栄光のサクリファイス 105話

 次の日になった今日も、ぼんやりと荒北くんのことを考えていた。
 横浜綾瀬高校にいた荒北くんは、私が知っている荒北くんとは大きく変わっている。別の学校に行ったことや野球をやっていることはもちろん、雰囲気も少しばかり穏やかになっている。
 別人のように変わってしまった荒北くんを見て、すぐにその場から逃げ出してしまった。
 ミヅキはこれから荒北くんの身になにかが起こるという。なにかはわからないけれど、私にはどうしようもできない。彼に深く関わったら最後、私の知っている荒北くんが記憶から消えてしまいそうな気がしたからだ。
 うつむきながら正門を出ると、誰かが私の前に立ちはだかる。顔を上げると、眼鏡をかけた男の子……いや、眼鏡姿なんて前に一度見たきりだったからすぐにわからなかったけど、彼は荒北くんだ。

「……ちっす。思ったより早く来てよかった」
「あっ、荒北くん!? なんでここに……!」
「落とし物を届けに来たんだよ」

 差し出された拳に手のひらを上にして受け取る。……これは、荒北くんのお守りだ。昨日家に帰った時にお守りがないことに気がついて落ち込んでたんだけど、横浜綾瀬高校に行った時に落としたんだ。

「ありがとう……。大切な物だったから、すごく助かった」

 まぶたを伏せたまま荒北くんにお礼を告げる。
 荒北くんの目を見ると、また泣いてしまいそうな気がしたからだ。

「高校生が交通安全のお守り持ってるなんて珍しいな。そんなに通学路危険なのかよ」
「ううん。自転車……ロードバイクに乗る部活があって、そのために用意したお守り」
「ロードってアレだろ。ハンドルの形が変わった自転車。野田が乗ってんの、前に見たことある」

 荒北くんが身振り手振りで話してくれるけれど、彼にどうやって接すればいいかわからない私は自然と口をつぐんでしまう。
 気まずそうにしている私に気づいたのか、荒北くんは眉尻を下げて小さく息をつく。

「……あのさ、テレビで知った口だろうから知ってると思うけど、気持ち悪いから改めて言うぞ。オレの名前は荒北靖友。……お前の名前は?」
「私は……
「……

 荒北くんに名前を呼ばれた瞬間、顔がひきつってしまった。
 涙がこぼれてしまいそうになるのを必死にこらえる。

「わ、悪い! いきなり下の名前で呼んで……! なんか、懐かしい感じがしたから」

 荒北くんが申し訳なさそうに頭をかく。
 「ううん、私こそ、名前で呼ばれるの慣れてなくてゴメン……」かぶりを振って笑ってみせたけれど、それを見た荒北くんの表情がさらに曇った。
 ……いいや、目の前にいるのは荒北くんじゃない。荒北くんとは全く別の人だ……。
 彼の気分をこれ以上悪くさせる前に、どうやって気持ちに整理をつければいい? 少し考えて私は、彼の呼び名を変えた。

「荒北……さんって、普段眼鏡してるの?」
「いいや、これは伊達眼鏡。一応オレも有名人だから誰かに見つかって騒がれるとウザいんだよ。……ってか、さん付けってなんかムズムズすんな」
「うちの部活はさん付けか呼び捨てが多いから……」

 荒北くんって呼んでしまうと、私の記憶の中に残っている荒北くんをいつの間にか見失ってしまいそうな気がした。これは、自分への精一杯の譲歩だ。

「……ま、いいけどよ」

 まだなにかあるのか、荒北さんがポケットの中から携帯を取り出す。

「連絡先交換しようぜ。……あ、他の奴に勝手に教えんなよ。色々とめんどくさいことになるから」
「……うん」

 複雑な気持ちで携帯電話を用意して、荒北さんと連絡先を交換する。

「……よし、登録できた。これからよろしくな」

 にこやかに笑う荒北さんを見て目をそらしてしまう。
 私の知っている荒北くんは、初対面の人に対してこんなに人懐っこくない。……こんな顔は、絶対に見せないはずだ。


 その日の夜、眠ったはずの私はいつの間にか白いベッドの上にいた。
 白い天井、白い壁、白いカーテン。スツールに座っていたミヅキが含み笑いをしている。

「今までに色んな世界を見てきたけど、今回の靖くんは珍しい。まさか、一度だけしか会ったことのない君に会いに行くなんて」
「まさか、荒北さんが私のことを覚えてて」
「残念だけどそれはないよ。今の世界で君が会った靖くんは、以前君と過ごしたことも、ロードバイクに乗ったこともない。今回はデジャヴだろうさ」
「デジャヴ……?」
「君は時々、とある出来事に対してうまく理由が説明できないデジャブを感じたことがないかい? 大半のそれは気のせいによるものだけど、天文学的な確率で平行世界の記憶がおぼろげに残っているものもある。……偶然デジャブを感じた靖くんは、疑うことなく君に近づいた。ただそれだけの話さ」

 だからあの時荒北さんは、わざわざ箱根学園にまで来てお守りを届けてきてくれたんだ……。手のひらの中にあるお守りをじっと見つめる。

「靖くんもおもしろいけど、君も君でおもしろいよ。わざわざ慣れないさん付けまでして靖くんのこと区別するなんて」
「……ミヅキは、なんだか楽しそうだね」
「そりゃそうさ。君たちは悪く言えば実験用のモルモットだからね。実験をしていくうちにこれからどうなっていくのか……。科学者としては、期待せずにはいられないでしょォ?」

 心外な言葉にミヅキをにらみつける。
 初めて会った時から感じてたけれど、ミヅキは優しそうに見えて違う。表面上は穏やかな笑みを浮かべているが、心の奥底では他人はどうなったっていいと思っているのだ。