栄光のサクリファイス 108話
暗い部屋の中、白衣を着た黒髪の男がアナログテレビに映る映像をじっと見つめている。
「もうすぐ、この時がやってくる。残念だけど君は舞台から降りられないよ」
ベッドの上で眠っているを横目にクスクスと笑うミヅキ。
二人きりの病室の中、ミヅキの笑い声が小さく響いた。
◆
こういうとき、荒北くんならどうするのだろう。泣きながら眠りに落ちる前に思った。
その日の夜、夢に荒北くんが出てきた。自主練習を手伝ったばかりの時の、懐かしい思い出をたどるような夢だった。
……あぁ、そうだ。最初の頃は怒られたり、怒ったりしてたっけ。
うまくいかないことばかりだったけど、それでも彼の練習を手伝っていくうちに私は荒北くんのことが好きになったんだ。
……荒北さんはどうだろう。私は、最初から目を背けてばかりだった。
荒北さんのことが受け入れられないのは当然だ。私は、彼のことを理解しようとも、知ろうともしなかったのだから。
荒北くんを思い出してつらくなる。それは所詮、私の作った壁でしかないんだ。
荒北くんの夢を見て、答えは単純だったことに気がつく。
――朝の光が差して、目が覚めた。ゆっくりと起き上がり、ぼうっとした頭で考える。
今でも荒北くんに会いたい気持ちはあるし、これ以上ミヅキのお遊びに付き合うつもりもない。
だけど、別れる寸前の荒北さんの寂しそうな顔が頭から焼きついて離れない。
……荒北さんに、もう一度会おう。あっちは私の顔なんか見たくないくらいに怒っているのかもしれないけれど、でも、それでもいい。荒北くんが歩きたくて歩けなかった道を彼は歩んでいる。せめて一時だけでも彼がどう生きていたのかをこの目に焼きつけておきたい。
夢が覚めたら忘れてしまう記憶だけど、後味が悪いのは嫌だ――。
ドームを目の前にして立ちすくむ。ここが今日の練習試合の会場……。
こんなに広い会場を練習試合の舞台として借りられるなんて、改めて横浜綾瀬高校はすごい学校なのだと思う。
ぼうっとしている間にも、次々と観客がドームの中に入っていく。試合の時間が迫っていることに気づいた私は駆け足でドームの中に入った。
投手がよく見える内野席に座り、ほっと一息つく。
荒北さんには今日試合を見に行くことを伝えていない。あんなことをしてしまった後で、彼に連絡をとる勇気はなかった。
荒北さんの姿を探してみるものの、彼らしき人物の姿は見えない。
マウンドには荒北さんじゃない別の横浜綾瀬の人が立ったまま、試合開始を告げるブザーが鳴った。
今日の練習試合の相手は狩野高校だ。狩野高校が先攻で試合が始まる。
ヒットとアウトの細かい攻防が続き、ゲーム中盤は2-1の狩野高校の優勢だ。
このまま荒北さんの投げる姿を見られないまま試合が進んでいくのだろうか。そう思った時、アナウンスが流れた。
『ピッチャー、荒北靖友』
グラウンドに、マウンドに向かって歩く荒北さんの姿が見える。
荒北さんがマウンドに立った時、僅かに空気が変わった。ピッチャーの南雲くんがミットの下からサインを出す。それを確認した荒北さんが、大きく振りかぶり――投げる。
内野席からでも聞こえるほど、ボールがミットに収まる大きな音がした。どこからか小さな歓声が上がる。
この前雑誌で読んで知ったことだけど、荒北さんの得意技は渾身のストレートだという。なるほど彼らしい。まっすぐな彼には変化球よりもこっちの方が似合っている。
荒北さんがピッチャーを務めるものの、点数は変わらない。7回裏の時、ふと周囲を見た。みんななかなか動かない展開に飽き始めたのか、携帯電話を操作している人がちらほらといる。中には隣の人に携帯を見せて声を潜めて話している人たちもいる。
「さっきの荒北のボール、やけに甘かったな」
「やっぱり、…………って本当なのかな?」
細かい部分までは聞き取れないけれど、どうせくだらない話だろう。
あきれてグラウンドを見た時、荒北さんの投げたボールがバットに打たれて大きく跳ね返った。センターがボールを追いかけるものの、遠くに飛んでいくボールに追いつかない。ボールがようやくセカンドに行き渡った時、走者は既に二塁の上にいた。
途端、フェンスの近くにいた観客が叫んだ。
「横浜綾瀬ー! しっかりやれよ!! オレの賭け金パァになるだろ!!」
「やめろよ元田、恥ずかしい」
派手な髪色をした男子大学生の三人組がへらへらと笑う。
野次に気づいた荒北さんは内野席をひとにらみしたけれども、それきりは何事もなかったかのように再び投球に入った。
……気のせいだろうか。さっきよりも、観客席の空気が張り詰めたような。
なんだろうこのピリピリとした感じ。なんだか、嫌な予感がする。
試合は2-1で狩野高校の勝利に終わった。野球のことは相変わらず詳しくないけれど、荒北さんの力不足ではなかったはずだ。他の選手たちもいい連携プレーだったと思う。
ぼんやりとしながらドームを出ると、関係者入り口付近に人だかりができていた。ほんの好奇心で人だかりの後ろに立つ。
関係者入り口から横浜綾瀬高校の人たちが出てきた。バスに向かって歩く横浜綾瀬の周りを、カメラを持った記者たちが並んで歩く。
「今日の練習試合で狩野高校に負けましたが、敗因はどこにあると思いますか?」
「なぜ荒北くんをスタメンに入れなかったのでしょうか?」
無難な質問が飛び交う中、さっきの大学生の一人が写真を手に持って監督らしき人物の前に立つ。
「針野監督。こんな写真がネットに出回ってるんですけど、これって本物ってことでいいんですかね?」
男の持つ写真には、料亭から出てくる監督と高級そうなスーツを身に包んだ威厳ある中年男性の二人。――監督の表情が、一瞬だけこわばった。
「横浜綾瀬高校も舞園が仕組んだ八百長に絡んでるんですよね!?」
「バカなこと言うんじゃねーよ! ウチはそんなことやってねーっつの!!」
「靖友っ!!」
先に非難の声を上げたのは荒北さんだった。南雲くんに腕をつかまれながら、記者気取りの大学生をにらんでいる。
だが、男は怯むどころかニヤリと口元を歪めた。
「ムキになって無実を証明するほど怪しいんですよね。八百長投手の荒北くん」
「八百長……投手……?」
「えぇ。今ネットでうわさになってますよ~。甲子園で島根の植田高校との熱戦。あれは高校野球連盟の会長が巧みに仕組んだ八百長試合だって。ボクの話が信じられないのなら、ネットを調べてみるといい」
「ざけんなっ!! なんでやってもいないことを言われなきゃなんねーんだ!! 毎日毎日つらい練習に耐えてここまで上り詰めたっていうのに!!」
「靖友!! もうやめて!!」
「なぁ監督!! 監督からもなにか言ってくれよ!! オレたちは正々堂々野球をしてるって!!」
荒北さんが監督に振り向く。――監督は、無言のままバスに乗り込んだ。
「監督……? まさか……」
監督の様子に思うところがあったのか、荒北さんの瞳が揺れる。
「行こう、靖友。バカの相手なんてしちゃいけない」
「待ってください話はまだ――!!」
「君、どこの大学だ!! 謹慎処分だけで済むと思うなよ!!」
南雲くんに背中を押されて荒北さんがバスの中に乗り込む。
一瞬だけ、見えた。唇を噛み締める荒北さんの顔を。
「あのうわさ本当だったんだ~!」
「バッテリー二人でドラフト入りするなんておかしいと思ったよ」
周りの人たちが手のひらを返したように笑い始める。なにが、起こってるの……?
嘲笑と怒声がしきりに降る中バスが動き出す。なにもできない私は黙ってバスを見送ることしかできなかった。