栄光のサクリファイス 88話

 街灯が暗闇を照らす夜道からふと空を見上げる。今宵の月は三日月。点々と見える星が、空の向こうまで無数に広がっている。
 と初めてキスした時も、こんな夜だったな。荒北靖友は笑って、美しい弧を描いた三日月を見つめる。

 インハイが終わってから数日が経った。部活を引退し、練習漬けの日々からようやく開放されたものの、いざ自由の身になるとなにをすればいいのかわからない。犬の散歩に行くと言い出したのも、なにかと理由をつけて外に出たかったからだ。
 ――インハイに出たいのなら人の三倍練習しろ。一年の夏の日、福富に言われた言葉を思い出す。三年がギャーギャー言っているインハイがどんなものかを知りたくて、時々練習を投げ出しそうになりながらも、ひたすら自転車に乗り続けた。そして、二年の春にと会ってからは色んなことがあった。
 と出会い、昔野球をやっていた時にバッテリーを組んでいた南雲とケンカ別れしていたことを思い出した。夏祭りに行った夜の帰り道、夢に見るほど苦しんでいることを伝えると、が励ましてくれた。思えば彼女のことを意識し始めたのはそのあたりからだったのだろう。
 それから、紆余曲折あってと一緒にいることを決めた荒北はインハイ出場行きの切符をつかみ、インハイでは色んな場面で仲間を引いてエースアシストとして活躍した。
 荒北はエースアシストとして立派に働いたが、三日間に渡って行われたインターハイで表彰台に立ったことは一回もなかった。もし、表彰式で花束をもらったらにプレゼントしよう。仲間内で交わした約束も果たすことができずに終わってしまい、おまけに毎年優勝していた箱根学園は今年は準優勝という結果に終わってしまった。インハイが終わり、寮にある自分の部屋に戻った時には涙がボロボロと溢れ出して止まらなかった。
 だが、荒北は後悔はしていなかった。仲間の思いを託し、託され、何度窮地に陥ろうとも総北高校は優勝を目指してゴールに向かって突き進んだ。――今年の箱学は調子が悪かった。そう口にする者もいるが、総北と戦った荒北は彼らの強さを知っている。くやしいが、彼らの強さは本物だ。

「次は任せたぞ、泉田」

 救護テントで泣きじゃくる後輩に無念や希望、すべてを託し、前を向いて部活を引退した。次は、なにを目指そうか――。
 今やるべきことは受験勉強だが、それと同時にやらなければいけないことがある。
 夜空を見上げてのことを思い浮かべる。は今、なにをしているのだろう。
 荒北の実家は神奈川県内の横浜にある。のいる箱根とは同じ県内だが、数日も顔を見ていないのならば遠距離恋愛と同じようなものだ。かといって今からに会いに行くわけにもいかない。
 ……の声が聞きたい。そう思った荒北は街灯の下携帯を開いた。に電話をかけようとして――やめた。電話をしたところでなにを話せばいいかわからなかったからだ。用件のない電話など、どこかのカチューシャ男と同じではないか。そう思ったらますます電話する気が失せてしまった。嘆息して携帯をポケットにしまう。
 箱根に帰ったら、真っ先にに会いたい。今までインハイのことに精一杯で彼女にはなにもしてあげられなかった。今度は、にありったけの愛情を注ぎたい。
 箱根に戻るのは夏休みの終わり頃の予定だから、夏休みに一緒に出かけるのは難しいだろう。ならば始業式の日、どこかに連れていこうか……。

「うぉっ」

 手に持っていたリードが力強く引っ張られて思考が止まる。視線を落とせば、愛犬が別の場所に行きたがっているようだ。

「わぁったよ、アキちゃん。コンビニ寄ってから家に帰るか」

 愛犬と共に夜道を歩く。
 歩きながら荒北は思う。は今頃なにをして過ごしているのだろうか。箱根にいる彼女に思いを馳せ、もう一度夜空を見上げる。

 ◆

 青い空、白い雲、肌を焦がすほどの強い日差し。時々生ぬるい風が吹いて、自転車で走って火照った体を冷ましていく。
 まだまだ、暑い日々は続くんだ。空高く昇る太陽を見て当たり前のことを考えつつも、その実感が湧かない。なぜなら今までひたむきに頑張ってきたインターハイはついこの間終わったばっかりで。私の中で夏は終わった気になっていたからだ。
 ゆっくりと流れる雲を見つめる。こうしていると、昔の思い出に浸ってしまいそうだ。


 去年の春、転校前日にこのサイクリングロードで一人の男の子に出会った。
 その人は福富くんと同じ部活であり、私と同じクラスの後ろの席の男の人だった。いつも不機嫌そうな顔をしている人で、最初はどう接したらいいのか悩んでた時期もあったけれど――合宿三日目の夜、私に「インハイに行きたい」という夢を明かしてくれたことがきっかけで、私は彼に惹かれ始めた。
 接していくうちに、いつの間にか彼のことが好きになって、それが足枷となって彼の足を引っ張ってしまった。一時期は夢のために離れることを決意したけども、ある事故を境に考えを改めて、悩んだ末に一緒にいることに決めた。そして彼は、夢をかなえることができた。

『インハイ最終日の先頭はすっげぇ気持ちよかった。生ぬるい風、終わりの見えない道。オレが箱学をゴールまで引いてくんだって思うと、どこまでも速く走れそうな気がした。……ここまで、突っ走ってきた甲斐があった。あの時の光景は一生忘れられねェ』

 荒北くんが実家に帰る前、一泊した私の家で、インハイで見たものを私に聞かせてくれた。あの時の荒北くんの優しげな表情は今もはっきりと覚えている。
 荒北くんの話を通して、インハイの三日間どんな激戦が繰り広げられていたか知ることができた。結局、総合優勝は総北に取られてしまったけれど。相手の強さを認め、自分のなすべきことをやり遂げた荒北くんに、ぽっかりと空いた心の穴が埋まっていく。
 インハイを境に部活を引退し、予定のない日が続いていく。だけどのんびりしている暇なんてない。今度は私が夢に向かって頑張る番だ。
 荒北くんは、今頃実家の犬と遊んでいるのだろうか。横浜にいる彼に思いを馳せながら空をぼうっと見つめる。本当は受験勉強しなきゃなんだけど、今まで頑張ってきたし、たまには息抜きもいいよね。心の中で言い訳をして、暖かな陽気に目を閉じる。
 ――その時、ポケットに入れていた携帯が振動した。驚きのあまり飛び上がりそうになる。もしかして荒北くんが電話をかけてきたのだろうか?
 携帯を確認すると、画面には「東堂くん」の文字。ちょっとだけ残念な気持ちになりながら電話に出ると、

『もしもし、ちゃんっ!? 大変だ、巻ちゃんが、巻ちゃんが……!!』

 続きの言葉を聞いた私は携帯をしまい、自転車に飛び乗る。東堂くんのいる公園に向かって、全力で走った。


 自転車を止め、公園の中に入ると一人ブランコに座っている東堂くんを見つけた。私に気がついた東堂くんが顔を上げる。予想どおり、浮かない顔をしていた。

ちゃん……」
「巻島くんがイギリス行くって本当っ!?」
「……本当だ。今月の末日、成田空港から旅立つんだと」

 足元に視線を落とす東堂くん。

「なんで……なんでこんな大事なことを今になって言うのだ……。早いうちに言ってくれれば、心の準備だってできたのに!」

 今までに見たことのない東堂くんの動揺ぶりに、かける言葉が見つからない。

ちゃんもよく考えてみてくれっ!! 親友、好きな人、誰でもいい! 自分が大切に思っている人が、突然外国に行くって言ったら怒るだろう!?」
「……すごく怒る。なんで早く言わなかったのって怒ると思う」
「いっそのこと、巻ちゃんが外国に行くのを阻止するか」
「えっ」
「……なーんて、冗談だよ冗談。駄々をこねた子どものような真似はせんよ」

 寂しげに笑う東堂くん。痛々しい姿に、見てる私の心も痛くなる。

「すまん……。こういうところ、女の子の君に見せるべきではないのだが……。巻ちゃんから電話で聞いた時、真っ先に誰かに話を聞いてほしかった。だが、フクたちは帰省していて、頼れるのがちゃんだけだったのだ……」
「東堂くん……」
「……はは。なんだか喉が乾いたな。ちょっと自販機に行ってくる」
「私が買ってくるよ」

 自販機に走り、二人分の飲み物を買う。急いで東堂くんの所に戻った。

「はい、これ」
「ありがとう。……しかし、ちゃんもベプシが好きなのか?」
「えっ」

 東堂くんに手渡した飲料を見るとベプシ。……しまった、ついいつもの習慣でこれを買ってしまった。しかも私も同じ物を持ってるから言い訳ができない。

「荒北と同じ飲み物が好きなのだな」
「これはその……!」

 最近、荒北くんと一緒にいるとき、彼の真似をして私もベプシを飲むようになった。二人でいるときの習慣が、東堂くんの前でぽろっと出てしまった……! 頭の回転が速い東堂くんのことだから、もしかしたら私と荒北くんの関係に感づいて深く追求してくるかもしれない。
 もし追求されたらなんて答えよう……! 次の言葉に身構えていると、東堂くんはなにも言わずに缶のふたを開け、豪快にベプシを飲む。

「炭酸なんて久しぶりに飲んだぞ」

 ふっと笑う東堂くん。ベプシを間違えて買ってきたのは正解だったみたいだ。

「前にちゃんの家に行った時、オレが巻ちゃんと出会った頃の話をしたのを覚えているか?」
「うん、覚えてる。たしか二年の春にヒルクライムレースで出会ったんだよね」
「あぁ。最初は変な髪色のクライマーだと思っていた。何度か顔を合わせるうちに仲良くなって、連絡先を交換して……いつの間にか巻ちゃんと勝負できる日がとても待ち遠しくなってしまった。そして……インハイではオレが勝った。部活は引退したが、自転車に乗るかぎりこれからも勝負の日々は続いていく。そう思っていた矢先にこれだ。オレはこれからどうすればいいのだろう。巻ちゃんのいない未来なんて、考えたことなどなかった……」
「東堂くん……」
「……なぁ、ちゃん。ちゃんにもし、大切な人がいるのだとしたら、別れは突然訪れる可能性があることを覚えておくといい。オレみたいに後悔しないように……その人といる時間を大切に過ごすのだぞ」

 無理やり心に整理をつけて、東堂くんが空を見上げる。
 ――悲しそうにしている東堂くんを、このまま放っておくわけにはいかない。

「ねぇ、東堂くん。巻島くんがイギリスに行くのって、月末だよね」
「あぁ。そうだが……」
「今からだって、遅くはないよ」

 東堂くんが大きく目を見開く。涙の溜まった目で、私を見上げた。