栄光のサクリファイス 97話

「どうしよう~」

 昼休み、響子と別れて教室に戻ると桃香が頭を抱えて唸っていた。

「どうしたの、桃香」
「この前彼氏が私の家に来たいって言っててさー」
「ご両親にあいさつでもするの?」
「違うよー。うちの両親、土曜日仕事でいないんだけどさ、その日にうちに来たいって言ってるんだよ」
「なら普通に上げればいいじゃん」
「……アンタ、事の重大さわかってる? 好きな男の子を家に上げるって一大事なのよ!?」

 顔を上げて力説する桃香に、疑問に思いながら振り返る。
 家に二回泊まったことのある荒北くん。最初家に泊まるって言われた時はびっくりしたけど、案外どうってことはなかった。

「慣れれば平気だよ」
「な、慣れればってアンタ、今付き合ってる人いるの!?」
「い、いないよ!!」

 窓側の一番後ろの席の人物がいないことを確認しながら言った。荒北くんと付き合っているということは、今は一部の人を除き他の人には内緒だ。友達の響子や桃香だって例外ではない。

「もし押し倒されたりしたら、私どうしよう……」
「えっ」
「だって、男の子が家に上がるってそういうことだよ。幼なじみとかならともかく、彼氏を家に上げて何事もなく済むもんですか。きっと彼氏は一歩先に進みたいのよ」

 頭の中が真っ白になる。
 荒北くん、もしかしてそういうことがしたくて家に来てたのだろうか……! 急いで今までの出来事を思い出す。
 一回目の四月二日。あの日荒北くんは私と一緒にいたいという理由で、家に泊まりに来た。それにやましい気持ちはないはずだ。……たぶん。
 二回目の八月二週目。荒北くんが、実家に帰る前に私の家に泊まりに来てくれた。あの時はインハイの話になって一晩中荒北くんの話を聞いていたけれど……もしかしてそういうことなのだろうか。
 で、でも、あの時はまだ付き合っていなかったし……!

「あーどうしよう~。でも、あんまり嫌って言ったら嫌われちゃうかも」

 ガーン。頭の中にショックを受けた音が響き渡る。
 実際に襲われそうになったことは一回もない。私がこんなんだから荒北くんは遠慮しているのだろうか……?

「どうしたの、。アンタすごい顔が赤いよ」
「放っておいて……」

 この時の桃香との会話は、後にずるずるとひきずることになる……。


「なぁ、
「は、はい!!」
「……なんかオマエ、今日リアクションがいちいち派手だな」

 放課後の教室で、机を向かい合わせにした荒北くんが冷ややかにツッコミを入れる。

「明日さ、の家行っていいか?」
「えっ」
「土曜日図書室混むしの家行きたい。……別に、嫌ならいいけど」
「そ、それは……」

 桃香の言っていたことが頭によぎる。今度こそ私は荒北くんに襲われるのだろうか……?
 逡巡していると、荒北くんがそっぽを向く。

「い、いいよ来ても」
「あ、そぅ」

 ノートに視線を戻し、さらさらと筆記用具を動かす荒北くん。いけない、勉強に集中しなきゃ……。教科書を手にとって顔に近づける。

「……教科書、逆さまだぞ」
「へっ」

 言われてみると本当に逆さまだ! 急いで正しい位置にひっくり返す。

「オマエ本当に大丈夫かァ? 顔真っ赤だし、熱でもあんのか」
「ひゃっ」

 急におでこに手を当てられて、ぎゅっと目を瞑る。その時、荒北くんの息を呑む音がかすかに聞こえた。

「あんま変なリアクションすんな」
「きゃっ」

 デコピンされて額を両手でさする。結構痛い……。

「そういう反応されると……したくなるだろ」

 口元を手で隠して荒北くんが言った。ついに頭の中が爆発して、なにも考えられなくなる。

「…………」
「……おい、。おーい」

 荒北くんが私の前で手を振るものの、完全に放心状態。
 その後の帰り道、電柱に頭をぶつけたり、滑って転んだりして危険がいっぱいの帰り道だった……。


 そして次の日。

「ちっす」

 荒北くんが私の家にやってきた。とりあえず私は荒北くんを家に上げ、いつものとおりリビングにあるソファに座ってもらう。
 荒北くんの近くに置いた湯のみに、急須を持って温かいお茶を注ぐ。「どうぞ……」と言うと荒北くんは「サンキュ」と言ってずずずっと茶を啜った。

「ここで勉強会やんのか?」
「うん? そうだけど」

 荒北くんが眉根を寄せて口をつぐむ。かと思いきや、口を開いて

の部屋行きたい」
「……えっ」
「だってお前、前にオレの部屋来たし。お前の部屋に行かないなんて不公平だろ」
「そ、それはそうだけど……」
「掃除の時間くらい、待っててやるけど」
「それは大丈夫です」

 昨日、眠れなくて自分の部屋を掃除していた。だから今すぐ部屋に来てもなにも困ることはない。もう私は前に風邪をひいたときの赤っ恥は繰り返さないのだ。
 赤っ恥はかかないけれど、もしかして荒北くんは……。荒北くんの顔をちらりと見る。私の視線を不思議に思ったのか、彼は小首をかしげた。

 私の部屋に移動し、折りたたみテーブルを広げて荒北くんと向かい合う。教科書とノートを広げ黙々と勉強している荒北くん。だけど私は勉強に手がつかない。

「さっきから手止まってんぞ」
「ご、ゴメン」
「……ま、最近勉強漬けだしな。オレも疲れた」

 荒北くんが床に手をついて背中をそらす。

「なにか持ってこようか? 冷蔵庫にベプシ入れておいたんだ」
「オレが持ってくる。お前疲れてんだしそこで待ってろ」
「いいよ、私の家だし」

 私が立ち上がると、荒北くんも一緒に立ち上がる。ここは私の家なんだから任せてくれてもいいのに……。面倒くさがりやのクセに、こういうところでは荒北くんは自分がやると言って聞かなかったりする。

「さっきから思ってたんだけど、昨日から変だぞ。まさかお前、本当に風邪でもひいたんじゃ――」

 その時だった。急に腕を取られたものだからバランスを崩し、後ろに倒れる。荒北くんが慌てて支えるも、時既に遅し。荒北くんまで巻き込んで、視界がひっくり返る――!

「いてて……」

 身動きした荒北くんに変な声が出そうになる。視線を巡らせれば、私のすぐ隣で荒北くんがうつ伏せに倒れている。荒北くんの髪が私の首にかかっていて、頭を動かされるとくすぐったい。
 ……問題はその後だった。

「あ、荒北くん……」

 荒北くんの手が、私の胸をつかんでいる。

「や、あっ……あっ……!」

 二、三回揉まれて抑えきれない声が出た。まんざらでもない感覚に理性がはじけそうになる。

「だめ、触らないで……!」
「なんだよ、変な声出して」

 ようやく起き上がった荒北くんが視線を落としてやっと気がついた。――その手が、私の胸にあるということを。
 ぱっと後ろに飛び退く荒北くん。

「こここ、これは違うんだよ!! 起き上がろうとしたらお前の胸がたまたまそこにあって!! どさぐさまぎれに触ったんじゃねーぞっ!! 柔らけェなって思って、何度も揉んじまったケド……!」

 ぽろぽろぽろぽろ……。無意識のうちに涙が流れた。

「わ、悪かった!! 本っ当に悪かった!! 今のは忘れるから!! たぶん!!」

 すばやく正座をして何度も床に額をつける荒北くん。突然のトラブルに頭の中が真っ白になるけども、忘れちゃいけないことがある。

「荒北くんは、そういうことがしたくて家に来たんじゃないの?」
「ア?」
「だって、男の子が家に来るって、そういうことだってやっとわかったから……」

 これ以上口にするのが恥ずかしくて、仰向けになったまま荒北くんから視線をそらす。なにを言ってるんだろう、私は。でも、こうでもしないと荒北くんは遠慮するだろう。
 今日を迎えるのに、すっごく悩んだ。付き合って何日経ったらこういうことをするのか。どういうシチュエーションでこうなっちゃうのか……。散々悩んだ結果、荒北くんが望むのならいつでもいいと思った。初めてのことだから怖いし、うまくいくかわからないけど……。荒北くんには嫌われたくないし、なにより、心に決めた人だ。もし襲われても、抵抗せずに受けて入れてしまうと思う。

「初めてだし、怖いけど……いいよ?」

 本当にこれでいいのだろうか? そう思う気持ちは、なくはないけど。
 なにも言わない荒北くんに、不安になって半身を起こそうとした時。

「……。今の、冗談が通じないことはわかってんだろうなァ?」

 荒北くんが覆いかぶさって、視線がぶつかる。飢えた野獣という二つ名にふさわしい鋭い眼光に、心臓が大きく跳ねる。

「オレだって男だ。据え膳見せられて尻尾まいて逃げるような真似はしねーぞ」
「荒北くん……」

 荒北くんから近づいて、長い口づけをする。二度唇を重ねた後、視線が交わる。

「……言っとくけど、オレも初めてだから」

 荒北くんの手が私の胸をつかむ。今度は偶然じゃない。荒北くん自身の意思で胸を触ったんだ。
 これからくる刺激に、ぎゅっと目を瞑った時だった。

 ピンポーン。

 玄関のチャイムの音が響く。荒北くんが私の体から離れ、後ろの壁に背中をつけた。

「で、出てくるねっ」

 慌てて部屋を出て玄関のドアを開けるとそこには、

「……福富くん」

 私の家を訪ねてきたのは福富くん。片手には梨がたくさん入った袋を持っている。

「この前オレの親が梨を送ってくれた。たくさんあるからお前にもおすそ分けしようと思ったのだが」
「あ、ありがとう」
「……む。荒北の靴があるな。……もしかして、取り込み中だったか?」
「福富くんありがとう!! また明日学校でね!!」

 幼なじみを追い出してドアを閉める。真っ赤になった顔で梨を置きに台所に行くと、大量に水が流れている音が聞こえた。
 さっきまでこんな音はしなかったのになんでだろう。台所をのぞくと、荒北くんが蛇口から流した水で頭を盛大に濡らしている――!

「わーっ!! 荒北くんなにやってるのー!!」

 急いでバスタオルを取ってきて荒北くんに渡す。荒北くんはショートカットの貞子よろしく顔が見えない状態で私が差し出したタオルを受け取って頭に被った。
 ……頭でも冷やしていたのだろうか。顔がすごく真っ赤になっている。

「今のなしなし! なんか雰囲気に流されそうになったけど、オレはエロいことがしたくてんち来てるわけじゃねーよっ!! オレがここに来てんのはと一緒にいたいだけだっ!」

 だとしたらなんて勘違いをしたんだろう、私……! 恥ずかしくて荒北くんの顔が見られない。

「それにここ、お前の親がお前を信用して借りた家だろっ! そういう家でヤんのはなんかフェアじゃねェ!」
「ヤ、ヤる……」
「決めた。オレは卒業まで、お前には絶対に手を出さない! あと半年だろ!? 待ってやんよ!! ……がしたいんなら、予定変えるけど」
「ううん。私も、荒北くんがそうするならそれに従う」

 今ここで関係を深めるのもいいけど、今の私はキスされただけで充分に満たされた気持ちになる。時々思い出しては真っ赤になっちゃうくらいで、こんな状態で今そんなことをされたら……たぶん、受け止め切れない。

「……そっか。それならいいけどよ、卒業した後、違う場所でふたりっきりになったときは覚悟しとけ。そんときはオレ、抑えきれないから」

 荒北くんが顔を真っ赤にして言った。恥ずかしい約束をされて、なにも言えずに口をつぐんでしまう。
 その後、勉強会を再開したものの、お互い勉強に手がつかずにすぐに解散になった。それから一週間の間、荒北くんとまともに顔が合わせられなかったのは言うまでもない。