栄光のサクリファイス 103話
遠くに、スプリントリザルトが見える。リザルト付近の沿道にはたくさんの人で溢れかえっている。
雲ひとつない青い空、熱冷ましにもならないぬるい風。バカみてェに叫ぶ観客の声は鼓膜が割れそうなほどうるさくて、太陽がぎらぎらと輝いてまぶしい。
――ここまで、オレは来たんだ。実感して、ハンドルを強く握る。
ガキの頃に思い描いていた夢とは遠い現在地。けど、オレはここに来たことを後悔していない。自転車に乗らなきゃオレはトンがってたままだったし、なにより……アイツにはきっと会えなかった。
無心でペダルを回す。すぐに足に限界が来て、福チャンたちがオレの前に出る。やっぱり、リザルトまでは持たなかったか……。
地に足をつけて、頭を低くして呼吸が落ち着くのを待つ。その後、空を仰いだ。
青く澄みきった空は果てしなくどこまでも続いている。これが……オレのたどり着いた場所。
オレは、夢の果てにたどり着いた――。
真っ暗な病室の中、白衣を着た男がアナログテレビの画面を見つめている。
「不思議だよね。一時はその感情が足を引っ張ったはずなのに。結局靖くんはそれを乗り越えて、前に進むことができた」
男が誰もいないベッドに視線を向ける。
「君なら……最悪の世界も変えることができるのかな。ねぇ、チャン」
◆
遅刻ぎりぎりの朝、急いで自分の部屋のドアを開ける。机の上にあるお守りを取って、すばやくバッグの中に入れる。
金剛山ヒルクライムレースからだいぶ経ったけど、荒北くんにお守りを返すのをすっかり忘れてた! 怒られる前に今日返そう!
今度こそ忘れ物がないことを確認して、急いで家を出る。少しだけ走れば、後は間に合いそうだ。とりあえず体力が持つところまで軽い気持ちで走ってみる。
金剛山ヒルクライムレースから、真波くんはちょっとだけ元気になった。時々苦しそうな表情を見せるけれど、それでも、部活をやめるという選択肢がなくなった彼は前より少しだけ強くなった。
「あの時言ったとおり、オレはこれからもここで頑張ります。つらい思いをした分だけ、強くなることができるって二人に教えてもらったから」
この前部活で会った時、真波くんはこう言っていた。二人はたぶん、私と荒北くんのことを指しているのだろう。
傷が癒えるのにまだまだ時間はかかるけれど、彼はもう迷わない。そのことがわかった私は、充分に受験勉強に専念できるようになった。
こうして日々を過ごしている間にも、卒業の日が少しずつ近づきつつある。限りある時間の中、一日一日を大切に過ごそう。
そう思っていた時、遠くから誰かの声が聞こえてきた。
「話すことなんてありませんっ! 帰ってください!!」
男の子の声が住宅街に響く。足を止めて声のした方角を見ると、一軒家の前に、学ランを着た男の子と複数の大人たちがいた。スーツ姿の男が男の子に近づく。
「そう言わずに本当の話を聞かせてよ。手ぶらで会社に戻るわけにはいかないんだからさぁ」
スーツの男が中学生の前に立ちはだかる。会話から察するに、二人は親しい関係じゃないのだろう。
「君のいる野球部も八百長に関わってたっていううわさだけど本当はどうなの? 記事には匿名で書いてあげるからさ、気になることがあったら教えてよ」
二人の会話には既視感がある。
……そうだ。一年前の合宿三日目、私はゴシップ記者に捕まったことがある。あの時と今、重なる点がいくつもある――!
そう思った時、自然と駆け出していた。集団の記者の一人が私に振り返る。
「近所の方ですか? すみません、今大事なところで……」
「中学生相手になにやってるんですか!?」
「そう言われたって、これが私たちの仕事ですし」
へらへらと笑う記者に怒りが募る。
その時、周りの空気が変わった。逃げるように走る男の子を、複数の記者たちが追いかける。
どういう事情でこんなことをしているのかはわからない。けど、子ども相手にこんなことはしちゃダメだ。
「待って!」
記者の一人の肩をつかむ。
「部外者はすっこんでろこのクソガキッッ!!」
男に肩を押されて倒れる。
その時、遠くでバイクの走る音が聞こえてきた。その音がどんどんこちらに近づいてくる。
倒れている最中、音が聞こえる方向に首を巡らす。バイクに乗った人が青い顔をして慌ててブレーキをかけている。ここまでどのくらいの距離があるのだろう。でも、たぶん間に合わない――!!
そういえば最近、誰かに忠告されたっけ。お人好しはほどほどにしとけって。でも、黙って素通りなんてできなかった。ここで見てみぬフリをしたら、男の子はもっと嫌な思いをするに違いないのだから。
真っ先に思い浮かんだのは荒北くんの顔。去年、私が怪我をして入院した時、ようやく起きた私を見て彼は頬に涙を流していた。
あぁ、また私は、荒北くんに悲しい思いをさせてしまうのか――。
まぶしい光を感じて目を開ける。目に映ったのは自分の部屋の天井。起きてすぐに、バイクに轢かれそうになったことを思い出して起き上がる。
「あ、あれ……?」
体中のどこにも痛みがない。ベッドから下りて姿見を見てみるけれど、いつもどおりの私だ。どこも怪我してないし、なのに怖い思いをした記憶は鮮明に残っている。
……なーんだ、夢か。ほっとして掛け時計を見ると、時計の針は十二時を指している。……もちろん、外は明るいし、夜なんてオチはない。
「遅刻遅刻ー!!」
急いで階段を下りて、学校に行くための準備をする。サボるわけにはいかないし、早く学校に行かなきゃ……!
学校に着いた時には昼休みになっていた。にぎやかな雰囲気の中、バッグを持って廊下を小走りする私にすれ違う人たちからの視線を感じる。教室のドアを開けると、案の定みんなの視線が私に集まった。たまたま手前にいた響子が驚いて席を立った。
「ちょっとどうしたの!? 寝坊?」
「うん、寝坊……」
「アンタが寝坊するなんて珍しいわねー。勉強疲れ?」
「たぶんそうかも」
苦笑しながら窓際の自分の席に座る。……あれ? 机の横に誰かのバッグがぶら下がってる。誰が間違えたんだろう。首をかしげていると、響子が慌てて駆け寄ってきた。
「アンタどこ座ってんのよ」
「へっ?」
「そこ、田島の席! アンタの席はこっちでしょう!?」
響子が三つ横の席を指さす。あれれ? いつの間に席替えなんてしたんだろう。そういえば最近、誰かがもうすぐ卒業だし、席替えしたいってボヤいてたなぁ。ずーっと同じ席のままだったし、先生が誰かの要望に応えてくれたのだろうか。
荒北くんはどこの席になったのかな。周囲を見渡してみるけども、学食でごはんを食べているのか彼の姿はない。
あの席、結構気に入ってたんだけどなぁ。突然の席替えに残念に思いながら自分の席につく。
その後始まった授業でも荒北くんの姿は見当たらなかった。前の席にぽつんと空いた席がひとつだけある。たぶんそこが荒北くんの席なのだろう。もしかして、また風邪でもひいて休んでいるのだろうか。
ポケットの中に入っているお守りにそっと触れる。今日はお守りを返すことができなさそうだ。
放課後、帰りの準備をしていると響子が話しかけてきた。
「、一緒に帰ろう」
「うん。ちょっと待ってて」
携帯を取り出してメール画面を開く。響子、福富くん、新開くん、東堂くん……色んな人の名前が並んだ過去のメール一覧に荒北くんの名前がない。おかしいなぁ。ぼーっとしてて、メール消しちゃったのかな。
「?」
急かす響子の一声で携帯を閉じる。荒北くんのことがちょっと心配だけど、連絡は後にして今は響子と一緒に帰ろう。
校舎から出ると、冷たい風を体に浴びた。「最近寒くなってきたね~」響子が首に巻いたマフラーをつかんでぶるると震えた。
「そういえば、クリスマスの予定空いてる? もしよかったら女子会やらない?」
「ゴメン、その日は荒北くんと過ごす予定があって……」
直後、自分の過ちに気がついた。うっかり口を滑らせてしまった……!! 響子にはまだなにも言ってないのに!
追及されることを覚悟して目を閉じると、響子はなにも言ってこない。驚きのあまり呆然としているのだろうか……? ドキドキしながら目を開けると、隣にいた響子は不思議そうな顔をしていた。
「荒北くんって誰?」
――響子は一体なにを言っているのだろう。荒北くんとはクラスメイトなのに、そんなことを言うなんて。
「きょ、響子こそなに言ってるの? クラスメイトの顔も忘れちゃったの?」
「がおかしいんだってば! これ、今日配られた実験のグループ表! そこに荒北っていう人の名前はないでしょ!?」
響子がバッグの中から取り出した紙を奪い取って注意深く見る。…………荒北くんの名前はない。これって、一体どういうことなの……!?
「……ゴメン響子。私、用事思い出した」
「ちょっ、ちょっとっ!?」
走って自転車部に向かう。彼なら、部室にいるかもしれない……!
自転車部の前に行くと、福富くんの後ろ姿が見えた。「福富くんっ!」部室に入ろうとする彼を寸前のところで呼び止める。
「……か。そんなに息を切らして走ってどうした?」
「福富くんって、荒北くんのこと知ってるよね? さっき私の友達が変なこと言ってて、うちのクラスにはいないっていうの!」
喋っているうちに頭が冷えてきた。実は響子、私が荒北くんと付き合っていること知ってて、今日は何かのイベントでこんな大掛かりなドッキリを仕掛けたんだ。グループ表を見た時は完全に騙されたけれど、あれだって先生が作ったとは断言できない。だって、それを配られた時には私は遅刻でいなかったんだから――!
そう、これはただのドッキリ。期待をこめて福富くんの言葉を待っていたのに――
「荒北? そんなヤツのことは知らん」
福富くんまでなにを言っているのだろう。まさか、福富くんもドッキリの仲間に加わっているとか!
「なんで福富くんまでそういうこと言うの……? 私、こういうの嫌い。お願いだから正直に言って!」
「お前こそ本当になにを言っているんだ。他校の自転車部でも荒北という名字は聞いたことはないぞ」
「嘘……」
「嘘じゃない」
頭の中が真っ白になる。福富くんはもともと嘘をつくようなタイプじゃない。そんなの、小さい頃から一緒にいた私なら充分にわかっているじゃないか……!
だとしたら一体? 私とみんなの間で齟齬が起きている荒北くんに一体なにが起きたの?
なにも認めたくなくて、飼育小屋に向かって走る。途中で福富くんが私を呼び止める声が聞こえたけれど、止まらずに走った。
ウサギ小屋に行くと、新開くんがいた。しゃがんでウサ吉に餌をあげている新開くんに、すぐさま声をかける。
「新開くんっ」
「あ、。今日はウサ吉に会いにきてくれたのかい?」
「荒北くん、どこに行っちゃったの!? みんな口を揃えてそんな人知らないって言ってて……新開くんなら教えてくれるよね!?」
『もし悩み事があったら、オレや寿一や靖友でもいい。気兼ねなく相談しろよ? 普段世話になってる分、力になるから』ここに来る途中で、前に言われた新開くんの言葉を思い出した。新開くんならきっと助けてくれる。たとえドッキリに加担していたとしても、私が困っているときには助けてくれるだろう――!
新開くんが私の前に立って、優しげな笑みを浮かべる。
「落ち着いて、。きっとなんか変な夢でも見たんだ。これでも食って落ち着けよ」
「いらないっ!!」
新開くんが差し出したパワーバーを払いのける。加減を考えずに払った手は想像以上に力が入ってしまい、パワーバーが弧を掻いて地面に落ちた。
手がじんじんと痛い。新開くんも私と同じように痛かったはずだ……。
「ご、ゴメン……」
顔を上げた時、涙が零れそうになった。泣き顔を見られる前に急いでその場を後にする。
校舎裏、山頂、寮の帰り道。色んな所を走ったり自転車に乗って探しているけども荒北くんは見つからない。
頭には荒北くんの稀に見せる笑顔が焼き付いている。最後に重ねた唇の感触も覚えてるし、二年間の思い出ははっきりと覚えている! それに、お守りだってここにある。
きっと周りがおかしいだけなんだ……! ペダルを強く踏んで走っていると、石を踏んでしまった。大きな音を立てて転倒し、痛みに声を上げる。
これが夢なら覚めてほしい。……けど、新開くんの手をはたいた時。今自転車で転んだ時。じんじんと痛む手が、擦りむいて膝から流れる血が、これは現実だっていうことを証明している。
私が、おかしいの……?
涙を流したまま自転車を起こす。走る気力もない私は、自転車を押したままあてもなく道を歩いた。
どれほど歩いたのだろう。空がだんだん暗くなった頃、こじんまりとした個人店のショーウィンドウから明かりが漏れていることに気づいた。自転車を押しながら、その光に引き寄せられるように歩いていく。
光っているのはテレビだった。電気店なのかショーウィンドウに飾られているテレビはテレビ番組が映っていた。
最初は、光に引き寄せられただけだった。しかし、懐かしい声が聞こえた瞬間、歩調を早めてテレビに近づく。
『夏の甲子園は惜しかったですねー』
『はい。でも、全力を出し切りました。自分にとって悔いのない戦いをしたつもりです』
『来年はオリオンズに入団されるとのことですが、意気込みは?』
『プロ野球選手になれることに小さい頃からの夢がやっとかなったんだとドキドキしています。プロの名に恥じないように、一人の選手としてチームに貢献したいと思います』
『ありがとうございます! 横浜綾瀬高校からドラフト四位で入団が決まった荒北靖友くんでした!』
手を離した自転車が地面に倒れる。テレビに映った人の顔を見たまま呆然と立ち尽くす。
なんで、荒北くんがそこにいるの――?