栄光のサクリファイス 119話

 試合が終わってから体の調子が悪い。視界が異様にチカチカして、眠気がするのだ。
 ……もうすぐ、目覚めの時だ。まぶたに光が差し込む感覚にあともう少しだけと願いながら、球場の外に出る。
 光が射した先に荒北さんの姿を見つけた。偶然一人でいた荒北さんは、壁に手をついて歩く私に気づいた時、真っ青になって駆けつけた。

「おい、大丈夫か!?」
「……大丈夫。それより今は荒北さんと話がしたい」

 荒北さんが不安そうな瞳で私を見つめる。
 何度も問答を繰り返した後、近くにあるベンチに場所を移した。ベンチに座った私の隣に荒北さんが座る。油断していると目を長く閉じてしまいそうだけど、座っているだけで体がだいぶ楽になった。

「本当に大丈夫なのか……?」
「うん。眠いだけだから」

 荒北さんの瞳が揺れる。……たぶん彼は、私に時間がないことに気づいている。

「……なぁ、。ここまで導いてくれてありがとう。お前に会わなかったらオレは、今頃八百長疑惑に押しつぶされてどうにかなっていたと思う。今の試合がどれくらいのヤツらに影響を与えられたかはわかんねぇ。けど、試合を見てたヤツらに、本当の野球はおもしろいんだって伝わってる自信がある。……膝の治療が終わったら、お前に会いに行く。それまでお守りは返さない」
「……悪いけど、それはしない方がいいかもしれない。次に会った時、私は荒北さんのことを忘れてる」

 私が元に戻った時のために、この日々の出来事を日記に書いておいた。元に戻った私は机の上に置かれている日記を読んで、長い月日のうちに起きた出来事を半信半疑のまま知ることになるだろう。
 もしかしたら、うっすらと記憶が残っているかもしれない。最初のうちはそう考えたこともあったけれど、今はその可能性はないと思う。こうしている間にも私は、今隣にいる男の子が時々誰だかわからなくなってくる。
 だから彼は、私のことを忘れた方がいいかもしれない。私が荒北さんに初めて会った時、初対面の反応に心が深く傷ついた。ボロボロになった荒北さんを、これ以上傷つけたくない。
 そう思っているのに、荒北さんに小さく笑われた。

「なに言ってんだよ。この日々の記憶がなくなったとしても、お前はお前だろ。なくなったものはまた築き上げていけばいい。オレはお前にそれを教えられたんだ」

 当たり前のように言う荒北さんに、視界が涙でにじむ。
 ……そうだ。なにを言っているのだろう、私は。荒北さんに教えてもらったばかりのことなのに、私がその側になると彼を傷つけると思ってしまった。
 それを聞いたのなら安心だ。これでようやく、元の場所に戻ることができる……。

 今までつまらないことが心に引っかかって呼び方を変えてたけど、もうやめにしよう。
 時々無意識のうちに呼んでたように、彼もまた、荒北くんなのだから。

「荒北くんと再び会える日を待ってる」

 唇に柔らかいものが触れたと同時に、まぶたが落ちて意識が遠くなる。

 ◆

 唇を離すと、はすやすやと眠っていた。彼女の体をそっとベンチの背もたれに預け、名残惜しい気持ちを振り切って立ち上がる。
 足を引きずりながら歩いていると、福富を見かけた。荒北と福富の視線が交錯する。

「あっちでが寝てる。悪いけど代わりに面倒見てくれ」
「……待て。お前はアイツの前から消えるのか?」
「オレにはやることがある。それまで、と会うことはできない」

 再び歩き出す荒北。だが、荒北はなにかを思い出して突然足を止めた。

「なにもないとは思うけど、なにかあったときはアイツのことを頼む。アイツも舞園にケンカを売った一人だ。いざというときはオレの代わりに守ってくれ」
「あぁ。のことはオレに任せろ」

 足をひきずって歩く荒北を福富は見送る。
 もし、彼が自転車部に入ったら、どんな軌跡を描いていただろう。
 仮に荒北が自転車の道に進んだとしたら……誇り高きエースアシストが一番ふさわしい。
 自転車に乗った荒北を想像してかぶりを振る。今の荒北は膝を壊しても野球をやるだろう。自転車しかない福富のように、彼もまた、野球の道でしか生きられないのだから。
 今日の試合のことは胸に強く刻んでおこう。選手生命を賭けて全力で試合に挑んだ男に、こちらとて負けるわけにはいかない。
 荒北の姿が建物の角を曲がると同時に消える。福富は踵を翻し、のいるベンチへと向かって歩いていった。

 ◆

 白い天井、白い壁、白いカーテン。ベッドから起き上がるとミヅキは頭を垂れて床に座りこんでいた。

「ミヅキ……」
「……オレの負けだ。オレが思ってた以上に、靖くんは強かった……。オレと同じ人間のくせに、どうしてここまで違うんだろうね。オレは、靖くんみたいには強くなれない……」

 ミヅキの顔が深く沈んでいく。
 自分自身の強さを見て、強く打ちのめされたミヅキ。……今こそ、彼と向き合う時だ。随分会っていない彼の姿を思い浮かべ、ゆっくりと言葉を紡いでいく。

「昔、中学生の時に肘を壊して途方に暮れてた人がいるんだ。その人は高校生の時に自転車に出会って、人一倍努力を積み重ねて頂上まで上り詰めた。彼や荒北くんの強さは、苦難を乗り越えて出来上がったものだよ」

 ベッドから下りて、ミヅキの前で膝を折る。

「ミヅキはもっと強くなれる」
「慰めはいいよ」
「慰めなんかじゃない。ミヅキも荒北くんだから。生き方は大きく違うけど、でも、根本的には一緒だ」
「……なんでだろうね。何の根拠もないけど、君の言葉は信じられる気がするよ」

 涙を拭いて立ち上がるミヅキ。

「約束どおり、報酬を与えよう。君が望んでいるものは、言わなくてもわかるさ」

 ミヅキの最後の言葉を機に、周囲が光に包まれて、世界が暗転する――。


 快晴の空の下、沿道にはたくさんの観客で溢れていて、車が走るはずの道路にはなにも通っていなかった。
 ……いや、これから来るんだ。選手はまだかまだかと期待を寄せる観客の熱気、遠くから感じる風。この感覚は、何度も体験したことがある。

「ここは……」
「インハイ最終日のスプリントリザルト前。ここは、靖くんの心象風景でもある」
「荒北くんの心象風景……?」
「心の中に思い描く景色のことさ。彼にとってはここが一番印象に残っている場所だ。多少、システムの修正も入っているけどね」

 私の隣で微笑むミヅキ。真夏に長袖の白衣という異様な格好なのに、周りの人たちはミヅキのことなど気にも留めない。おそらく、彼らには私たちが見えていないのだろう。

「レースを最後まで見届けることにした君が決して見られなかった景色。……今、君に見せてあげるよ」

 観客が歓声を上げる。
 コースの先には、荒北くんが箱学のみんなを引いて走っていた。
 人混みを掻き分けて、衝立が阻む場所まで行って、荒北くんの走る姿を近くで見る。

「荒北くんっ」

 過去の再現ではあるけども、こうして彼の走る姿を目にした今涙が溢れてくる。胸にこみ上げてくる気持ちに邪魔されて、いつも言っている応援の言葉が口にできなかった。
 一瞬のうちに間近で見た荒北くんは、ゴール前で見せるような力強い走りだった。
 彼の口から聞いた話でしか知り得なかった光景。荒北くんは、走りきったんだ……。そう思うとさらに涙が溢れてきた。
 涙を拭いて前を見ると、反対側の沿道に子どもが走っている。あれは……茉莉花ちゃんだ。茉莉花ちゃんが、箱学の集団から落ちて走ることをやめた荒北くんに向かってなにか言っている。
 荒北くんはにこやかに笑って、なにかをつぶやいた。その時、地方の新聞社の腕章をつけた人が、一眼レフのカメラを構えて荒北くんの写真を撮っている。

「どうだい? 靖くんの最後の走りは。今まで過ごしてきた日々は、君が元の世界に戻った時に完全に消えてなくなる。実験者のオレは別だけど、普通の人間は平行世界の記憶なんて持っていたら頭の中がめちゃくちゃになるからね。……だけど、この記憶をぼんやりとした形で残すことができる。君が見たくて見られなかったものを、報酬として得ることができるんだ。悪い話じゃないだろう?」

 ミヅキの言うとおり、これは私が望んでいたものだ。荒北くんの最後の走りを見届けること――。給水係の使命を果たすために車に乗っていた私は、彼の最後を見ることができなかった。
 これを記憶に残すことができれば、心が満たされるかもしれない。でも、

「……ううん。それはいい。ミヅキの言うとおり、荒北くんの最後をこの目で見てみたかった。でも私は、見ないことを選んだ。このことはずっと心残りだったけど、荒北くんの言葉だけで、この光景を思い浮かべることができるから。だから、このままでいいんだ」

 今見た光景を忘れてしまっても、荒北くんの言葉ひとつで思い浮かべることができる。
 この報酬は魅力的だけど、私には過ぎたものだ。

「でもね、その代わり、ひとつだけお願いがあるの。どんな形でもいいから私の目が覚めた時、あの新聞社の名前を思い出せるようにしてほしい」
「なんで……?」

 不思議そうな顔をしたミヅキ。でも、私がやろうとしていることがすぐにわかったのか、表情が困惑から微笑に変わる。

「……あぁ、そうか。君はどこまでもお人好しだね。だからみんなは、君の優しさに惹かれてついてくるんだ……」

 だんだん意識が遠くなってくる。もうすぐ、夢から覚める時間だ。

「ありがとう、。オレも、君に出会えてよかった」

 視界が光に包まれて、体がふわりと浮かび上がる。
 宙に浮いた体が、足の爪先から泡になって溶けていく。まるで宇宙の中を飛んでいるような不思議な感覚だ。
 見下ろした先には、さっきまでいた球場のグラウンド。勝利の歓喜に包まれる中、帽子を取って仲間たちと勝ったことを喜んでいる男の子がいた。男の子の名前は……なんだっけ。荒北くんに似ているけれど彼じゃない。私が知っている彼は、野球じゃなくて自転車の道を歩んでいるのだから。
 うれしそうに笑う彼に、理由もなく頬が緩む。
 ……さぁ、帰ろう。荒北くんのもとへ。目を閉じて光を受け入れる。