栄光のサクリファイス 92話

 フロントガラスから見える先には、自転車に跨った東堂くんと巻島くんと小野田くん三人の後ろ姿が見える。巻島くんと小野田くんの自転車は近くにある自転車屋から借りたロードバイクだ。普段使っている物と比べると乗り心地は違うけれど、それでも彼らは坂を登ることを選んだ。昨日夜通しで自転車の話をしていたら、坂に登らずにはいられなくなったのだ。

「あら、隣に座ってもよかったのに」

 運転席に座った麗子さんがにっこりと笑う。助手席なんて滅相もない。私は後部座席で充分だ。
 開けっ放しの窓から、東堂くんたちの声が聞こえる。

「振り落とされるなよ、メガネくん」
「が、頑張りますっ」
「小野田は短期間のうちに随分成長したっショ。それはいらねェ心配だぜ、東堂」
「それもそうだな。メガネくんの実力を信じて、全力でいかせてもらおう。……じゃあ、いくぞ!」

 東堂くんのかけ声を合図に、並行に並んでいたみんなが走り出す。麗子さんの運転する車がゆっくりと動き出し、彼らの後ろを走った。
 長い髪の毛を揺らし、ダンシングで坂を登る巻島くん。体を左右に揺らすことなく、すいすいと坂を登っていく東堂くん。そして、二人の背中を見つめながら高回転数で坂を登る小野田くん。三人の走る後ろ姿を見ながら思う。この場に、真波くんもいたらよかったのに。
 いつか、真波くんを加えた四人が走る姿を見てみたい。急勾配の坂に、あえて自転車で走ることを選び、自分自身と戦い続けるヒルクライマー。四人が集まったらきっと熱いレースが見られるだろう。

「みんな、頑張れーっ!」

 窓から顔を出して、前方を走る三人にエールを送る。
 ねぇ、真波くん。もし今、道に迷っているとしたら、君は必ずここまで来なよ。つらいことを知った真波くんは、今よりもっと強くなれるはずだから。私の好きな人が、そうだったから――。


 東堂庵に泊まった数日後、ついに別れの時が来た。

「見送りなんていいって言ったのに」

 千葉にある成田空港のラウンジにて、巻島くんは言った。片手にはキャリーケースを持っている。

「巻島さん、それつけてくれたんですね」

 小野田くんの視線の先には、キャリーケースにぶら下がった大きな蜘蛛のマスコットがある。

「一応、小野田にもらった物だからな。コイツもイギリスに連れていくっショ」
「あの、巻島さん。今までありがとうございましたっ! ボク、巻島さんに教えてもらったことはずっと忘れません! 時々手紙も書きます。だから、どうかお元気で……!」
「泣くなよ小野田。そんな目で見られると、こっちまで泣きたくなるっショ」

 涙を流す小野田くんを、巻島くんがそっと頭をなでる。巻島くんの目もまた、涙で潤んでいた。
 首を巡らせた巻島くんと視線が合う。

「お別れだね」
「今までありがとう、。正直、女子と話すのは苦手なんだけどよ、は東堂とのつながりあってか気楽に話せたっショ」

 微笑する巻島くん。これでもうしばらくは彼の顔が見れないのだと思うと、小野田くんにつられて泣いてしまいそうだ。

は進路、決めてるのか?」
「うん。大学に進学して、将来自転車のインストラクターになろうと思う。自転車の楽しさをもっと、色んな人に知ってもらいたいんだ」
「そっか」
「巻島くんは?」
「オレは……そうだなぁ。今兄貴の会社でオレが描いた絵を使ってもらってるんだけどよ、その絵を使った服がイギリスにたくさん出回るといいなって思ってる」
「へぇ。巻島くんが絵うまいなんて意外」
「……ちゃん。言っておくが、巻ちゃんは絵が壊滅的に下手だ」

 巻島くんに聞こえないように、そっと私に耳打ちする東堂くん。

「巻島さん、絵がうまいですもんね」

 涙を拭い、屈託のない笑みを浮かべる小野田くん。……どっちが本当なのだろうか。

「あと、あっちのロードレースでも頂点取りたい。日本と違ってイギリスは自転車文化が盛んだからな。頂点取るのは遠い道のりだけど、それでも頑張るっショ。夢は、見るモンじゃなくてかなえることをコイツに教えてもらったからな」

 巻島くんが小野田くんの頭をポンポンとなでる。小野田くんがいなかったら、巻島くんは夢を見ていたままだったのかもしれない。

「競争するっショ。オレが頂点取るか、がインストラクターになって、多くの人に自転車のおもしろさを広めるか」
「負けないよ、巻島くん」
「あぁ。より先に夢をかなえるっショ」

 巻島くんが最後に視線を合わせたのは東堂くん。

「東堂」
「もう行ってしまうのだな。これからは、電話もできなくなってしまう」

 眉尻を下げる東堂くん。公園の時に見た寂しそうな顔をしているけれど、彼ならきっと大丈夫。

「あっちに行っても練習をサボるんじゃないぞ。あと、イギリスにはサマータイムというものがある。時計の針はこまめに直せ。あっちの人間はマイペースだ。日本みたいに時間を守った生活ができるとは思わない方がいい。それから……」
「と、東堂。お袋みたいなことは言うなっショ」
「それから、オレと再会した日には、山頂をかけた勝負をしよう。この前の登坂ではオレは負けてしまったが、もう一度会うその日までオレはうんと強くなってやる。久しぶりに会った時、巻ちゃんを遥か彼方に置いていってしまうくらい……オレは最高のクライマーになってやる」
「……相変わらず、口の減らない男っショ。でもオレは、何度もそれに励まされてきた。東堂。オレにとってお前は、最高のライバルっショ」
「巻ちゃん……」
「そろそろ行くっショ。もたもたしてると乗り遅れちまう」

 掛け時計を見やり、私たちから背中を向けて歩き出す巻島くん。

「イギリスに行ってもお元気で!」
「巻島くん、競争の話絶対に忘れないでね!」
「さらば友よ。また会おう!」

 東堂くんたちと一緒に空港を出た後、巻島くんが乗った飛行機が空に向かって旅立つのが見えた。私たちはなにも言わないで笑ったまま、飛行機を見送った。


「今日はありがとうございました。巻島さんを見送ることができてよかったです」

 深く頭を下げ、涙の乾いた頬で顔を上げる小野田くん。

「こちらこそありがとうメガネくん。あの日の夜、君が自転車の話をしなかったらオレと巻ちゃんはケンカしたままだった」
「えっ、ケンカしてたんですか!?」
「まぁ、色々とな」

 言葉を濁して笑う東堂くん。小野田くんが小首をかしげる。

「時にメガネくん。真波のことをどう思っている?」
「へっ、真波くん!? え、えっと、真波くんは不思議な男の子だなぁって」
「アイツの印象を聞いているわけではない。山頂の一番乗りを争うライバル同士として、アイツのことをどう思っているか……単刀直入に言えば、どうなりたいかと聞いているんだ」
「ボクは……真波くんと、もっと一緒に走りたいです。インハイ最終日はつらかったけど、真波くんがいたからボクはここまで来れた。……でもボク、真波くんと走る資格なんてありません。表彰式の後、ボトルを返しに行ったら、真波くんに嫌な思いをさせちゃって……」

 小野田くんの震える肩を、東堂くんがそっと支える。

「ならお前はそのままでいい。少し時間はかかるかもしれんが、オレに任せろ」
「東堂さん……?」
「メガネくんにはまだ借りを返しきれていない。この件は、オレに預けてくれ」

 力強い東堂くんの視線に、小野田くんがコクリとうなずく。

「ありがとうございます、東堂さん」


 改札口前で小野田くんを見送って、東堂くんと一緒に駅を出る。まぶしい日差しに目を細めていると、東堂くんが突然足を止めた。

「ありがとう、ちゃん。ちゃんがいなければ、オレは巻ちゃんの旅立ちを見送ることができなかった。オレにとって君は、かけがえのない恩人だ」
「恩人なんて大げさだよ。私はこうしてみたらって提案しただけ」
「そんなことはない。君には、本当に心の底から感謝している。……決めた。オレは将来大学に進学しようと思う。実業団から声をかけられたのはうれしいが、オレはもっともっと強くなりたい。巻ちゃんともう一度出会えることを信じて……あえて進学の道を選びたい」

 まぶしい太陽を見上げ、決心する東堂くん。彼の横顔にはもう、迷いの色はない。

「東堂くんなら、絶対にできるよ」

 生ぬるい風が吹く。空を仰ぐと、空港の中にいる時に見た飛行機雲はきれいに消えていた。


「いいなぁ。オレもう少し早く帰ってくりゃあよかった」

 そしたらタダで風呂入れたのに。素直な荒北くんの言葉に、小さな笑いがこぼれる。
 空が茜色になった頃、荒北くんと二人でサイクリングロードを歩いていた。昼になるとライダーや家族連れでにぎわうサイクリングロードは、夕方の時間帯になると人気は皆無だった。

「ねぇ、荒北くん。もし荒北くんが遠くに行くことになったら、その時は早めに教えてね。心の準備くらいはしておきたいから……」
「遠くに行く予定なんてねーよ。一応、洋南受かったら離ればなれにはなるけど……これ以上、と離れたくなんてないし」
「荒北くん……」

 未来はどうなるかなんて、誰にもわからないけれど。荒北くんの言葉を聞いて、うっすらとした不安が簡単に霧散してしまう。

「にしても、小野田チャンも来てたなんてびっくりじゃナァイ。と同じで面倒事に巻き込まれるタイプだろ、アイツ」

 苦笑するものの、今の荒北くんの言葉になにか引っかかったような。考えを巡らせて、すぐに答えを見つける。

「そういえば、前から思ってたんだけど……荒北くん、私のことをチャン付けで呼んでくれないよね」
「あ?」

 足を止めて、ぱちぱちと目をしばたたく荒北くん。

「チャン付けで呼ばれたいのかヨ」
「そういうわけじゃないけど……なんだか、その呼び方が特別な感じがして」

 荒北くんになにを言っているのだろう、私は。説明のしがたい気持ちになんて言ったらいいかわからず、自分から切り出しておいて口をつぐむ。
 荒北くんが頭を掻いて、一拍置いて言葉を紡ぐ。

「あー……、なんつーか。オレがチャン付けすんのは、そいつのこと認めたっていう証なんだよ。あ、オリコウチャンとか変なアダ名つけてんのは別な」
「ひょっとして、荒北くんの目から見たら私ってまだまだ……?」
「そういうわけじゃねーよ。のことはその……認める認めないじゃなくて、対等な関係でいたいんだよ」

 だから私は呼び捨てなんだ。なんで勝手にこうだって思って、勝手にスネちゃったんだろう。

「もし嫌だっつうんなら呼び方変えるけど」
「ううん。やっぱり、今のままでいい」

 荒北くんの思いをまたひとつ知った。なんだか照れくさくなって、周囲に視線を巡らせる。

「なぁ、
「なぁに、荒北くん――」

 振り返った瞬間、くいと顎を持ち上げられて唇を奪われる。突然のことに私は目を開けたまま。なにがなんだかわからないうちにキスが終わってしまった。

「カレカノになったんだし、いいだろ。このくらい」

 口元を手で隠した荒北くんの顔は、夕焼けに負けないほどに真っ赤に染まっている。つられてなんて言えばいいのかわからなくなって、虚空に視線をそらしてしまう。
 遠くからひぐらしの鳴く声が聞こえる。あともう少しで、高校生活最後の二学期が始まる――。