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 不思議な夢を見た。夜、荒北くんが突然家にやってきて、泊まるぞと言い出してはごはんを作り、お風呂に入って、次の日デートするぞ。おやすみと言って奥の部屋に消えていく夢だ。きっと自転車部の練習に疲れてこんな夢を見るのだろう。
 朝起きて、顔を洗って寝間着から私服に着替えた私は昨日見た夢にそう結論づけた。
 夢だと思う。夢だとは思うけれど……万が一のときに備えて、いまだにドアが開くことのない奥の部屋に侵入を試みる。
 息を呑んで、ドアノブに手をかける。意を決してドアを開けると――

「――っ」

 その光景を見た瞬間、心臓が大きく跳ねた。
 昨日のは夢じゃなかった。部屋の中には、布団で眠っている荒北くんがいた。寝ているうちに蹴ったのか、布団がだいぶはだけている。黒タンクトップに下着姿……目のやり場に困る格好で、見てはいけないものを見てしまった気分になる。
 引き返そうとして立ち止まる。寒そうな格好で寝ているし、布団をかけ直した方がいいのかもしれない。
 荒北くんを起こさないように気をつけながら、はだけた布団の端をつかむ。

「えっ……?」

 寝ぼけた荒北くんに腕を引っ張られて、体が移動する。気がつけば荒北くんの上に乗っかっていた。
 顔がすごく近い。荒北くんの小さく開いた唇から、かすかな寝息が漏れている。
 離れなきゃ、と思うものの荒北くんの腕が背中に回っていて動けない。心臓の音がだんだん大きくなってきた。

「ん……」

 荒北くんがゆっくりと目を開ける。

……?」
「おは……よう」

 冷や汗混じりに朝のあいさつを口にする。この後荒北くんがぱっと目を開けて後ずさり、「何でオレに抱きついてンだよ!」って怒鳴る展開を予想してたけれど……荒北くんは目を閉じて、二度寝を始めた。
 背中に回る彼の腕の力が緩くなってきた。慎重に身じろぎをしてその腕から逃げて、忘れずに布団をかけて。足音を立てずに部屋を後にする。

「……はぁ」

 ぱたんとドアを閉めるとため息が漏れた。まるで私が、荒北くんの寝込みを襲ったみたいだ……。


 先ほどの出来事が頭に焼きついて離れない。朝ごはんを作ることでなんとか気を紛らわしていると、荒北くんがリビングに入ってきた。タンクトップに下はちゃんとズボンを穿いている。

「……おはよう」

 荒北くんが寝ぼけ混じりの声で言った。髪がボサボサで、細い目がさらに半目になっている。もしかしたら朝に人一倍弱いのかもしれない。

「おはよう。ベプシ……はないけど紅茶かコーヒー、どっち飲む?」
「コーヒー。ブラックでいい」

 そう言うと荒北くんはソファに座り、つけっぱなしのテレビを見る。荒北くんの近くにコーヒーを置くと、「サンキュ」と言って口につけた。

「ねぇ、荒北くん」
「なんだ?」
「今日の予定って……」
「あぁ。昨日言ったとおり出かけるぞ」

 荒北くんが平然と言った。やっぱり昨日言っていたことは夢じゃない。

「エイプリルフールは終わったよ?」
「なに言ってンだ、。そんなにオレと出かけるのが嫌ならいいけど」
「そんなことはないよ! ただ、珍しいなって思って……!」
「だったら付き合えよ。たまにはいいだろ?」

 コーヒーを一気に飲み干した荒北くんが立ち上がる。くるりと私の方を向き、

「あんまり動きにくい服着てくるなよ。後悔すっぞ」


 状況がよく飲み込めないまま荒北くんと二人で家を出て、電車に乗って横浜駅に着いた。何度か来たことのある町だけど、荒北くんと二人で来るのは初めてだ。

「……言っとくけどオレ、どっかのカチューシャと違って女慣れなんてしてないし。ある程度計画は立ててるケド、行きたい所あったら言えよ」
「う、うん」

 荒北くんがキョロキョロと周囲を見回す。

「とりあえず、本屋にでも行くか」
「珍しいね」
「南雲……ダチが無難な所だっつってた」

 本屋に向かって歩いていると、荒北くんはなにかに引き寄せられるように道をそれ、一軒のお店のショーウィンドウに張り付いた。
 荒北くんが引き寄せられたのはペットショップだ。荒北くんの視線の先には、秋田犬の子犬がいる。それにあわせておもわず二度見してしまいそうな値段も書かれている。
 荒北くんの隣に並び、子犬を見る。ハッハッハッと息を吐いては舌を出し、人懐っこそうな犬だ。

「この犬……小さかった頃のアキちゃんに似てる」
「アキちゃん?」
に言ってなかったっけ? オレ、実家で犬飼ってんだよ。犬種は今目の前にいるのと同じ」

 荒北くんが携帯電話を取り出して、待ち受けを私に見せる。今目の前にいる犬とそっくりなアキちゃんの写真があった。

「かわいいだろォ?」
「かわいいけど……荒北くん、猫派じゃなかったっけ?」
「猫派が犬好きになっちゃいけねーのかよ」
「そういうわけじゃないけど……」

 私の中で荒北くんは猫好きというイメージで固まっているので、犬好きでもあることを知ってびっくりした。自転車部では飢えた野獣って呼ばれているし、前世は動物好きの狼だったって言われてもしっくりくる。
 荒北くんと二人でショーウィンドウを見ていると、中から店員さんが出てきて「よかったら中にどうぞ」と勧めてくれた。店員さんの厚意に甘えてお店の中に入る。

「この犬、とても人懐っこい子なんです。よかったらなでてあげてください」

 店員さんが先ほどの子犬を抱っこして荒北くんに渡す。
 荒北くんの腕に抱かれた子犬は舌を出して、荒北くんの腕を舐めている。

「バカ、舐めンなっ! くすぐってぇだろっ」

 そう言うわりには荒北くんの顔が笑っている。いつも不機嫌そうな顔をしている荒北くんは、動物を前にすると優しくなるみたいだ。

「おやおや、こんなに懐いてるなんて珍しい~! ちなみに今日お二人はデートなんですか?」
「ちっ、違う! ……いや、違わないか」
「ちっ、違います! ……あれ、でも今日は……」

 店員さんに聞かれてつい条件反射で否定しちゃったけれど、今日はデートだ。私の声に被って聞こえなかったけど、荒北くんも似たようなことを言ったのだろう。
 気まずい空気を変えようと、荒北くんに抱かれている子犬の頭に手を伸ばす。子犬が歯を剥き出しにして大きな声で吠えた。

「なんで吠えるかなぁ」

 なでようとした手を引っ込めて子犬を見る。子犬は何事もなかったかのように荒北くんの腕を舐めている。

は動物に好かれないみたいだな」
「むむむ」

 後で荒北くんに動物に好かれるコツを伝授してもらおう……。そう思っているうちに荒北くんが店員さんに子犬を返し、すすす、と猫が集まっているコーナーに移動した。

「あの猫、学校にいる猫に似てる」

 さっきから荒北くんが自由気ままに動いている。まるで動物に興味津々な子どものようで笑みがこぼれた。
 荒北くんがケージの下の段にいる黒猫を見るべく屈んだ時、携帯が連続して振動する音が聞こえた。振動しているのは荒北くんの携帯だ。荒北くんは携帯には気を留めず黒猫をなでている。

「電話だったみたいだけど、出なくて大丈夫?」

 もしかして、私に気を遣ってくれたのだろうか? 急ぎの用件かもしれないし、私に構わず電話に出てくれてもいいのだけれど……。

「あぁ、どうせ東堂か新開からだろ。気にすんな」

 東堂くんたちならなおさら出た方がいいんじゃないかなぁ。そう思いつつ、荒北くんの隣に座る。荒北くんになでられている黒猫が気持ちよさそうに喉を鳴らした。