栄光のサクリファイス 118話

 加賀が打席に立った時、膝から感じる激痛に荒北は眉根を寄せた。
 膝が痛い。マウンドに立ってなきゃ今にも崩れ落ちそうだ。痛みをこらえ、マウンドに立ち続ける。
 九回表の今も南雲の采配は完璧だった。だが、思いどおりに動かない膝のせいで、あっという間に二塁が埋まってしまった。
 思い浮かべろ。ロードレースの最終日でリタイアした自分の姿を。
 青い空、生ぬるい風、暑さを助長するような客の歓声。大掛かりな罠を仕組んだ敵校の選手を抑え、力尽きる寸前に仲間を引いて走り続けた誇り高きエースアシストの自分――。
 ……オレは、お前には負けない!
 渾身の力をこめてボールを放つ。
 投げられたボールの速さに、南雲はマスク越しに目を見開いた。
 スピードガンなどなくてもわかる。荒北が今までに投げた球で一番速い球だ。並大抵の選手は、このストレートを撃ち漏らしてしまうだろう。
 しかし、加賀のバッドは迷うことなく大きく揺れた。苦し紛れに振ったバッドに当たったボールはヒットに変化し、二遊間を割って飛んでいく。
 加賀がバッドを捨てて走ると同時、二塁にいた新藤が三塁目掛けて駆ける。左翼を守る古館が走り、ボールに追いついた。手を高く掲げて捕球し、休む間もなくサードの三島に送球する。
 三塁を刺すよりも先に新藤が着く方が早いと観客の誰しもが思っていたが――速い送球に、新藤は敗れてしまった。

「一人で野球していると思うなよバーカ!!」

 外野から叫ぶ古館に、荒北は深く帽子を被った。
 どこまでも嫌なヤツだ。けど、ムカつくアイツも含めてみんながいるから、オレはなにも気にせずボールを投げることができるんだ……。

 古館のプレーに、観客席から歓声がどっと湧いた。急いで携帯を取り出して写真を撮る客までいる。
 野球のことを深く知らない福富たちはしんとしていたが、その中で唯一野球に詳しい田島は目を輝かせていた。

「すごい……。まさか高校野球でこんな試合が見られるなんて。あんな送球は相当肩が強い選手じゃなきゃできないよ」
「どのくらいすごいのだ?」
「いくら東堂くんでもイチローは知ってるだろ? 昔、とある試合で、イチローが左翼から三塁に送球したんだ! すごい速い球に当時はレーザービーム送球だって言われて最高の捕殺だって話題になってたよ」
「古館さんは元投手だったみたいですよ。荒北さんにマウンドを奪われて外野手になったみたいですが……。あの光の送球は、彼の投球練習の積み重ねの成果かもしれません」

 タブレットで横浜綾瀬の野球部のページを見ながら織田がつぶやく。横浜綾瀬の背中を押すように、吹奏楽部の演奏が流れた。
 やがてスリーアウトを取った横浜綾瀬は守備から攻撃に変わる。
 試合は九回裏。無失点で抑えたものの、点を取らなければ勝利はない――。


 「この試合Dチームの勝ち確定だろ」モニタに映る動画のコメントを目にした時、配信者の遠藤は舌打ちしそうになった。
 今は視聴者にケンカを売っている場合ではない。姿勢を正し、投球の場面が映るもう一台のモニタに集中する。

「さぁさぁ試合は九回裏。ここまでの試合は4-3。Yチームに勝利の女神は微笑むのか!? 奇跡を信じて、最後まで配信を続けます」

 饒舌に喋りながら遠藤は思う。選手生命を賭けた男がマウンドに立った。それから、その男が投げるボールの一球一球に見とれてしまう。
 守備についているヤツらや堂島学園の選手だってそうだ。みんな点を取ろう取られまいと、全力で試合に挑んでいる。
 ――画面越しの傍観者。荒北の叫びが、今も遠藤の胸に残っている。
 オレはコイツらの背中を押そう。誰がなんと言おうとも、最後まで配信を続けてやる。


「次の打者は名取か。三島もダメだったし絶望的だ……」
「バーカ、なに諦めてんだ。アイツは打つ」
「テメーアイツの打率知ってんのか!?」
「お、落ち着いて古館くんっ」

 荒北につかみかかろうとする古館を南雲が間に割って入る。
 南雲がちらりと荒北に視線を移すと、荒北は名取を見て不敵に笑んでいた。


 九回裏のツーアウト。逆転するには奇跡しか許されない場面で、よりによって自分に打順が回ってきてしまった。
 バッターボックスに立つ名取の心は、固唾を飲む観客たちとは対照的に心が凪いでいた。

 去年のとある冬の日のことだ。どんなに練習しても打率が上がらなくて、とうとうベンチ入りさせられそうになった時におもいきって荒北に打ち明けてみた。

「ボールが打てないだぁ? ハハハ、お前打撃のセンスないもんな」

 笑い飛ばして終わるかと思いきや、荒北は名取をグラウンドに連れ出した。

「オレが投げてやっからよ。打ってみろ」

 そうして、何本もノックしていくうちに、名取は打撃のコツをつかんだ。

「今のコツでわかっただろう? 速い球が来たときに勝負に出ろ。遅い球じゃ打ってもゴロだ。打てないって考えは捨てて前だけを見ろ。……それと、あんまバカスカ打ってるとマークされるから大事なときにだけホームランを打て。そうすりゃお前も立派なバッターだ」

 上野のボールが飛んでくる。
 名取はバッドを振らず、ボールはキャッチャーのミットの中に収まった。

「ストライク!」

 観客がざわめく。
 上野は表情を緩めることなく、次の一投を放つ。
 一見速い球に見えるが、これは誘い球だ。名取はまぶたを伏せて球を見送った。

「ボール!」

 上野が再びボールを投げる。
 まだだ、まだ遅い。名取はバッドを振らなかった。

「ストライク!」
「んだアイツ、ふざけてんのか!」

 額に青筋を浮かべた古館が、ベンチから立ち上がり名取のもとに行こうとする。
 三島が羽交い締めにして止め、南雲と荒北は無言で勝負の行く末を見つめている。
 上野が両手を大きく振りかぶり、投げる。名取の目が見開く。

 なぁ、荒北。三年間、ありがとよ。
 お前には時々ムカつくこともあったけど、なんだかんだでオレは、お前と一緒に野球ができたことが誇らしいんだ……。

 望んでいたストレートが来た時、名取は渾身の力を込めてバッドを振った。
 荒北の投げる球に比べれば、こんなのは打ちやすい球だ。バッドにボールが当たり、羽ばたく鳥のように大空に向かって飛んでいく。
 観客席にボールが落ちるのを見届けた時、名取はゆっくりとダイヤモンドを周回した。
 遠藤が大声で勝利をたたえる。ダグアウトの隅にいたは涙を流し、グラウンドに飛び出した古館たちが名取を胴上げした。
 古館たちに遅れて、南雲の肩に支えられながら歩く荒北。彼もまた、大逆転の勝利に頬を涙で濡らして、心の底から喜んでいた。