栄光のサクリファイス 93話

 今年のインハイ最終日の表彰式の後、井尾谷に言われて思い出した。

『ねぇ栄吉くん。二年後に広島にインハイがくるんやって。すごいわぁ』

 待宮が高校から運動部に入った理由。それは、昔付き合っていた佳奈という女の言葉がきっかけだった。

『高校入ったんやし、栄吉くん絶対部活入った方がいいって。インハイ出たら応援行くわ』

 スポーツなんて今まで興味のなかった彼女が突然口にした願い。普段ワガママを言わない彼女だったからこそ、そんな小さな願いをかなえてあげたかった。

『栄吉くんなら運動神経いいし、絶対日本一になれるわぁ』

 インハイが終わった後で思う。今思えばあれは、待宮にケンカをやめさせるために言ってくれた言葉だったのだ。
 気がつけば自転車にのめり込んで、箱学への恨みで頭がいっぱいになって……。いつの間にか、自転車を始めたきっかけさえも忘れていた。
 後にインハイで佳奈と再会して、あの日捨てたはずの感情が、再び胸にこみ上げてきた。

 あれから、井尾谷のおかげで佳奈ともう一度顔を合わせることができた。
 佳奈と過ごすにつれ、待宮は以前の恋人関係に戻りたいと思うようになった。
 だが、同時に待宮は迷っていた。二年目のインハイの後、待宮は佳奈との絆を捨てて箱学に復讐を果たすことを選んだ。ワシには、佳奈と一緒にいる権利はないんじゃ――。
 かといって他の男に取られたくもない。どんなに悩んでも答えが見つからないまま始業式の日を迎えてしまった。
 三度目の目覚ましの音でようやく起き上がり、かつてインハイで全力で戦った相手のことを思い出す。こんなとき、アイツならどうするのだろうか。
 ……そうだ。アイツに会いに行こう。
 あの時、待宮に純粋な気持ちで走ることの強さを見せつけたアイツなら、これから待宮が進むべき道が見つかるかもしれない。
 そうと決まったら早速支度だ。ベッドから下りて、押入れの奥にしまってあったボストンバッグを引っ張り出す。
 さぁ、箱根へ行こう――。

 ◆

 朝、家を出ると愛車のLOOKを押して歩く真波くんを見かけた。真波くんがワンテンポ遅れて私に気がつく。

「真波くん……」
「おはようございます、さん。オレ、用事あるんで先行きますね」

 ニッコリと笑みを浮かべると、自転車に乗って走って去っていく真波くん。だんだん小さくなっていく背中を、立ち止まったまま呆然と見送る。
 もし今度会ったら、いつも通り接しようと思ってたのに。ばったり会ったらうまく言葉が出てこなくて、真波くんに距離を置かれてしまった。
 ぎらぎらと照らす日差し、鳴りやまないセミの声。……こんな所でぼうっと突っ立ってても意味がない。学校に行く道に一歩踏み出した。


 昨日で夏休みが終わり、今日から二学期の始まりだ。久しぶりの教室で過ごし、久しぶりの授業を受ける。休み気分が抜けないまま、午前の授業はあっという間に終わってしまった。

「じゃあ、また後でねー」
「うん。委員会の仕事頑張って」

 昼ごはんを一緒に食べた響子と別れ、廊下を歩いていると前方に荒北くん発見。なにか用があるのか、私に向かって歩いてくる。

「なぁ、。今日の放課後空いてっか?」
「うん? 空いてるけど」
「じゃあ、デートすっぞ」
「えっ? で、でも部活は?」
「部活はこの前引退しただろ」
「あ、そっか」

 インハイは終わり、荒北くんの夢はかなえられた。受験を控えている身ではあるけども、これからはデートしても何の問題もないんだ。

「放課後掃除当番あっから正門前で待ってろ。すぐに行くからよ」
「う、うん。楽しみにしてるね」

 ぎこちない歩調で去っていく荒北くん。そういえば、こうやって誘われるのって二回目だっけ……。いきなり誘われちゃったけれど、どこに行くつもりなんだろう。四月のデートを思い返していたら、後で響子に指摘されてしまうほどに顔が真っ赤になってしまった。


 荒北くんより先に教室を出て、正門前で背筋を伸ばして待機。本当に今日はどこに行くつもりなんだろう。ドキドキしながら待っていると、誰かに肩をポンと叩かれた。

「荒北くん?」

 てっきり、私は荒北くんだと思って、後ろを振り返ったのだけれど……。

「キミ、カレシおるの?」

 後ろには荒北くん――ではなく。学ランを着た赤毛の男の人がいた。
 男の人が私の肩に手を回す。

「ほな、ワシと付き合わんか?」
「は、離してくださいっ」

 身をよじらせるものの、男の人は私の肩を離さない。さて……

【1.荒北くんに教わった護身術で叩きのめす】
【2.大声を出す】
【3.福富くんを呼ぶ】

 知らない人だったら即座に1を実行しているけれど、今目の前にいる人は一応知り合いだ。事情も聞かずに暴力を振るうわけにはいかない。そうなれば2も論外だ。3……はどうしてこんな選択肢が頭の中に浮かんだんだろう。でも、呼べば案外すぐに来てくれそうな気もする。

「…………ひょっとして、荒北と別れたんか?」

 答えあぐねているうちに男の人が困惑する。誤解を解こうとしたその時――!

「テッメェ待宮アアアアアア!!」

 遠くから怒声が聞こえてくる。待宮くんと一緒に、驚いて声がした方に振り向くと、こちらに向かって猛ダッシュしてくる荒北くん。地面を蹴って高く飛び、待宮くんにドロップキックを見舞う!

「ぐほっ!!」
になにしてんだテメェ!! 次やったら蹴っ飛ばすぞ!!」

 もう蹴っ飛ばしてるって。
 そう思ったのもつかの間、荒北くんが心配そうな顔をしてこちらに視線を向けた。

「大丈夫か、コイツになにか変なことされたか!?」
「ううん。肩を抱かれただけで後はなんにも……」

 言った瞬間、待宮くんの体を起こしてヘッドロックをかける荒北くん。

「生きて帰れると思うなよ」
「た、タンマじゃ!! ワシは肩を抱いただけじゃ!!」
「とか言って、いつかの総北の時みたいにふざけた陽動作戦やるんじゃねーだろうなァ!?」
「陽動作戦……? あぁ、総北のマネージャーとどっちが大きいか比べてみるのもおもしろそうじゃなぁ」

 直後、待宮くんの頭に荒北くんの鉄拳が飛ぶ。

「テメー、覚悟はできてんだろうなぁ……?」

 荒北くんが手の関節をポキポキと鳴らし、待宮くんの胸ぐらをつかむ。

「別に減るモンじゃないしええじゃろ……ぐ、ぐるじい! ギブギブギブギブ!」
「荒北くん、離してあげて」
「ケッ」

 ぱっと手を離す荒北くん。待宮くんが喉元を抑えて咳込んだ。

「ごほっ、ごほっ、ごほっ……! ……さすが飢えた野獣の名は伊達じゃないのぅ」
「っせ! つか、その名前と今は全然関係ねーだろ! で、なにしに来たんだよ待宮。くだらない理由だったら帰るぞ」

 咳が収まった待宮くんが立ち上がり、得意気に笑う。

「エッエッエッ。聞いて驚け! ワシはなぁ、自分探しの旅の真っ最中なのじゃ!」
「…………行こうぜ、

 荒北くんに肩を押され、その場を立ち去る――

「話を聞けェーっ!!」
「なんでオマエに付き合わなきゃいけねーんだ! オレは忙しいんだ、あっち行けっ!」
「随分と忙しいんじゃのぅ荒北。まさかこれからデート……」

 荒北くんが待宮くんの胸ぐらに手を伸ばす。

「暴力反対じゃ!」
「だったら余計なこと言うんじゃねーヨ! 第一、学校はどうした学校はァ!」
「それなら今日は病欠じゃ」
「明日は?」
「明日も病欠じゃ」
「…………」
「これも自分探しの旅のためじゃ。多少サボったってええじゃろ」

 悪びれる様子もなく胸を張って自慢げに言う待宮くん。そういえば今気づいたんだけど、正門前にロードバイクがある。もしかして広島からここまで来たのだろうか?

「で、本当の自分見つけてどうすんだ? 将来ペテン師にでもなんのか」
「エッエッエッ。予定は未定じゃ」
「あーそォ。ま、頑張れよ」

 再び荒北くんに背中を押され、その場を立ち去る――

「まだ話は終わっとらん!」
「んだよしつけーな!」
「なんでワシが箱学に来たのか聞いてほしいんじゃ」
「興味ねーよンなモン」

 だんだん苛立ち始めた荒北くん。全身から殺気が漂っているけれど、待宮くんの話はまだまだ続く。

「実はモってないことに財布を落としてのぅ……。幸いさっき警察から連絡があって後で取りに行くんじゃが、今腹ペコで一歩も動けんのじゃ。じゃけぇなにかおごってくれ!」
「なんでオレがオメーにメシおごらなきゃいけねーんだよ! さっきも言ったけどオレは忙しいんだ。他当たれっ」
「いいのかのぅ、いいのかのぅ。そこのカノジョに表彰式の時に聞いたノロケ話を教えても……」
「なっ!」
「口止め料としてお好み焼きを食べさせてもらおうかのぅ。もちろん、大阪のパチもんのお好み焼きじゃなくて、広島のおいしいお好み焼きの方じゃ――ってまたヘッドロック!! 暴力反対って言ったじゃろ!!」
「るっせ!! それが人に物を頼むときの態度かよ!!」

 仲がいいんだか悪いんだかよくわからない二人のやり取りを見ながら思う。今日のデート、台無しだなぁ……。


「広島風お好み焼きに唐揚げとポテトのセット、ドリンクバーを三つですね」

 店員さんが注文を復唱する。ドリンクバーの位置を簡単に説明すると、厨房に消えていった。

ちゃんも広島風お好み焼きにすりゃあよかったのに」
「テメェ人のカノジョにちゃん付けしてんじゃねーよ」
「いつからちゃんは荒北の所有物になったんじゃ?」
「そ、それは……」

 胸を反らして余裕な笑みを浮かべる待宮くんと、口には勝てずキッとにらみ返す荒北くん。荒北くんの隣に座っている私はなんだか居心地が悪い。

「私、ドリンク持ってくるね」
「あ、ワリィ」

 無益な争いに巻き込まれる前に、ドリンクバーに避難避難。グラスにベプシを注いでる最中、待宮くんの注文を聞くことを忘れてしまったことに気づく。……待宮くんも同じものでいっか。
 小さなお盆にベプシが入ったグラスを載せて戻ろうとすると、二人がなにやら話していた。

「で、どこまでいったんじゃ?」
「ア?」

 これからなにを聞こうとしているのか、ニヤニヤしている待宮くん。一方荒北くんは疑問符を浮かべている。

「なにが?」
「なにがって、ちゃんとに決まっとるじゃろう」
「アイツと? ……あー、北は覚えてねーけど南は熊本まで行った。あん時熊本夏でさぁ、その時のレースすっげー暑くてだるかった」
「そんなこと聞いとるんじゃないわこの純情バカッ!! ワシが聞いとるのはヤったんかっていう意味じゃ!!」

 ぽかんとした荒北くんの顔が急激に赤くなり、うつむいてわなわなと震える。……あぁ、この先の展開が読めてきたぞ……。

「…………なぁ、待宮」
「なんじゃ? もしかして、行くところまで行ったんか?」

 待宮くんが机に身を乗り出して、興味津々に耳を傾ける。
 荒北くんが席から立ち上がり、待宮くんの頭上に手刀を落とす――!

「ぐぇっ!!」
「テメー! 今度ンなこと聞いたらぜってーに容赦しねーからな!! 簀巻きにして山中湖に沈めてやらぁ!!」

 「フン!!」すっかり怒ってしまった荒北くんが、店の出口に向かって歩いていく。頭でも冷やしてくるのだろう。
 氷が溶ける音で我に返った私は、盆をテーブルの上に置いて、机に顔を伏せた待宮くんの様子をうかがう。

「荒北と付き合うの、考え直した方がええと思うぞ……」
「あはは」

 笑って流して、席につく。荒北くんはしばらく戻ってこないだろう。
 待宮くんと話すのは今日が初めてだけど、彼のことはよく知っている。
 ――待宮栄吉くん。彼は今年のインハイ最終日で、集団をペテンにかけて一時は優勝に一番近い存在になった。

「アイツは強かった。もしアイツが純粋な気持ちで走っていたら、オレはアイツに負けてたかもしんねェ」

 荒北くんが誰かを素直に認めるのは珍しいことだ。小野田くんのことも褒めてたけど、それは彼の将来性を期待しての言葉だった。
 荒北くんが同年代の人を褒めたのは福富くん以外に聞いたことがない。
 そんな待宮くんはなぜここまで来たのだろう。自分探しの旅だけならば、わざわざ箱根に来なくてもよかったはずだ。

「旅をしてどのくらい経ったの?」
「今日で二日目じゃ」
「すごい。二日で広島からここまで来ちゃうなんて……」
「一応言っとくけど、新幹線と電車を乗り継いでここまで来たんじゃ」
「そ、そうなんだ」

 てっきり、ロードバイクひとつでここまで来たのかと思ってしまった。

「でも、どうして箱根に?」
「それはのぅ」
「うん」
「荒北のヤツをからかいに来たんじゃ」

 肩の力が抜ける。一拍置いて話した意味とは一体……。

「いじるとおもしろいじゃろ、アイツ」
「否定はできないけど……」
「まさか本当にインハイ終わってから付き合い始めるとはのぅ。どがつくほどの純情バカじゃな。……ワシもあの時佳奈と別れていなければ、今頃一緒にいたんじゃがのぅ」
「待宮くん……?」

 さっき待宮くんはなんて言ったんだろう。小声でよく聞き取れなかった。

「独り言じゃ」

 待宮くんが寂しそうに笑う。その顔を見て、さらに聞こうとすると荒北くんが戻ってきた。

「おいコラ待宮。に変な話吹き込んでんじゃねーだろうなぁ」
「さて、どうかのぅ」

 荒北くんが訝しみながら私の隣に座る。待宮くんのお腹の音が大きく鳴った時、彼が頼んでいたお好み焼きがきた。