栄光のサクリファイス 90話

「ワッハッハ! なにがあったかは知らんが、麗子と仲よくなるとはさすがちゃん。大したものだ!」

 大笑いする東堂くん。事の顛末を知らない彼は、人の気も知らずに笑っている。

「あの東堂にそっくりなねーちゃんとどうやって仲よくなったのか気になるっショ」
「聞かないで……」

 どんよりとした気持ちになりながら、かますの塩焼きを食べる。
 あの後、東堂くんの所に行く麗子さんを引き止めるのにすごく大変だった。まだ東堂くんには伝わってないみたいだけど、麗子さんの口から私と荒北くんが付き合っていることがバレてしまったらどうしよう。そうなったら最後、始業式の日に東堂くんをはじめとする色んな人から冷やかされることになる――!

「頭を打ったらさっきのこと忘れてくれるかな」
「なに物騒なこと言ってるっショ」
「大丈夫ですか? さん。さっきから顔色が優れませんが……」
「ありがとう小野田くん。私は大丈夫だよ」
「飯が終わったらどうするっショ?」
「食後は卓球勝負だっ! 実はオレ、トークも切れる上に卓球もできるのだ。オレの卓球の美技を見せてあげよう」
「頑張れ小野田」
「えっ、ボク!?」
「巻ちゃんっ! 電話で卓球勝負するぞって約束したではないかっ!」

 にぎやかな食卓が続く。なんだ、東堂くん元気そうでよかった。公園で暗い顔を見た時は心配したけれど、放っておいても東堂くんは大丈夫そうだ。


「はぁ、疲れた……」

 卓球勝負の休憩中。みんながいる部屋から離れた通路の奥にあるソファでゆっくりしていると、小野田くんの姿が見えた。

「あの、隣いいですか?」
「いいよ」

 小野田くんは隣にちょこんと座ると、手に持ったポカリを飲む。
 ……そういえば、最近荒北くんが私の家に泊まった時、彼はこんなことを言っていた。

『待宮率いる集団に呑まれた時、小野田チャン……総北の小野田坂道に会ったんだよ。一日目は集団落車に巻き込まれて最下位。前を走る総北に追いつくことなんざ無理だってのに、アイツはそれをやってのけた。二日目には後ろを走る田所を、わざと速度を落として総北のもとに連れて帰った。今まで聞いたことがないだろ? こんな逆境の場面から這い上がってくる選手なんて』

 荒北くんの言うとおり、小野田くんが成し遂げたことは前代未聞だ。高校生といえど、多くの選手たちは長い間自転車に乗ってきた人たちばかりだ。一番後ろに下がってしまえば、先頭に追いつくことは絶望的だ。特別な脚力がない限り、ちぎられたまま終わってしまう。

『三日目まであんまり気に留めてなかったんだけどよ、協調して走っている最中オレは思った。コイツは、オレの想像以上に伸びるってな。今度なにかのレースで小野田チャンを見かけたら、アイツの走るところ見てみろよ。きっともオレの言ってることがわかるはずだ』

 あまのじゃくな荒北くんが、珍しく素直に褒め称えたスーパールーキー。小野田くんはどういう子なんだろう。荒北くんの話を聞いて、興味が湧いた。

「あ、あの……そんなに見られると恥ずかしいです」
「わっ、ゴメンゴメン」

 気づかないうちに小野田くんのことを見つめてしまったようだ。慌てて視線をそらす。

「小野田くんのことは、荒北くんから聞いてるよ。インハイの三日間、大活躍したんだってね。私は見る側だから聞いた話しかわからないけど、小野田くんはすごいと思うよ」
「そ、そんなことはないです。一日目の時は、みんなに追いつきたいっていう気持ちでいっぱいで、最終日の時は、みんながジャージを真っ先にゴールに届けろって言ってくれたから……ボクは走ることができました。それに、荒北さん、東堂さん、箱学の皆さんにもお世話になりました。箱学の皆さんの背中を見て、みんな色んな思いを背負って走ってるんだって勉強になりました」

 キラキラとした瞳で私に視線を向ける小野田くん。
 小野田くんの力はシンプルだった。先頭にいる総北に追いつきたい。後ろで立ち止まっている田所くんを放っておけない。託された思いを、誰よりも速くゴールに届けたい。純粋な気持ちが原動力となって、最終日では総合優勝を勝ち取ってしまった。
 今まで、色んな人の走る姿を見てきたけれど。思ったことを現実にしてしまう小野田くんは、やっぱりすごい人だ。

「……あの、さん。実はさんに聞きたいことがあって……」
「うん? なぁに?」
「――真波くんは、元気ですか?」

 答えに迷う質問に、うつむいて視線を下に落とす。

「東堂さんから、さんは真波くんのお隣さんちだってさっき聞いて……」
「……真波くんとは、しばらく会ってないからわからないや」
「そ、そうですよねっ。変なこと聞いてごめんなさいっ」

 小野田くんに言ったとおり、インハイ後真波くんの姿は見ていない。前は自転車に乗った真波くんが山に行く姿を頻繁に見かけたけれど、インハイが終わってからは全然見ないのだ。もしかしたら私の知らないうちに出かけていたり、旅行とかで家にいない可能性もあるから本当のことはわからないけれど……もしかしたら真波くんは、インハイ最終日の結果に責任を感じているのかもしれない。

「前に箱根山でボクが体を崩した時、真波くんに助けてもらったんです。その時真波くんに借りたボトルをインハイで返す約束をして……。表彰式の後、真波くんにボトルを渡したら黙って受け取られて……あの時、真波くんがすごく怖い顔をしてて。ボク、なんて声をかけたらいいかわからなかったんです」

 ポカリを持った小野田くんの手が震えている。横顔を見ると、今にも泣きそうな顔をしていた。

「真波くんと坂を登っている時、すごく楽しかった。インハイ最終日も苦しかったけれど、真波くんがいたからあそこまで走ることができたんです。でもボク……真波くんのこと、傷つけたのかなって。高校に入って初めて運動部に入ったから、こういう時、どうすればいいのかわからなくて……」
「大丈夫だよ、小野田くん。真波くんは、こんなことでへこたれるような人じゃない」

 そっと手を伸ばし、小野田くんの頭をなでる。

「真波くん……もしかしたら今は、ふさぎこんでいるかもしれないけれど。授業そっちのけで坂登っちゃう人だから、すぐに立ち直るよ。小野田くんと笑って話せる日もきっと来ると思う」

 今、真波くんがどうしているのかはわからない。でも、真波くんは誰よりも山が好きな人だ。そのことを私は充分に知っている。

「だから大丈夫だよ。小野田くんはなにも心配しなくていい」

 こんなことで真波くんは逃げたりしない。真波くんはきっと壁を乗り越えて、足利峠の時に見せてくれた白い翼をもう一度見せてくれるはずだ。

「ありがとうございます、さん。今まで、誰にも相談できなかったんですけど……さんに話して気が楽になりました」

 小野田くんが涙をこらえてにっこりと笑う。今頃、真波くんはどうしているのだろう。真波くんのことを思い浮かべながら、小野田くんに微笑み返した。