栄光のサクリファイス 107話

「ねぇ、昨日の野球の試合見た?」
「見た見た! トライスターの松本超カッコよかった!」

 放課後、野球の話で盛り上がる女子二人と廊下ですれ違う。隣にいた東堂くんが不服そうな顔で唇を尖らせる。

「どこもかしこも野球野球野球。野球とサッカーどっちかと聞かれたらサッカーの方が美しいと思わんかねちゃん」
「さぁ。人それぞれ好みがあるし……」

 東堂くんの言葉に苦笑いながら社会科準備室に向かって歩く。
 私と東堂くんの手には、社会の授業で使う貼り紙を長い筒状に丸めたものがいくつもある。帰ろうとした時に一人でこれを運ぼうとしている東堂くんを見かけて、私から手伝いを申し出たんだ。

「すまんね、手伝ってもらって」
「いいよ、こんなの部活で慣れっこだし」
「相変わらず優しいな、ちゃんは。……しかし、さっきの話に戻るが、本当に野球ブーム真っ盛りだな。自転車もあれくらい盛り上がればいいのだが。この国になると一気に肩身が狭くなる」

 「他の国では盛んなスポーツなのにな」東堂くんがぽつりと添える。

「ま、ロードレースが主流になったとしても、オレの女子人気だけは譲らんよ」
「あはは。東堂くんも変わらないね」
「女子人気といえば、南雲くんという野球男子がオレの次に美形だな。この学校にもファンクラブがあるとか」
「えっ? それは初耳」
「この前会長くんから聞いたからな。信憑性のある話だ。……そういえば、荒北、という野球男子もファンクラブがあるみたいだな」
「えっ」

 動揺のあまり手に持っていた掲示物を落としてしまった。膝を折って床に落ちた掲示物を慌てて拾う。「すまん! オレが悪かった!」一番遠くに転がった掲示物を拾いつつ、東堂くんが謝った。
 拾ってくれた掲示物を受け取ろうとすると、東堂くんが眉尻を下げる。

「ちなみに、さっきのは嘘だ。女子にこういうマネはしたくはないが、こうでもしないと君はなにも教えてくれないからな」
「東堂くん……?」
「……荒北くんとなにがあった? この前、正門前で君と荒北くんが話しているところを偶然見てしまった。あの時のちゃん、少し様子がおかしかったぞ」
「それは……懐かしい人に似てて、複雑な気分になっちゃっただけ。それより、早く行こう。あんまりもたもたしてると先生困らせちゃう」

 掲示物を受け取って、早足で社会科準備室に向かって歩く。
 東堂くんはなにか言いたげな顔をしてたけれど、それ以上はなにも追及してこなかった。

 練習試合を見に行ってから、なにもない日々が続いていく。
 帰り道や野良猫がよくくつろいでいる校舎裏、色んな道を通ったとき、意図的に荒北くんのことを思い出すようにしている。
 あれから、ミヅキとも荒北さんとも会っていない。期限が来たらミヅキは元の世界に帰してくれるって言ってたけど、このままこの世界に閉じ込められるんじゃないかって思っては怖くなる。
 ……今、荒北くんはどうしてるんだろう。気分が沈みそうになった時、私を慰めるように携帯が振動する。
 携帯を開いた時、とある誘いのメールに私は強く戸惑った。


 横浜駅で下車してコーヒーショップを探す。
 ようやくたどり着いたコーヒーショップの前で、眼鏡をかけている男の人を見つけた。

「……あ、

 私に気づいた荒北さんが顔をほころばせる。

「ワリィな、オレの予定に合わせてもらって。お前とはゆっくり話したくてもなかなか時間とれねーし。……今日は久しぶりの休日なんだ。ぱーっと遊ぼうぜ」

 ほんのりと頬を朱に染めた荒北さんが目的地に向かって歩きだす。
 ……そう。今日は荒北さんと一緒に一日を過ごす日だ。

「へー、これがロードバイク。こうやって見ると無駄なパーツねぇしカッコいいな」

 自転車屋で荒北さんが興味深そうにロードバイクを見つめる。

「こういうのって普通のママチャリと違うのか?」
「全然違うよ。速いし、軽いし、坂だって登れる」
「自転車で坂登るってかなりのマゾだよな。押して歩いた方が速いっつーのに」
「あはは……」

 もっともな意見を笑って流す。近くにいるお客さんの視線がちょっと痛い。

「自転車部に入ってるってことは、やっぱり自転車は好きなのか?」
「うん。ロードレーサーの家系の幼なじみがきっかけで自転車が好きになったんだ」
「幼なじみ、ねぇ」
「どうしたの?」
「なんでもない」

 急に機嫌を損ねた荒北さんが次のロードバイクをじろじろと見つめる。ここに来た時はびっくりしたけど、なんだかんだで楽しそうな荒北さんの背中を見ながら物思いにふける。
 「来週の日曜日、買い物に付き合ってくれよ」――先週、荒北さんからこんなメールを受け取った。
 このまま荒北さんに深く関わっていいのだろうか。荒北さんの誘いに断りのメールを送ろうとした時、頭の中にミヅキの声が響いた。

『本当にそれでいいのォ? チャンにフラれて傷ついた靖くんがたまたま偶然寄ってきた他の女の子とくっついちゃうかもしれないよォ?』

 ――送信ボタンに触れた指が止まる。
 この世界の荒北さんは、深く関わっちゃいけない人だ。わかってる。わかってるけど、彼が誰かと一緒にいるところを想像すると胸が引き裂かれそうな気持ちになる。
 迷って私は、荒北さんの誘いを受けることにした。メールを送った後で何度も後悔したけど、後戻りすることはできなかった。

 野球用品の品揃えがいいスポーツ店に行ったり、小洒落た喫茶店でごはんを食べたり、どんどん時間が流れていく。
 日が暮れそうになった時、最後に観覧車に乗ることになった。
 ……あぁ、前に荒北くんと二人でこの観覧車に乗ったことあったっけ。懐かしい思い出に浸りながら観覧車に乗る。
 たしかあの時は荒北くんの誕生日プレゼントに迷っていた。それに荒北くんは「オレの誕生日プレゼントだったら気を遣わなくていいよォ」って言ってくれて……。
 ……あれ? ……あれ?
 違う、これはミヅキだ。荒北くんはこんな喋り方しない。
 荒北くんって、どういう喋り方するんだっけ……? もしかして私、荒北くんのこと忘れつつあるんじゃ……!

……?」

 ――荒北さんの声に我に返る。

「顔青いけど大丈夫か? もしかして高い所、苦手だったか?」
「ううん、違うよ。気のせい」
「そうか? ……ならいいけど。……オレ、観覧車ってなんか好き。高い所から町を見下ろすと、こういう町に住んでるんだなって思う」

 優しげな顔をした荒北さんが、私の後ろにある窓の外に視線を向ける。

「そういやタワーが見えるんだっけ。そっち行ってもいいか?」
「う、うん」

 向かいに座っていた荒北さんが立ち上がる。私の隣に移ろうとした時、強い風が吹いて観覧車が揺れた。
 バランスを崩した荒北さんが前のめりに倒れる。ガタンと大きな音がして、揺れはすぐに収まった。
 ――目の前に荒北さんがいる。ほんのりと香る制汗シートのさわやかな匂いが鼻孔をくすぐる。
 あまりにも近い顔の距離に、一瞬だけ目を閉じてしまいそうになる。――違う。彼は荒北くんじゃない。心の中でそう強く思った私は、深く考えるよりも先に彼の肩を押した。押した後で自分の取った行動に強く後悔する。――おそるおそる見た荒北さんの表情はこわばっていた。

「ご、ごめんなさい! つい、びっくりしちゃって……!」
「……前から聞きたかったんだけどよ、なんでオレを見るたびそんな悲しそうな顔するんだよ」
「ごめん……」
「前に知り合いに似てるって言ってたよな。そいつとお前はどういう関係なんだ」
「本当にごめんなさい」

 両手で顔を覆って、荒北さんの問いに謝罪の言葉のみで返す。
 頭の中はずっと会えない荒北くんのことで頭がいっぱいで、荒北さんのことを気遣う余地は私にはなかった。
 気まずい時間が流れて観覧車から降りる。互いに無言のまま歩き、人気の少なくなった道で荒北さんは突然足を止めた。

「……悪いな。今まで無理やり付き合わせて。もう声かけねーから安心しろ」
「荒北、さん」
「なんでお前に惹かれたんだろうな。……自分でも意味わかんねぇ」

 荒北さんが寂しそうに笑って、私から顔を背ける。

「じゃあな」

 荒北さんが走って去っていく。
 「待って」そんな言葉が、喉から出かかった。

『引き止めてどうするのォ? 元の世界の靖くんのことを忘れて愛の告白しちゃう? それとも、信じてもらえない真実を話して頭狂ってるオンナって印象づけるゥ? ……自分から突き放したクセに、引き止めようなんて甘いんだよ』

 頭の中でミヅキの冷たい声が響いた気がした。
 ……そうだ。これでいい。私は、荒北さんに嫌われた方がかえって都合がいいんだ――。


 家に帰ると、ベッドの上にすぐに伏せた。
 出かけていた時もずっとポケットに忍ばせておいたお守りを取り出して握りしめる。今までこらえてきた涙が、今になってどっと溢れてきた。
 ……荒北くんに会いたい。このまま訳のわからない実験に付き合って彼のことを忘れるくらいだったらリタイアしたい。
 荒北さんに嫌われて、ミヅキに笑われて。そんなの、どうだっていい!! 誰かになんて思われようが、実験結果がどうなるかなんて知ったこっちゃない!!

「会いたいよ……荒北くん」

 目を閉じて現実から目をそらす。誰かのいない世界はこんなにも心細い。