栄光のサクリファイス 117話

 故障を恐れず、マウンドに再び立った勇気はたたえよう。だが、こちらとて荒北の引き立て役じゃない。夏の甲子園では果たせなかった横浜綾瀬との真剣勝負のために今日はここまで来たのだ。
 あとツーアウトで攻守が交代してしまう。荒北には悪いが、ここは点数を稼がせてもらおう。
 捕手のサインを確認した荒北が、両手を上げて大きく振りかぶる。ボールが飛んできた時バッドを振ろうとしたが――風を切る音に、一瞬だけ竦んでしまった。打つはずだったボールはピッチャーのミットの中に収まって、宙に弧を描いて荒北のもとに戻っていく。
 ……なんだ今の投球は。アイツ、本当に膝が痛むのか? バッターボックスに佇む堂島学園の水瀬は、荒北の全力投球に呆然としていた。


 ミットの中にある手がヒリヒリと痛い。こんなに速い球を投げることができる投手と長い間バッテリーを組んだことを誇りに思いながら、南雲は荒北にボールを返していた。
 こんな時に不謹慎だとは思うが、今の試合が楽しいと思う。今はピンチの真っ最中。試合終盤に入って二点差は大きい。これ以上点数を稼がれたら、死ぬ気で点を取りにいかないと堂島学園に負けることは確定だ。
 これ以上点数を稼がれないためにはどうすればいい? 次の選手がバッターボックスに立った時、頭の中にある記憶を引き出して配球を組み立てる。
 荒北の膝になるべく負担がかからない配球を……そう考えそうになって、南雲はかぶりを振った。
 そんなことをしたら彼は南雲の胸ぐらをつかんで怒るだろう。六年間も一緒にやってきたバッテリーなのだ。配球に一投でも手を抜いた時、荒北にはそれがすぐにわかる。
 荒北はとっくに覚悟を決めている。ならば、南雲のやるべきことは――

「スリーアウト! 荒北さん抑えました!」

 観客席にいた織田が頬を上気させて叫ぶ。彼の膝の上にあるタブレットの画面には、変わらずこの試合の中継が映っている。
 新開がちらりとのぞいた時、とあることに気がついて口元が緩んだ。今まで野球に否定的だった視聴者は、荒北がマウンドに戻ってきてから態度が変わった。否定的なコメントで埋め尽くされていた動画は、今は彼を応援するコメントが大半を占めていた。


「動画サイトが盛り上がっている?」
「はい。なんでも、学生たちが学校の許可なしにやっている試合だそうで……」
「放っておけ。正義ヅラしたバカ共が勝手に叩いてくれるだろう。こちらが手を下すまでもない」
「はっ」

 恭しく頭を下げた秘書が社長室から去っていく。
 ドアの閉まる音を聞いた高校野球連盟会長の舞園は、ドアに背を向けて窓から見える町並みを見下ろしていた。
 ガラスに映った舞園の顔は――計画通りと言わんばかりに歪んだ笑みを浮かべていた。

 舞園にとって、ネットで話題になっている高校野球の八百長疑惑も計画の上だ。タブーニュースと手を組み、ネットにだけ真実の情報を流す。疑心暗鬼になった観客たちを通して選手は真実を知り、不安を煽られ、八百長を認めた上で野球をやるか、舞園に反発してやめるかふたつにひとつの行動を取る。多くの人間は今まで積み重ねてきたものが全部台無しになることを恐れ前者を取ったが、荒北たちは後者を取った。
 この計画はふるい落としのようなものだ。舞園についていけない者は野球をやめればいい。代わりの人間などいくらでもいるのだから。

『違う!! ただの茶番なんざ誰も求めてねーよっ!!』

 荒北の言葉を思い出す。
 作られた試合のなにが悪い? 今のテレビ番組の何割が素のままだと思っているんだ。筋書きがないものなど、見るに堪えないものが大半だ。
 八百長は目先の利益や観客を楽しませるだけではない。舞台に立つ人間を守る方法でもあるのだ。
 スポーツ選手にしろ、アイドルにしろ、今も昔も険しい道を志す者は少なくない。だが、この世界は非常に残酷で、スポットライトを浴びることができるのは才能を持ったごくわずかな人間だけだ。
 明日もわからない生き方に何人の人間が涙を飲んだと思っている? 歳を取るにつれてホームランが打てなくなり、契約を切られて薬物に溺れた野球選手がいることはお前だって知っているだろう。
 正々堂々、スポーツマンシップ。何十年も進化していない馬鹿な考え方はもう終わりだ。これからは結果を出せない者にも救いの手を差し伸べつつ、民衆を楽しませるエンターテインメントとしてやっていこうじゃないか。
 さようなら、横浜綾瀬のバッテリー。非公認の練習試合なんて小癪な真似をしてくれるとは思わなかったが、こちらにとっては痛くもかゆくもない。お前たちが消えてくれれば、野球界が作り変えやすくなる。


 攻守が交代し、横浜綾瀬の瀬野が打席に立った。
 表は荒北と南雲がふんばってくれた。試合終了まで逆転するチャンスはあと二回。
 荒北に打順は回さない。速攻で蹴りをつけてやる。
 強い意志を持ってバッドを構え、堂島学園のピッチャーが球を放つ――


 ドアを開けると、穏やかな風を体に受けた。荒北靖友は屋上に出て、フェンスに背中を預けた。
 「あれ? 今日は休みか?」担任の大きな独り言を聞いた荒北は、不安になって携帯を取り出してにメールを送った。
 なかなかこない返事に不安になってそわそわしていると、休み時間に赤城響子が友人に話していた。「さっき職員室で聞いたんだけど、が病院に運ばれたって!」
 真っ青になった荒北は田島に全てのことを任せ、学校を飛び出した。
 病院に駆けつけるとは拍子抜けするような顔で、すやすやとベッドで眠っていた。
 嘆息した荒北は頭を冷やすために病室を出て、屋上でしばらくの時を過ごすことにした。
 が病院に搬送されたと聞いた時は大変驚いたが、よくよく考えればそれほど焦ることでもなかった。大方また誰かを助けようとして、ひどい目に遭ったのだろう。……それでも、今回は病院に運ばれるような事態になったのだし、笑って済ませられることではないが。
 後で彼女に会った時、山ほど文句を言ってやろう。そう心に誓い、町並みを見やる。
 カキンと、どこからか懐かしい音が聞こえてきた。
 音のした方を見やると、近くの小学校のグラウンドで野球をやっているようだ。投手が放ったボールがヒットに変化している。
 昔は見るだけでも嫌だった野球の光景。……だが、今の荒北の口元には、笑みが浮かんでいた。


 堂島学園の新藤くんが二塁に着いた時、観客席から歓声が湧いた。
 試合は九回表の4-3。先ほどの八回裏では瀬野くんが頑張って一点を取ってくれたけれど、まだまだ勝ちにはほど遠い。
 しかし、荒北くんは苦しげな表情など微塵も見せない。まるで膝の故障など背負っていないように、力強いボールを南雲くんのミット目掛けて放ち続けている。
 ……私は今まで、とんだ思い違いをしていた。荒北くんと荒北さんは別人だ。今までそう思ってきたけど、彼らは別人なんかじゃない。
 道は違えど、こうして体を張って戦い続けている。荒北さんを見ていて思ったけれど、この強さはミヅキにもあるはずなんだ。
 この試合をミヅキも見ているのだろうか……。空を見上げて、心の中でミヅキに呼びかける。ミヅキから返事はこなかった。