栄光のサクリファイス 89話

 大きなバッグを携えて、地図を頼りに目的地を目指して歩く。ようやく目的地にたどり着いた瞬間、想像以上の規模の建物に感嘆の声を上げてしまう。

「す、すごい……」

 建物の看板には、達筆な文字で「東堂庵」と描かれている。旅館の前にはあんどんや大きな松の木があり、高校生の立ち入る所ではないと感じさせるほどに大きな威厳を放っている。テレビで取材されてもおかしくないほどの立派な旅館。前から話には聞いていたけれど、東堂くんの実家は本当に旅館を経営してたんだ……!
 福富くんのお父さんとお兄さんはプロのロードレーサーだし、荒北くんの実家は不動産を経営してるって聞いたことがあるし、新開くんのお父さんなんか、お医者さんだって言うし。みんなすごいなぁ。実はとんでもない男友達だらけではないかと思うと、頭がくらくらしそうになる。……その分、変人揃いだけど。それはもちろん恋人の荒北くんも例外ではない。
 建物の中に入ることを躊躇している間に、後ろからにぎやかな声が聞こえてきた。

「わぁ……! 東堂さんの家すごいですね!」
「お、小野田、あんまり騒ぐなっショ。道行く人が見てるっ」

 一人は聞き慣れない声だけど、もう一人にはすごく聞き覚えがある。
 後ろを振り返ると、総北高校の巻島くんと――インハイ最終日で総合優勝を勝ち取ったスーパールーキーの小野田坂道くんの姿があった。巻島くんと視線がぶつかる。

「……あ、
「……インハイぶりだね」
「……そうだな」

 曖昧に笑う巻島くん。巻島くんに会ったら、真っ先に「なんで早く言ってくれなかったの」って怒るはずだったのに。巻島くんを見て、言葉に詰まってしまう。黙ったままでいると小野田くんが一歩前に出た。

「あ、あの、ボク、一年の小野田坂道っていいます」
「私は。今は引退しちゃったけど、自転車部のマネージャーだよ」
「これから二日間、よろしくお願いします! ……ところで、さんとはどこかでお会いしたような」

 言おうとしていた言葉を小野田くんが先に言った。私も小野田くんとどこかで会ったような気がするんだけどな……。今まで色んな人と会ってきたせいか、全く思い出せない。
 なにか思い出したのだろうか。小野田くんが表情を明るくして私に問う。

「もしかして……アニメのイベントで会ったのでしょうか!?」
「あ、あにめ?」
「この前ラブ☆ヒメのイベントに行ったんですけど、その時女性のお客さんが多かったんですよ! ラブ☆ヒメは最近女性にも人気があるみたいなので、そのイベントに参加してたのかなぁと。コスプレしてる人もいましたし、もしかしたらそこで会ったのかもしれません!」
「たぶんそこじゃないどこかで会ったんだと思うんだけど……」
は小野田と違ってアニメ見ないっショ。たぶん」

 巻島くんの言うとおり、普段アニメは見ない。家のことを片付けたり、荒北くんの自主練習を手伝ったり、気がつけばテレビ自体を見る時間が少ないのだ。

「そうですか……。もしかしたらと思ってたので残念です」

 肩を落とす小野田くん。その反応が寂しそうに見えて、考えを巡らせる。

「……最近好きなゲームならあるよ。戦国BASARAっていって、響子……友達に教えてもらったゲームなんだけど。史実に忠実なのかよくわからない武将が敵をなぎ倒すゲームなんだけど、すっごいおもしろいの!」
「わぁ、知ってます! たしか田所さんも好きだって言ってました!」
「本当!? 田所くんもゲームが好きなの?」
「ゲーム自体が好きというより、戦国もののゲームが好きだって言ってました! 前に巻島さん家で遊んでいるところを見たんですけど、田所さんのあのプレイ、すっごく熱かったです! さんは誰が好きなんですか?」

 顎に手を添えて考える。

「うーん……伊達政宗?」
「政宗カッコいいですよね! そういえば、荒北さんって伊達政宗のコスプレが似合いそうな気がするんですけど……」
「あ、荒北くんが政宗のコスプレ?」

 政宗のコスプレをしている荒北くんを思い浮かべる。…………カツラを被ったら案外イケるかもしれない。

「小野田とノリノリでゲームの話する人初めて見たっショ」
「ワッハッハ!! 待たせたな、みんな!!」

 声がした方を見やると東堂くん。

「ようこそ東堂庵へ! 今日はこの旅館でゆっくりと過ごすがいい!」

 東堂くんに続いて、東堂庵の中に入る。
 ――そう。今日は、東堂くん、巻島くん、小野田くん、私の四人で東堂庵に一泊することになったのだ。
 廊下を歩きながら、小野田くんが東堂くんに話しかける。

「すみません、ボクまでお世話になっちゃって」
「いいのだよメガネくん。君にはインハイ一日目の時の借りがある。今日は君も楽しんでくれ。それに、今日はこっちにも連れがいるのだからな」
「暑くて汗だくになったっショ」
「少し早いが風呂といこうか。部屋が用意されるのは夜からだから、荷物は一旦オレの部屋に置いていってくれ」


 ドアを開けると、目の前に広がる絶景に息を呑んだ。露天風呂から立ち上がる湯気。小さなあんどんが所々にあって、まるで大自然の中にある天然風呂のように、周囲には多くの木々、遠くを見れば箱根山が見える。ここに来る前に、東堂くんから露天風呂のすごさを説明されたけれど、こんなにもすてきな場所だったなんて……! 足を止めて景色に見入ってしまう。
 どうやら露天風呂にいるのは私一人だけみたいだ。ドキドキしながら湯に足の爪先を入れて、そっと湯船に浸かる。

「わぁ、東堂さんって脱ぐとすごいんですね」
「ワッハッハ! メガネくんは目の付けどころがいいな! 君もオレのような美しい体を目指して体作りをするといい」
「体はともかく、口のうるささは真似してほしくないっショ」
「ん? なにか言ったか巻ちゃん?」
「前から思ってたんですけど、巻島さんの髪ってきれいですよね。普段なにかお手入れってされてるんですか?」
「特になにもやってないっショ」
「ならん、ならんよ巻ちゃん。たとえヘルメットに隠れようとも自転車乗りは髪が命。今日はオレがいつも使っているトリートメントを貸してやろう」
「遠慮するっショ」
「……にぎやかだなぁ」

 男風呂から聞こえる声に、くすっと笑みがこぼれる。
 ……いつか、大人になったら荒北くんと旅館に行くのもいいかもしれない。いつも自転車の練習に付き合ってばっかりだったから、たまにはこういう所でのんびりしたい。

「なんだかボク、のぼせてきました……」
「ぎゃああああ メガネくーん!!」
「小野田ッ、しっかりするっショ!!」

 ……本当ににぎやかだ。男風呂から聞こえるやり取りに、もう一度笑った時。
 ――ざばんっ!!

「えっ!!?」

 湯船から顔だけ出した人物に、驚きの声を上げる。
 深紫色の髪に、同色の目。目鼻がくっきりしていて、人気が出るのもうなずける顔――

「東堂くん?」

 なぜ男風呂にいるはずの彼がここにいるのだろう。よくわからない状況に頭の中で疑問符が浮かぶ。

「あなたがさんね?」

 妖艶な笑みを浮かべる東堂くん。こんなに女の子っぽい声出せるんだ。

「私の名前は東堂麗子。尽八の姉よ、よろしくね」
「と、東堂麗子??」

 東堂くんはなにを言っているのだろう。いくら女声をしても、私はだまされないぞ。
 私の思っていることに気づいたのか、東堂くんが目を眇める。

「……あなた、もしかして疑ってる? もう一度言うけど、尽八の実の姉よ」
「またまたぁ」

 眉根を寄せた東堂くんが、ばっと湯船から立ち上がる。目の前に見えたのは、胸にある二つの膨らみ。

「なんだ、東堂くん女の子だったのか」

 だから女風呂にいるんだ、そっかそっか。合点がいったその時――!

「ごぽごぽごぽぉ!!」

 東堂くんに頭を押されて湯船の中に潜る。く、苦しい……!

「だからぁ、姉だって言ってんでしょっ!? 次それ言ったらもっと沈めるわよっ!!」
「ど、どうしたちゃん!? なにかあったかー!?」

 遠くから本物の東堂くんの声が聞こえる。……そっか、それじゃあ目の前にいるのは本当のお姉さんなんだ……!

「げほっ、ごほっ!!」

 湯船から顔を出して、外の空気を大きく吸う。ここから私の悲劇は始まった。


「……それで、麗子さんが私に何の用なんでしょうか……?」

 隣に座る麗子さんを警戒しながら、買ったばかりの牛乳を飲む。お風呂から上がったから湯船に沈められる心配はないし、浴衣も着たからいざというときは部屋を出て逃走することもできる。万全の状態で、改めて麗子さんの話を聞くと……

「単刀直入に聞くけど、あなた尽八のこと好き?」
「えっ?」
「あ、好きっていっても友達として好きって聞いてるんじゃないのよ。異性として好きかどうかってこと」
「普通ですけど……」
「好きじゃないのに今日ここに来たの? だとしたらあなたとんだ小悪魔ね~」
「それには色々と深い事情があって……」
「うちの尽八、いつも女の子にモテることばかりしか考えてないけど、家に連れ込んできた異性はあなたが初めてなのよ? 尽八はあなたのこと、悪く思ってないんじゃないかしら」
「はぁ」
「どう? もしあなたさえよければ、二人がくっつくように仕向けてあげるけど」

 ドキッとさせるような笑みを浮かべる麗子さん。同性の私といえどもちょっとだけクラッときたけれど……いやいやいや。いやいやいやいや!

「ま、待ってくださいっ! 私にはその、彼氏がいるんですけどっ」

 初めて人前で彼氏なんて言ったけれど、実際に口に出してみると恥ずかしい。頬が紅潮するのを感じながらおもいきって言うと、

「そんなの別れちゃえばいいじゃない」
「なっ!!」

 これが大人の人の考え方なのだろうか……!? さっきから衝撃的な展開の連続で、頭がくらくらとする。

「尽八みたいな男、滅多にいないわよ。私そっくりのイケメンで、大体なんでもそつなくこなすし。ちょっと口うるさいところはあるけれど、目をつぶればガマンできるレベルだわ」

 荒北くんのような男の人もなかなかいないと思うんだけどなぁ。……って、変わり者対決してる場合じゃないか。

「まだ高校生なんだし、今のうちに色んな男と付き合うべきよ。じゃないと、大人になった後で後悔することもあるの」

 麗子さんが私に近づいて覆い被さる。使ったばかりのシャンプーのいい香りが鼻孔をくすぐる。

「こんなにいい機会なんてないんだから乗っちゃいなさいな。これは、人生に一度の大チャンスよ?」

 押し倒されて、深い紫色の瞳と目が合う。
 雰囲気に気圧されそうになるけども、私には譲れないものがある。

「……たしかに、東堂くんみたいにいい人はなかなかいないと思います。こんな話を持ちかけられたら、多くの女の子が喜んで乗ると思います」
「じゃあ……」
「それでも、私には心に決めた人がいるので。麗子さんの提案には、絶対に乗れません」

 脳裏に荒北くんの姿がよぎる。もう、どんなにすてきな人が現れても心は揺らがない。私は荒北くんのことが好きなんだ。

「荒北くんとは、学校を卒業したら離ればなれになっちゃうけれど。それでも、ずっと一緒にいるって決めたんです。時々、目も当てられないくらいひどくぶっきらぼうな人だけど……一年の間、荒北くんのいいところをたくさん知ったから。今では世界中の誰よりもすてきな人だって胸を張って言えます」

 だから私は荒北くん以外の人と付き合うことはできない。麗子さんから見たら、子どものくせにって思われるかもしれないけれど……積み重なった思いは、簡単に崩れたりはしない。
 麗子さんが品定めするような視線を向ける。その視線を目をそらすことなく受け入れると、微笑して私を押し倒すのをやめた。

「ならいいわ。高校生のクセに、熟年夫婦のような考えを持っているのはちょっとアレだけど。あなたの気持ち、よくわかった」

 強引な人だけど、実は弟思いのいい人なのかもしれない。安心して、体を起こすと……

「でも、いいことを聞いたわ」
「いいこと?」
「あ、ら、き、た、くん。あなたの口ぶりからしたら、同じ学校の男の子なのかしら?」

 頭の中が真っ白になる。――しまった、私としたことが口を滑らせてしまった。

「その様子だと、尽八も知ってる男の子みたいね」
「あ、あ……」
「尽八~!! 荒北くんってどんな男の子ー!?」
「わーっ!! 待ってくださいー!!」

 男子更衣室に向かう麗子さんを急いで追いかける。館内に私の悲鳴が響き渡った……。