関のチャイムが鳴る。こんな時間に家を訪ねてきたのは真波くんだろうか? 玄関まで歩き、ドアを開く。
「…………」
夢でも見ているのだろうか。荒北くんにそっくりな人が仏頂面で立っている。まさか、荒北くんが私の家に来るはずがない。しかも、大きなボストンバッグを携えている。
これは夢だと思いそっとドアを閉める。ドンドンドンッとノックの連打音が聞こえた。
おそるおそるドアを開くと、また荒北くん似の人が立っている。先ほどよりも二割増しで険しい表情になっている。
どう考えても荒北くんがここに来るわけがない。ドアを閉めようとすると、閉めさせまいと荒北くん似の人の手がドアに伸びる。
「オレだっつーの!! 閉めんなっ!!」
彼の力強い腕力に、これが夢ではないことがやっとわかった。
とりあえず私は荒北くんを家に上げた。リビングにあるソファに座ってもらう。
荒北くんの近くに置いた湯のみに、急須を持って温かいお茶を注ぐ。「どうぞ……」と言うと荒北くんは「サンキュ」と言ってずずずっと茶を啜った。
「で、荒北くんなにしに来たの?」
「見てわかんねーのかよ。……泊まりに来たんだヨ」
床に置いた大きなボストンバッグに視線を落として荒北くんが言った。数秒かけて荒北くんの言葉を呑み込み、踵を翻す。
――きっとこれは夢だ。寝よう。
「逃げんなっ!!」
荒北くんに肩を強くつかまれる。なんだ、夢じゃない。
「第一、こんな広い家空き部屋なんていくらでもあるだろォ!?」
「あるけど……あるけど……」
「じゃあオレが泊まったって別に問題ないだろ。布団があって空いている部屋は?」
「そこの廊下を出て右に曲がった突き当たりの部屋です」
「今日はそこがオレの部屋だ。言っとくけど、入るときはノックしろよ。そうしないと許さねーからな」
言うなり荒北くんはボストンバッグを持って、ずんずんと足音を立ててリビングを出て行ってしまった。
「……ここ、私の家なんだけどな……」
荒北くんがいなくなったリビングで、ソファに座り腕を組んで考え事をする。
なんで突然、荒北くんが家に来たんだろう。まさか今日のエイプリルフールにちなんで、日付が変わる時間になる前に「バァカ! 今日はエイプリルフールだよ!」って言って寮に帰るのだろうか。
「……そんなことはしないよね」
荒北くんの性格を考えたら、さすがにそれはないか。
でも、荒北くんが家に来るなんて風邪をひいたあの日以来だし、どういう風の吹き回しだろう。
もしかしたら荒北くん、なにが原因なのかわからないけれど寮を追い出されたのだろうか。それで泣く泣く私の家を訪ねてきたと。荒北くんの力にはなりたいけれど、それとこれとは話が別だ。私にとって荒北くんは特別な異性で、付き合っていないならちゃんとした線引が必要だろう。……いや、付き合ってても必要だけど。
荒北くんはああ振る舞っているけれど、彼も男の子だし、もし仮に荒北くんと一つ屋根の下で暮らすことになれば、毎日気が抜けないわけで……
「もしもしィ?」
「わっ」
気がつけば荒北くんが私の顔をのぞきこんでいた。危うくソファをひっくり返すところだった。
「オマエ大丈夫かぁ? もしかして春ボケ」
「春ボケじゃないよ……」
むしろ荒北くんのせいだ。
「ところで、はメシ食ったのか?」
「ううん、まだだけど……」
「じゃ、台所借りっぞ」
「いいけど……」
荒北くんが台所に向かう。まさかとは思うけれど、念の為に聞いてみよう。
「……荒北くん、なにするの?」
「決まってンだろ、料理だよ料理」
テレビを見ているフリをして、横目で荒北くんの様子をうかがう。
荒北くんが普段私が使っているリボンつきのエプロンを着て台所に立っている。先ほどダメもとで写真を一枚撮らせてもらえないかとお願いしたら、その時彼が片手に持っていた卵をぶつけられそうになった。危ない危ない。
しばらくして、料理ができた。テーブルの上にはチャーハンや冷凍庫から引っ張り出したであろう唐揚げ、不器用に盛りつけたサラダと、形はちょっと崩れているけれどおいしそうな厚焼き卵が並んでいる。
「いただきます」
「いただきます……」
つけっぱなしにしたテレビの横で、二人同時に合掌して料理を食べる。荒北くんが作ってくれたチャーハンは、むきエビやミックスベジタブルが入っている。隠し味にマヨネーズが入っていて、男らしい味付けだ。
厚焼き卵も食べてみる。出汁がきいていておいしい。
両方ともおいしいんだけど、まるで新婚生活のようなこの光景(料理は荒北くん作だけど)に私はどう対応していいかわからず、荒北くんも黙々とごはんを食べている。どうしよう、なにか喋らなきゃ……!
「この唐揚げおいしいね!」
「……それ、冷凍だけどな」
「…………」
「…………」
私のバカバカバカバカ!
緊張のあまり褒める対象を間違えて、頭を抱えて大きくかぶりを振っている。……頭の中で。
「……そういえば」
「はっ、はいっ」
「なにキョドってんだよ。タオルのある場所ってどこだ?」
「た、たおる?」
「風呂入るのに必要だろ? 持ってこようと思ったら寮に置いてきちまってよ、んちにあるの借りてェんだ」
「タオルなら洗濯機の上にまとめて置いてあるよ」
「そっか。わかった」
時々真波くんや友達が家に上がってくるので、いざ誰が来てもいいように見られて困るものは常にしまうよう心掛けている。前に荒北くんが私をおぶって部屋に入ってきた時、部屋が散らかっていることにあれからすごく反省したし、その辺ぬかりはないのだ。
「あれ……」
ふとあることに気がつく。この家には私一人しかいないので当然、シャンプーは私の物しかない。
たぶん、荒北くんはそのシャンプーを使うのだろう。お風呂から上がった荒北くんの髪から、ふわりとそのシャンプーの香りがすることを想像して……
「ごほっ、ごほっ!!」
「だっ、大丈夫か!?」
「大丈夫だよ」と手でジェスチャーをして、近くにあるコップを手に取って水を飲む。水を飲んだ後、深呼吸をしたらやっと気分が落ち着いた。
「……お前、もしかして風邪ひいてるんじゃ」
「そんなことはないよ!!」
「な、ならいいんだけどヨ……」
皿洗いは荒北くんが全部一人でやってくれた。さっきから私なにもしてないし、なにか話そうと思えば裏目に出るし……。ソファの上で膝を抱えて一人反省会をしていると、
「風呂、ありがとよ」
荒北くんがリビングに入ってくる。タンクトップ姿で首にタオルをかけて、頬に滴る水滴をタオルで拭いている。
「う、うん……」
恥ずかしくなって目を背ける。荒北くんのタンクトップ姿は部活でよく目にするけれど、今に限って妙になまめかしく見えてあんまり直視できない。
「……あのさ、。明日空いてるか?」
「うん? 空いてるけど?」
「じゃあ、デートすっぞ」
「うん。……えっ?」
今、荒北くんがさらりと大事なことを言ったような。
「じゃ、オレ寝るから。おやすみ」
「おやすみなさい……」
荒北くんがいなくなった後、彼が言っていた言葉を心の中で何度も復唱する。
「……そうだ、エイプリルフールだ」
そう結論づけた私はとりあえず寝ようと思い、ソファから立ち上がった。