栄光のサクリファイス 91話
小野田くんと別れ、先に卓球室に戻ろうとすると部屋の中から東堂くんと巻島くん二人の声が聞こえた。いつもより落ち着いた声色に、自然と足を止めて耳を澄ましてしまう。
「巻ちゃん。前から聞こうと思っていたのだが、なぜイギリスに行くことを早く言わなかった?」
「小野田たちにもお前にも、インハイ前に余計なことを考えてほしくなかった。黙っていたのはそのためっショ」
黙っていたのは悪いと思っている。小声で言って、巻島くんはうつむいた。
「イギリスに行くのは卒業してからでもいいだろう。なぜ今なんだ? 今からでは、今まで積み上げてきた総北の三年間が無意味になるだろう」
「外国では、春が入学式とは限らないっショ。あっちにはあっちのルールで世界が回ってる」
「秋になったら、巻ちゃんと一緒に出たいレースがあった。巻ちゃんはオレやメガネくんを置いてイギリスに行くのか」
「駄々をこねるな、東堂。オレだって、迷ったさ」
「親の意思なら反対するべきだ。そのくらいのわがまま、言えばきっと聞いてくれる」
「イギリスに行くのは――オレの意思っショ」
巻島くんの言葉に、東堂くんが大きく目を見開く。
「……そんなことを思いながら今までずっと黙っていたのか? 卒業後も、お前との勝負はずっと続くと思っていた。山頂を賭けた戦いは、高校を卒業しても終わらないと思っていた」
「ワリィ、東堂」
「それなのにお前は……外国のことを考えながら、オレや総北の仲間たちと一緒に走っていたのか? 唐突に別れを告げられる相手の気持ちも考えずに……」
「…………」
「今日限りでお前とは絶交だ」
冷たい声色で言って部屋を出る東堂くん。その時、東堂くんとぶつかって尻もちをつく。目に涙を溜めた東堂くんは、私にはなにも言わず、走って去っていった。
立ち上がって腰についたほこりをはたくと、巻島くんと目が合った。
「……」
「ゴメン、見ちゃった」
「見苦しいところ、見せたっショ」
「私も、東堂くんの気持ちわかるよ。いきなり外国に行くなんて言われたら、きっと怒る」
もし、荒北くんが突然、月末に海外留学するなんて言ったとしよう。そしたら私、絶対に怒る。なんで早く言ってくれないのと感情任せに言葉をぶつけては、うなだれてしまうだろう――。
「こういうしんみりとしたこと、あんまり慣れてないっショ。まさか、あんなに東堂が怒るとは思わなかった」
ため息をつき、ソファに座る巻島くん。うつむきがちの表情から、彼もまた悩んだのだと悟る。
「外国に行ったら、自転車はやめちゃうの?」
「いんや、趣味になるかもしんないけど、自転車は続けるっショ。東堂に負けないくらい、オレは坂が好きだ。場所が変わっても登ることだけはやめられないっショ」
「……そっか」
その答えを聞いて、少しだけ安心する。自転車をやめたら最後、私とも、東堂くんとも……本当に接点がなくなりそうな気がしたからだ。
「巻島くんと会ったの、去年の夏だったよね。もう一年かぁ。時間が経つのは早いね」
笑って、窓の外を見やる。来た時には青空だった外は今では夜の帳が降りていて、刻一刻と別れの時間が迫ってきていることを実感する。
巻島くんに、しばらく会えなくなる前に……彼にお礼の言葉を伝えよう。
「今までありがとう、巻島くん。巻島くんとは、手で数えるくらいしか会ったことがないけれど、巻島くんの考えに結構影響された部分があったんだ、私。まさかこんなに早く別れの日が来るなんて思わなかったけれど」
「水臭いこと言うなっショ。自転車やってりゃ、またいつかどこかで会える。こんなところでお前たちとの縁は切れないっショ」
そうだ。自転車に乗っている限り、縁が切れることはない。たとえ遠くに行ったとしても、レースやどこかで、もう一度巡り会う機会はいくらだってあるんだ。
ようやく見つけた答えに安心して、巻島くんに背中を向ける。
「私、東堂くんを追いかけてくるね」
今日の計画、提案したのは私だから……くよくよしている東堂くんを放っておくわけにはいかない。
時々、通りすがりの従業員の人に尋ねながら東堂くんの姿を探す。やっと見つけた東堂くんは、マッサージチェアの上で体育座りをしていた。
「東堂くん」
「……ちゃん。すまない、せっかく君が提案してくれたのに、一時の感情に流されて全てを台無しにしてしまった。巻ちゃんが海外に旅立つ前に、みんなで遊んで思い出を作ろう。ちゃんがそう提案してくれたのに」
なのにオレは、水を差すようなことを言ってしまった。巻ちゃんにどの面下げて会えばいいかわからんよ……。東堂くんが、組んでいた腕の中に顔をうずめる。
「今晩オレは、自分の部屋で過ごす。巻ちゃんとメガネくんには二人で部屋を使うように言ってくれ。朝食もオレ抜きで――」
「ダメだよ、東堂くん。ここで逃げたら絶対に一生後悔する」
「さっきの話聞いただろう。あんなこと言った後でどうやって巻ちゃんと向き合えばいい?」
「それは向き合った後で考えなよ。とにかく行くよ」
「えっ、ちょっ、ちゃんっ!?」
東堂くんの腕をつかんで、卓球室に向かって歩く。最初は東堂くんは嫌がっていたけれど、全く耳を傾けない私に諦めがつくと、嘆息をして同じ歩調で歩き始めた。
――で。
「あの……麗子さん」
「なぁに?」
「私、女なんですけど」
「そんなこと知ってるわよぉ。一緒にお風呂入った仲じゃない」
「じゃあなんで東堂くんたちと一緒の部屋なんですか」
部屋の隅にはきれいに折りたたまれた布団一式が四つある。東堂くん、小野田くん、巻島くん……あと一人分は言わなくてもわかる。私だ!!
「だって~、尽八から三人来るって聞いた時、てっきり全員が男の子だと思って一部屋分しか用意しなかったのよぅ」
「どこでもいいんで至急私の部屋を用意してください」
「今ひとつも空き部屋がないの☆」
…………麗子さんの言っていることは本当だろうか? じっと麗子さんを見るけれど、麗子さんのニマニマした顔にますます疑惑が募る。
「そんなに男の子と一緒に寝るのが嫌なら、私の部屋で一緒に寝てもいいのよ?」
麗子さんが私の耳元に口を寄せて、
「その時は、あなたの彼氏のアラキタくんについて、一晩中恋バナを聞かせてもらいましょうか?」
全身に鳥肌が立って、さっと後退する。
「東堂くんたちと一緒の部屋で過ごさせて頂きます」
こうして私は、この部屋で一晩過ごすことになってしまった……。
麗子さんが去った後、小野田くんが私に近づく。
「巻島さんたち、なにかあったんでしょうか?」
「ちょっと、色々あって……」
無言で布団を敷く東堂くんたちを見やる。近くにいる彼らを前にして小野田くんに詳しいことは話せない。
気まずい雰囲気のまま彼らから離れた位置に布団を敷き、東堂くんのかけ声を合図に部屋が暗くなる。一部屋に四人もいるのに、なんだか重苦しい空気。
「なんだか、修学旅行みたいでドキドキしますね」
布団に入ったまま小野田くんが言った。それに対して巻島くんは、
「クハッ、懐かしいな。修学旅行の時田所っちと一緒の部屋だったんだけどよ、いびきがうるさくて眠れなかったっショ」
いびきがうるさい田所くんと、なかなか眠れない巻島くんを想像する。……おもしろい光景だ。笑いがこぼれてしまう私とは対照的に東堂くんは、
「こんなことができるのも、今日限りだがな」
暗い口調で言って、布団にくるまった。さっきのこと、まだ引きずってるみたいだ。
再び部屋の中が静かになる。こんな時、どうすればいいんだろう……!
「あの、東堂さんと巻島さんに聞きたいんですけど……二人は、どこで出会ったんですか?」
「小野田?」
「インハイ一日目に勝負するお二人を見て、巻島さんと東堂さんはどこで出会ったのかなって気になって……」
「よくぞ聞いてくれたメガネくん!」
東堂くんが半身を起こして答える。小野田くんの隣にいた巻島くんが「後悔すんなよ小野田」とぼそりと言った。
「巻ちゃんと出会ったのは去年の春……ヒルクライムレースのことだ」
いつの間にか部屋の電気をもう一度つけて、布団から起き上がって自転車の話をしていた。東堂くんと巻島くんが出会ってから現在に至るまでの長い話が終わり、小野田くんに話が振られる。
「メガネくんが自転車をはじめたきっかけは?」
「ボクが自転車を始めたのは、今泉くんにレースを申し込まれたことがきっかけだったんです。最初は、ボクが持っているトラコーンの限定版BOXのDVDを狙っていると思ったんですけど……」
時間を忘れて自転車の話をする。さっきケンカしたことをすっかり忘れて、饒舌に喋る東堂くん、苦笑する巻島くん、目を輝かせて相づちを打つ小野田くん。
やっぱり、小野田くんはすごいや。あんなに険悪だった雰囲気を、何気なく持ちだした話題によって変えてしまった。荒北くんの言っていたことが今ならわかる気がする。この子は目を見張るほどの脚力と、絶望的な状況に陥った時チームをいい方向へ導いてくれる不思議な力を持っている。
「よーし。じゃあ次は、ちゃんに印象的だった出来事を語ってもらおうか」
「印象的だったことかぁ……」
一番記憶に残っているのはもちろんインハイだけど、それは私よりも目の前にいる彼らの方が語り手にふさわしいだろう。インハイ以外で印象に残っていること……過去を振り返り、迷った末に口を開く。
「去年の秋、真波くんに誘われたことがきっかけで足利峠の登坂に挑戦したんだ。体力作りに励んでいる時、サイクリングロードで全身黒ずくめの御堂筋くんに会ったんだけど……」