栄光のサクリファイス 116話

さん……」

 荒北くんの膝にテーピングを巻いている南雲くんが顔を上げる。

「いつから、膝の調子が悪かったの……?」
「気づいたのは甲子園の決勝戦。試合の終盤で靖友が不調に気づいて、医者からは決められた回数しか投げないように言われていた。靖友が投げられるのは一試合につき大体半分くらいだ。ずっとマウンドに立っていると、悪化する危険性がある。大人しくしていれば、春までには治る故障だった。この秘密はボクと監督と……たぶん、一部の偉い人だけが知っている」

 だから荒北くんは前に見た試合で他の人と投手を交代したり、大雨の中一人でボールを投げていた時膝の痛みに顔を歪めてたんだ。
 何度も思う。なんで気がつかなかったのだろう。
 このことにもっと早く気づいていれば、荒北くんに練習試合なんてさせなかった……!
 テーピングを終えた南雲くんが気まずそうに私から目をそらす。荒北くんが長椅子から立ち上がった。

「サンキュ、南雲。まだ痛いけどだいぶ楽になった。これなら最後まで行けそうだ」
「待って! 荒北くん、これからどうするつもり……?」
「決まってんだろ。試合を続ける」

 荒北くんが踵を翻し、グラウンドに続く扉を開けようとする。
 このまま荒北くんを行かせてしまえば、彼は膝を壊して野球ができなくなってしまう。
 二年間自転車部のマネージャーとして多くの人たちを見てきた。故障をきっかけに挫折する人は少なくない。だからこそ、今荒北くんがしようとしていることは間違っていることなのだと思う。
 冬の日のサイクリングロードで私に昔話をしてくれた彼のことを思い出す。野球に未練はないと言ったものの、昔のことを話す彼の横顔は時々寂しげに見えた。
 ――彼がどんなに苦しんできたと思っているのか。そう思った時、私は荒北くんの胸ぐらをつかんでいた。

「ふざけないでっ!! 壊れかけの膝でマウンドに立つことがカッコいいとでも思ってるの!? 私はそうは思わない。こんなの、荒北くんの自己満足だよ……!」

 両手で胸ぐらをぎゅっとつかむ。荒北くんは僅かに怯んだけれど、これから自分がやろうとしていることを撤回しようともしない。
 彼は本当になにもわかっていない。そう思った時、心の中の枷が外れた。

「この前話したこともう忘れたの? 私が好きだった人は肘の故障のせいで野球をやめて長い間迷ってきた! 今自分がやろうとしていることが、これからどれだけつらい道を歩むことになるかわかってるの!? こんな試合で頑張っても、誰かに褒めてもらえるわけじゃない!! 今ここで荒北くんが選手生命を賭けて戦う必要なんてないんだよ!!」

 たまらず顔を伏せる。私の頬には涙が流れていた。

「お願い、荒北くん。マウンドを下りて」

 ここでマウンドを下りなければ、荒北くんはいずれ彼が通った暗い道を歩くことになる――。

「なぁ、。お前の言うとおり、これはオレのただの自己満足だろうさ。オレがこの試合で頑張ったところで、世界は大きく変わりはしない。プロ野球入りを取り消されて空いた座に喜ぶヤツもいるだろうさ。……けどな、誰しも一度はなにかを賭けて戦わなきゃいけないときがある。オレはそれが、今だと思っている。オレは、全ての覚悟を決めて戦うことに決めた。たかが膝が痛むくらいでマウンドを下りる気はねぇ」

 触れられた両肩に、反射的に顔を上げる。
 荒北くんが、まっすぐな瞳で私を見据えていた。

「邪魔だ、。オレはお前を押しのけてでもマウンドに立つ」

 荒北くんと視線が交わる。
 ……もし、もし彼がレースの前に膝が壊れかけていることに気づいたらどうするのだろう。
 たぶん彼は、私の反対を振り切ってでもレースに出るだろう。彼は二度目の故障など恐れない。だからこそあんなに危なっかしい走りができるんだ……。
 このまま荒北くんを行かせてしまったら、彼は膝を壊してしまう。
 これは決して美談で済ませてはいけない。故障と引き換えにボールを投げさせるということは、彼を地獄に突き落とすのと同義だ。
 私は、荒北くんに暗い道を歩いてほしくない。ただでさえ後に起こるバッシングを思うだけで胸が痛いのに、これ以上荒北くんに重いものを背負ってほしくない……。

 荒北くんのことを本当に考えているのならば。
 荒北くんの幸せを本当に願っているのならば。
 荒北くんのことを本当に愛しているのならば、私は――。

 ……私は、
 私には、
 荒北くんが歩もうとしている道を邪魔することはできない。

 荒北くんの胸ぐらから手を離す。
 ポケットの中にある物を取り出して、荒北くんに差し出す。

「これは……」
「何の役にも立たないと思うけどお守り。どうしても行くんだったらせめてこれだけは持っていって」

 溢れてきた涙を隠すために、お守りを強引に渡して荒北くんの背中を押す。
 本当にこれでいいのか。そう思ったけど、迷いを振り切るように力強く背中を押す。
 ここで荒北くんを引き止めてしまったらダメだ。私は、荒北くんの強さを信じることに決めた。

「ありがとう、。これで全力で戦うことができる」

 背中を向けたまま優しげな声でそう言って、荒北くんは片足をひきずりながら南雲くんと一緒にグラウンドを出た。
 溢れ続ける涙を拭いて、二人が通った出口の扉を開ける。ダグアウト越しに、グラウンドに向かって歩く二人が見えた。
 ……これでいいんだ。彼はまた道に迷うかもしれないけれど、それを乗り越えられる強さを持っていることを知っている。だから私は荒北くんのことが好きになったんだ――。

 グラウンドを歩く荒北と南雲を見て、観客や選手の間でどよめきが起きる。
 だが、二人は周囲の音には耳を傾けない。まるでそれが当たり前であるかのように、それぞれの場所に向かって歩く。
 道が分かれる寸前、荒北は突然足を止めた。首を巡らし、南雲に別れの言葉を告げる。

「なぁ、南雲。この戦いが終わったら、周りにはオレのワガママに振り回されたとか適当なこと言っておけよ。ドラフト入りは白紙に戻るかもしんねぇけど、舞園の息がかかっていない球団がきっとどこかにあるはずだ。……オレは難しいけど、お前ならそこに行けるはずだ」
「やだよ。靖友以外の人とバッテリーを組むなんて考えられない。……ボクは、地獄の果てまで君についていくよ」

 南雲の言葉に涙が零れそうになった。帽子を深く被り、涙を隠す。

「ありがとう、南雲」

 バッテリーと別れ、荒北はマウンドに立った。最後の一仕事をする前に、目を閉じて大きく深呼吸をする。
 ダイヤモンドに囲まれた中にある孤独なマウンド。周りには心から信頼できる仲間たちが守備についていて、バッターを挟んだ先には長い間一緒に戦ってきたバッテリーがいる。
 四方からは客の歓声が聞こえてくる。うるさいはずなのに、マウンドに立っていると厚い壁を間に挟んでいるように聞こえる。
 が好きになったヤツは志半ばで立てなかった場所。つらいことも苦しいことも乗り越えて、オレは今ここに立っている――。
 この試合が終われば、真っ暗な未来が待っている。だが、何者にも邪魔されない全力勝負に荒北はいつの間にか心から試合を楽しんでいた。
 この試合にはプライドも学校も関係ない。彼が望むのは数多のバッターとの勝負と、その先にある勝利のみ。それ以外にはなにもいらない。
 ……そうだ。続きを始める前に、これだけは言っておこう。
 バッターたちから背を向けて、今まで後ろから投球の場面を映していたセンターカメラを見上げる。
 深く息を吸い、大きな声で告げる――

「画面越しの傍観者ァ!! よく知りもしねぇくせに八百長だとかごたごたぬかしてんじゃねぇぞ!! オレはいつも体張ってマウンド立ってんだ!! 投球に一度足りとも手を抜いたことはねぇ!! 本当に八百長だって思うんならこの試合を最後まで見ろ!! 傍観者のオメェらに本当の野球のおもしろさってヤツを見せつけてやらぁ!!!!」

「ふざけるなっ!! オレはこんなの認めない!! 自ら故障を承知でマウンドに立つだァ!!? お前がしようとしていることがどんなにバカな結末になるかわかってんのか!!」

 激怒したミヅキがテレビに向かって叫ぶ。
 違う!! こんなはずじゃなかった!!
 荒北が壊れかけの膝を背負っていることはとうの昔から知っていた。練習試合で膝が悲鳴を上げた時、たまらず駆けつけたは荒北を引き止めるだろう。
 に無理やり引き止められた荒北は、練習試合で最後まで戦えなかったことにをずっと恨むはずだった!! あの女が引き止めなければ最後まで戦えたのに。そもそも、あの女と出会わなければ練習試合をして野球をバカにしているヤツらを見返そうだなんてバカなことはしなかったのに!!
 を憎しみの対象にする自分自身を見て、やっぱり現実はこんなものなのだと大笑いするはずだった!
 なのになぜ、に説得される前に自らマウンドに立とうと意志を固めているのか。これでは誰のせいにすることもできない。試合が終わった時、アイツは壊れた膝を自分自身がやったことだと認めるしかないのだ――!
 認めない認めない!! 自分と瓜二つの人形が自分以上の強さを持っているなんて認めたくない!!
 その時、頬に伝ったものに、ミヅキは我に返って手を触れた。
 頬に伝ったものは涙。オレはなぜ泣いてるんだ――?