栄光のサクリファイス 106話

「今週の日曜日練習試合があるんだ。ヒマなら見に来いよ」

 荒北さんからメールをもらった時、正直行こうかどうか迷った。
 だが、このままなにもしないとミヅキが期待していたとおりの結果になるのだろう。昨日見た夢の中で人を馬鹿にするように笑うミヅキの顔を思い出した私は、試合を見に行くことに決めた。
 そうして数日後、試合の日を迎えて横浜綾瀬高校に行く。校庭に入ると以前ここに来た時よりも一般の観客やスーツを着た関係者らしき人、たくさんの人で溢れかえっていた。
 来るのがだいぶ遅かったようでゲームは中盤に入っていた。マウンドを見ると今ボールを投げているのは荒北さんじゃない。見知らぬ横浜綾瀬の人だ。
 視線を巡らせると、荒北さんの姿を見つけた。控えのベンチで真剣な顔をして南雲くんと喋っている。

「もう少し荒北くんの活躍見たかったよ」
「春になったら南雲くんと一緒にプロ野球入りが約束されているんですよ。こんな試合で全力を出してはいけないとの監督の判断なんでしょう」

 記者たちの会話が偶然耳に入った。もう少し早く来たら、荒北さんが投げるところを見れたかもしれない。

「……しかし、最近野球界も盛り上がってきましたね。この前居酒屋に行った時も、周りのお客さんが野球の話で盛り上がってましたよ」
「高校野球連盟の会長が今年から舞園さんに変わったからなぁ」
「あぁ、あの敏腕社長。業績が低迷していたサヤマスポーツを三年間で一気に盛り上げたという。舞園さんがトップに立てば、これからの高校野球も楽しみですね」

 野球、か。自転車に夢中になるばっかりで、他のスポーツのことは全然わからない。
 荒北くんと話が弾むかもしれないし、野球のことをもっとよく知ろうって思ってた時期があったけど結局なにもしないままだ。
 そんなことを考えながらぼうっと試合を見る。いつの間にか試合が終わって人気が少なくなりはじめた時、携帯電話が振動した。


 裏門の近くで待っていると、ユニフォーム姿の荒北さんが息を切らせて走ってきた。

「悪いな、来てもらって」
「ううん。実は遅刻して荒北さんの投げるところ、見られなかった」
「……そっか。ならよかった。今日は調子悪かったし、カッコ悪いところ見られずにすんだ。……そういえばお前って、野球好きなのか?」
「私は、その……」
「靖友ー!」

 荒北さんの姿を見つけた南雲くんが遠くの位置から呼びかける。隣に私がいることに気づくと目を瞬いた。

「あれ? 靖友の友達?」
「あ、あぁ。コイツは――」
「わかった。さんでしょ。へぇ~、この人がうわさの……いたっ」

 荒北さんが南雲くんの頭をポカンと叩く。

「紹介するよ。コイツはバッテリーの南雲」
「初めまして、南雲っていいます」
「は、初めまして。っていいます……」
「靖友、監督が探してたよ。カンカンに怒ってたから早く行かないともっと怒られちゃうかも」
「ちっ、ガキじゃねーんだからいちいちお小言言わなくてもいいっつーのに。……ワリィ、無理やり抜け出してきたけど、試合終わった後はいつも忙しいんだ。何時に終わるかわかんねぇし、夜また連絡する。じゃあな!」

 荒北さんが慌ただしく去っていく。南雲くんはなぜか私の隣にいたままだ。

「……南雲くんは行かなくていいの?」
「うん。ボクの番はついさっき終わったから」
「そ、そう……」

 ……気まずい。今隣にいる彼は初対面だと思ってるみたいだけど、私にとって南雲くんは既に知り合いだ。
 フランクに話しかけるとボロが出そうで、かといってどういう話を振ればいいのかと思うと悩んで……しまいには体に嫌な汗が流れてきた。
 これからどうしよう。とりあえずなにか話さなきゃと思って口を開いた時、南雲くんが先に切り出した。

「靖友のどこが気に入ったのかわからないけど、アイツとは仲良くしてあげてね。見てのとおり無愛想なヤツだから、友達があんまりいないんだ」
「そんなこと……」

 ――荒北くんに比べたら全然、人懐っこいほうだ。
 そう思って、胸が苦しくなる。

「靖友に聞いたんだけど、たしか君は自転車部に入ってるんだよね。同じ自転車部がある京都伏見に友達がいるんだ。レースも見たことあるよ。……強豪校の人だったらわかると思うけど、実力を持った人は大変なんだ。寄ってくる人たちの中に下心を持った人が必ずいる。……彼女や友達になってみんなに自慢したい。サインをもらいたい。そういうのだったらまだかわいい方だけど……揚げ足を取って地獄に突き落としたり、自分の利益のために利用する人だっている。だからね、ボクたちは誰かに簡単に心を許せないんだ。毎日つらい練習に耐えて、やっと夢がかないそうになった今ならなおさら、ね」

 優しげに語る南雲くんに、自転車の世界ではどうか考える。
 全身全霊、いや、命を賭けた走りといっても決して過言ではない、見る人を魅了するロードレース。だが、熱いレースもきれいな側面ばかりではない。最近はチェックが厳しくなって減少傾向にあるものの、勝利が欲しいがために密売人が持ちかける誘惑に負けてドーピングに手を出す選手がいる。また、記憶に新しい話だと、10年くらい前に行われたロードレースでとある選手の買収問題もある。ライバルチームの選手にあらかじめ大金を渡し、レース当日に選手がアタックを仕掛けても、賄賂を受け取った選手は追いかけず見て見ぬフリをした。その時の買収問題はすぐに公にはならなかったが、買収をした選手は後に薬物に溺れ、ロードレース界から永久追放されたという。
 自転車から離れて他のスポーツのことも考えてみよう。……そうだ、うわさで聞いた話だけどレスリングで頂点に立った強豪校が、たった一人の部員の喫煙騒動により廃部寸前まで追い込まれたという。ゴシップ記者がスクープした一枚の写真がきっかけだったという。未成年の喫煙とはいえ、廃部に追い込むのはやりすぎじゃないかという声もあったが、行き過ぎた報道とそれに煽られた周囲により騒動はさらに加熱する。ようやく熱が収まった頃には、レスリング部にはなにも残らなかった。
 その話を聞いた時はぞっとした。いつかの合宿で見た記者たちのように、隙あらば足元を掬おうと企んでいる人たちもいるのだ。
 ドラフト入りが決まって、今や有名人の荒北さんたち。しかし、力がある彼らは今の状況に慢心することなく常に周囲を警戒している。油断したら最後、誰かに足をつかまれるのだから。
 「力を持てば持つほど孤独になるって矛盾した話だよね」南雲くんがぽつりと言った。

「特に警戒心のある靖友が、一度だけしか会ったことのない君の学校に行ったって聞いた時はびっくりしたよ。抱きつかれたことがよほど印象的だったのかな。……ひょっとして君は、靖友に好意があると見せかけて、実は罠に陥れようとしているのかもしれない。最初はそう思ったけど、悪気はないのは今日の君の様子を見てすぐにわかったよ。靖友を見ているときの君はどこか悲しそうな顔をしている。まるで大切な誰かを重ねているように」
「…………」
「ゴメンね、初対面なのに口悪いよね。ボクはそうじゃなくて、君には靖友と一緒にいてほしいんだ」

 「それは……」南雲くんの言葉に困惑して答える。

「友達からでいいんだ。別にボクは、二人にくっついてほしいとかそんなこと思ってるわけじゃないんだ。……靖友の、野球以外の友達になってほしいんだ。アイツ、野球以外のつながりって全然ないし、今のアイツから野球がなくなったら空っぽになるから」

 その時私は、南雲くんの目から流れる一滴の涙に気づいてしまった。
 涙が首元に滴った時、自分の状況に気づいた南雲くんが慌てて目元をこする。

「ご、ゴメン。今のは忘れてっ」
「南雲くん……? 君は一体なにを――」
「なーんて! 今の、靖友には絶対に言わないでね! そしたらボク、アイツに殴られちゃう」

 手を後ろに組んでいたずらっぽく笑う南雲くん。「ボク、そろそろ行くね」手を振って去っていく南雲くんを見送り、ひとりぼっちになってしまった。
 ……友達、か。私は、荒北さんの友達になれるのだろうか。
 誰かに聞いてみたい。もし、自分の好きな人とそっくりで、でも中身が全然違う人が目の前に現れたら、はたして友達同士になれるのだろうか。
 私は無理だ。どうやって心の整理をつければいい? 会えない彼のことを、簡単に今の自分から遠ざけることも、忘れることもできやしない。偽物の彼の前で屈託なく笑うことなんて不可能だ。