栄光のサクリファイス 104話

 フェンスの向こうに荒北くんがいる。野球のユニフォームを着て、仲間たちと談笑している。
 中学二年生の頃、肘を壊す運命を回避してまっすぐに野球の道を歩んだ荒北くん。あれは彼の理想の姿なのだろう。
 このままそっとしておけば、荒北くんは幸せでいられる。それは寂しいことだけど、好きな人の不幸を望むことなんてできやしない。
 声をかけることなく背中を向ける。その場から離れようとして――思い留まる。

『でもオレは、もう一度どこまで行けるかを試してみたい。そうして、ここまで来た……』

 違う。あの場所にいる人は、荒北くんじゃない。

『ここまで、すっげぇ長かった。地に足つけている時間よりも、自転車に乗っている時間の方が長かった気がする』
『なぁ、。ここまで導いてくれてありがとう。お前に出会わなかったらオレは……南雲たちに向き合うことも、ここまで速くなることもできなかった』

 私が知っている荒北くんは、道がそれた後だったけれどそれでも迷わずに走りきった。
 仲間を優勝に導く誇り高きエースアシスト。記録には残らないし、インハイを観に行った観客も、荒北くんがどんな思いでリタイアしたか知る人は少ないだろう。無論、私も全部を知っているわけじゃない。荒北くんの話を聞いただけでその場にはいなかったのだから……。
 だからこそ私は信じなきゃ。目の前に幸せそうな荒北くんがいるからって、彼の今までの努力を否定するわけにはいかない。後戻りしてフェンスをつかむ。

「違う、荒北くんじゃないっ!!」

 荒北くん似の人が、驚いた顔で振り返る。

「君は一体誰っ――!?」
「正解。君が今見ているのは違う世界の靖くんだよ」

 世界が一瞬にして変わった。
 白い天井、白い壁、白いカーテン。ベッドから起き上がると白衣姿の荒北くんが近くにいた。スツールに座ってバインダーを片手に持っている。この人に会うのはこれで二度目だ。

「あなたはたしか……」
「久しぶりだね。あの時オレがちゃーんと忠告してあげたのになァ。今頃靖くん青ざめた顔で病院に向かって走ってる最中だと思うよ」
「私、もしかして死んだの……?」
「違うよ。君は今、すやすやと病室で眠っている。あと数時間したら目が覚めるだろうさ。君が轢かれると思っていたバイクはギリギリのところでブレーキをかけた。……君って、つくづく幸運なのか不運なのかわからないよ」
「だったら元の場所に戻して。いつまでも夢の中にいるわけにはいかない」
「それは無理。しばらくはオレの実験に付き合ってもらうことになるからね」

 それまで穏やかに喋っていた彼は、突然強い口調で言い切った。戸惑って言葉を失っていると、彼は宥めるように笑みを浮かべた。

「自己紹介が遅れたね。オレは荒北靖友。靖くんと同じ名前で紛らわしいからミヅキって呼んでもらおうかな」
「ミヅキ……?」
「不思議の国のアリスに出てくる三月ウサギ。強引だけどミヅキってね。オレは行動心理学を研究している。たとえば、パブロフの犬って知ってる? 犬にエサを与えるときにベルを鳴らす習慣をつけると、エサを用意していない状態でベルを鳴らしても犬がよだれを垂らすという有名な研究さ。君は信じてくれないかもしれないけれど、オレのいる世界ではこうやって自分のたどる道をシミュレートすることができる。そこで君を見つけたんだ」
「信じられない……」
「そりゃそうだよね。ちょっと昔の人に、長方形の機械で世界中の人と話ができる、なんて言っても信じないだろうさ」
「もしそれが本当だったとして、今の私は偽物ってこと……?」

 今の私はミヅキが言うシミュレートの上での存在なのだろうか……? 体中に悪寒が走る。

「いいや、違うよ。君は本物の世界でちゃんと生きている。偽物なんかじゃないよ。そこは安心していい。……話の途中で夢から覚めるといけないし、本題に入ろうか。もし、オレがたどる最低最悪の世界で、出会うことのない君ともし出会ったとしたら……そしたら靖くんはどう変化するのかこの目で見てみたいんだ。これはシミュレーターだ。君が目覚めたときには、君の記憶には何も残らない。うまくいっても、失敗しても、君は元の世界に帰ることができる。だから安心して日々を過ごすといい。オレは困るけど、目覚めの時間が来るまで延々と家にこもっててもかまわない。君は真面目チャンだから、そんなことはできないと思うけどネ」
「ミヅキは……結果はどうなると思っているの?」
「オレの答えは決まっている。――君は靖くんを救えない。その理由に、第一の理由として靖くんを救うに君は力不足であることが挙げられる。君が靖くんに抱いている恋愛感情。恋愛感情は人間なら誰しもが持っていると勘違いされやすいが、その感情は決して普遍ではない。さらに悪く言えば、恋愛感情は本能の寄せ集めだ。……君は靖くんのことを愛しているのではなく、『かわいそう』だから一緒にいるんだ。一人で歩もうとしている彼を放っておけなかった。君はただの世話焼きなんだ」
「違う……。私は荒北くんのことが好きだから一緒にいる。ミヅキの仮説には当てはまらない」
「昔靖くんがにらむだけで怯えてたのに。随分強気になったもんだよね」
「…………」
「たぶん靖くんも同じことを言うと思うよ。……まぁ期待はしないよ。君はこの数日間、靖くんがどうなるか見守っていくといい。元の世界の靖くんのことを忘れて彼と恋に落ちるのもいいし、傍観者を貫くのもいいさ。……君が靖くんをどう変えていくか、じっくり見させてもらうよ」

 ――世界が暗転する。
 窓から鳥の鳴き声が聞こえる。手にはお守りを握りしめている。昨日テレビで荒北くんを見た後、ぼんやりとした足取りで家に帰って、お守りを握りしめて寝たんだ。
 ……これは夢なんかじゃない。ミヅキの実験の世界の中だ。
 私はこれから一体どうすればいいのだろう。ぼうっとした頭で、これからのことについて考える。


 午後、学校を早退した私は、横浜駅まで行って横浜綾瀬高校行きのバスに乗車した。
 ポケットの中に入っているお守りに触れる。なにが夢で、なにが本当なのかわからない。これからどうしたらいいかもわからないけれど、今はただ、荒北くんに会いたい。
 バスから降りて正門前に立つ。ここが、横浜綾瀬高校……。
 都会の学校ではあるが駅から離れた場所に位置する広々とした学校。周辺には大人の人たちが集まっている。一眼レフカメラにマイクに……あれはマスコミ関係者の人たちだろう。
 野球部がいるグラウンドはここからそう遠くなかった。フェンス越しに野球部の人たちが練習をしている光景が見える。
 遠目で一人一人の顔を確認してみる。……ここに荒北くんはいないみたいだ。今やテレビに出ちゃうような人だ。いつもこの場所にいるとは限らないのかもしれない。
 落胆してその場を離れる。すぐ帰る気にもなれず、あてもなくふらふらと歩いた。

 学校の裏門の近くまで来ると自動販売機を見つけた。喉の渇きを覚え、ベプシを買って近くにあるベンチに座って飲む。
 結局今日、荒北くんに会うことはできなかった。勇気を出して野球部の人たちに荒北くんに会わせてもらえるようお願いするべきだろうか……? いや、そんなことはできるはずがない。有名人の彼を簡単な理由で会わせてはくれないだろう。
 では、試合のある日に足を運んでみるのは……? 仮に荒北くんを見つけたとして、その後は? 大勢の人に囲まれている彼にどうやって声をかければいいというのか。
 飲みかけのベプシを片手に、ぼうっと地面を見つめていた時だった。

「ちっ、なんだ。売り切れかよ」

 ――声だけですぐにわかった。
 とっさに顔を上げる。買おうとしていたベプシが売り切れで舌打ちをした荒北くん。伸ばした手を引っ込めて頭をかいている。
 手に持っていたベプシが落ちる。ペットボトルが転がって地面に撒き散る炭酸の音に、荒北くんが私に気づく。

「荒北……くん」

 ベンチから立ち上がった時には涙が流れていた。
 走って荒北くんに抱きつく。男の子らしい体の感触に、荒北くんはここにちゃんといるのだと実感して新たな涙が流れる。
 ……もし。もしこれで、私の頭をなでてくれたら。「いきなり抱きついてどうした」って困った顔をしながら受け入れてくれたら、悪い夢のことは忘れられそうだ。
 だが――

「なっ、なんかよくわかんねーけど離せっっ!」

 荒北くんに肩を押されて離れる。
 ……あぁ、そうだ。こんなことになるのはわかっていた。
 だが、好きな人が急に変わって冷静でいられるわけがないじゃないか――!
 荒北くんと視線がぶつかる。心の底から困惑している彼の表情に、これ以上彼を困らせてはいけないと理性が警鐘する。

「……ごめんなさい。知り合いに似てたから懐かしくなっちゃって。……本当にごめんなさい」
「おっ、おいっ!」

 その場から逃げるように走る。
 荒北くんにそっくりで、でも中身は全然違う人。
 私は、彼に向き合うことができなかった。

 ◆

 夜、寮の談話室に行くと、荒北がソファに座ったままぼうっとしている。不思議に思った南雲がバッテリーに声をかける。

「どうしたの、靖友」
「……変な女に会ったんだ。今日の休憩中、ベプシ買おうと思って外の自販機に行ったら、いきなり抱きつかれた」
「抱きつかれた……って、警戒心薄すぎだよ! 通り魔だったらどうすんのさ!?」
「と、とりあえずオレの話を聞けって。……そいつはオレに抱きついて泣いたんだ。すぐに離れて知り合いに似てたからつい抱きついたって言って逃げてったけど、なんかこっちが悪いことした気になってな」

 南雲が顎に手を添えて思案する。荒北の熱狂的なファンだろうか……? ドラフト四位で指名された彼は今や全国の有名人だ。テレビ越しに恋心を持つ人だっているだろう。

「今まで、女の子に告白されてそっけなく返事したこととかない?」
「ねーに決まってんだろ! 南雲も知ってんだろ、オレがモテないの」

 荒北が怒鳴って否定した。南雲の推測は見当違いだったようだ。

「まず女の子を寄せないようにしてるからね、君は。野球選手として生きるんだったら警戒心も必要だけど、なにもかも遠ざけるのはどうかと思うよ」
「前は周りのヤツらに気をつけろって散々言ってたくせに、昔と言ってること随分変わってるじゃねぇか。……まさかお前、オレに黙って女作ってるんじゃ」
「いないって! 野球やってたらガールフレンド作ってる時間なんてないよ。それに、ボクは靖友の女房役だから。実質靖友の彼女みたいなものだよ」

 荒北がげんなりとした顔をする。

「……誰がキャッチャーを女房役なんて言い出したんだろうな。ピッチャーのオレから見たら複雑な気分だ」
「靖友には面倒見のいい女の子がいいと思うよ。野放しにしていると色々と大変だし」
「なんか最近、オマエ妙に口悪くなったよな」
「靖友に似たのかもね」
「…………」

 荒北は口を一文字に結び、つけっぱなしのテレビを見ながら思う。
 先ほど制服を手がかりに調べてみたところ、あの女は箱根学園の女生徒らしい。
 名前も知らないし、どこかで会った記憶もない。だが、泣き顔を見た時胸が引き裂かれそうな気持ちになったのはなぜだろう。
 女の泣き顔に弱いわけじゃない。ただ、心のどこかでアイツに悲しい思いをさせちゃいけないと思ったんだ――。
 握っていた手のひらを開く。荒北の手には、あの時女生徒が落としていったお守りがあった。