栄光のサクリファイス 120話

 目が覚めると、真っ白な天井が目に映った。
 起き上がると、白い天井、白い壁、白いカーテン。数ヶ月前にも似たような部屋にいた。ここは……病院だ。
 なんでここにいるんだっけ。額を抑えて、意識をなくす前のことを思い出す。
 たしか私は、記者たちに囲まれる中学生を助けようとして……。頭から血の気がひいて、自分の体を見下ろす。制服のままベッドで寝かされていて、どこにも外傷は見当たらなかった。
 近くに置いてあったバッグの中から携帯を取り出して画面を確認する。意識を失ってから三時間ぐらい寝ていたようだ。
 中途半端な時間だけどなぜだろう。とてつもなく長い夢を見ていた気がする。
 ――荒北くんに会いたい。急にそう思った私はベッドから下りて、足早に病室を出た。


 屋上の扉を開けると、荒北くんがいた。荒北くんは私に気づかないままフェンス越しの町並みを見ている。
 昨日会ったばかりなのに、彼の背中を見ていたら急に涙が溢れてきた。アスファルトを蹴って、荒北くんに近づく。

……? ぐぇっ」

 振り返った荒北くんの肩に顔をぶつけてしまった。荒北くんが妙な悲鳴を上げる。
 服越しに感じる温かい温もりに、涙がとうとう止まらなくなってしまった。背中に手をまわして、荒北くんをぎゅっと抱きしめる。

「ど、どうした。何だよ急に」

 荒北くんの胸元を涙で濡らしてしまう。言おうとした言葉は涙に変わり、なかなか口に出せない。
 この手を離したら、また荒北くんは遠くに行ってしまうかもしれない。そう思ったら怖くて怖くてたまらない。

「どこにも行かないでっ……!」

 長い夢がそんなに怖かったのか、強くそう思った。荒北くんの肩に顔を押し付ける。

「オレはどこにも行かねェから。になにかあったら、今日みたいに飛んできてやんよ」

 優しく頭をなでられる感触に、少しづつ涙が収まってきた。


 泣き終わった後、荒北くんと二人で並んで町並みを見ていた。

「南雲から聞いたんだけどよ、中学の試合で八百長があったんだと。嗅ぎつけたマスコミたちが中学生にしつこく取材して、は運悪く巻き込まれた……。マスコミの奴らは全員しらばっくれたみたいだけど、押したヤツの顔は覚えてるか」
「犯人探しはいいよ。こんなことがあった後じゃ、あの子にしつこくつきまとわないだろうし」
「……それに関して言いたいことたくさんあっけど、また後でな」

 荒北くんが空を仰ぐ。

「八百長、か。どんだけおもしろくても、手を抜いた試合なんざわかるヤツにはわかるんだよ。仕組んだヤツがどんなヤツか知らねーけど、いつまでも茶番が続くと思ったら大間違いだ」
「そうだね……。本当にそう思うよ」

 全ての勝負事が、必ずしも真剣勝負ではないことは知っている。ロードレースも過去に八百長があったし、時々ニュースで色んなスポーツに渡り八百長があったことを耳にするときもある。
 八百長があることで利益を得る人や救われる人がいるかもしれない。だけど、私に言わせればそんなのは大間違いだ。茶番の試合なんて、見せかけだけで何の心にも響かない。
 選手が全力で勝負に挑むからこそ、みんなは試合やレースに熱中する。勝負の世界は誰かが勝手に汚していいものじゃないんだ。たとえ、どんな理由があろうとも。

 頭に、マウンドに立つ荒北くんの姿が思い浮かぶ。……最近荒北くんに借りたアルバムの整理ばっかりやっているせいだろうか。なぜか今思い浮かんで、涙が出てきそうになる――。
 また泣いたら荒北くんを困らせてしまう。慌てて別のことを考えると、あることが思い浮かんだ。

「靖友、くん」
「こっ、今度はどうした!?」
「そろそろ下の名前で呼びたいなぁって。福富くんたちは付き合ってること知ってるし、響子にはそのうち言うよ。だからダメ、かな」
「……いいぜ。しばらくは慣れねェけど、にそう呼ばれるのは悪くねェ」

 頭をかいた靖友くんの頬が朱に染まっている。
 呼んでいる私自身もちょっぴり恥ずかしくなって、風でなびく髪を手で抑えて、光差す町並みを見下ろした。

 ◆

 ベッドから起き上がり、頭に着けていたヘッドギアを外す。
 掛け時計を見ると、実験開始から四時間が経過していた。ベッドから下りて、無機質な部屋を出る。
 廊下を歩いていると、同じ大学であり別の研究に参加している天野の姿を見かけた。荒北に気づいた天野が破顔する。

「お、荒北。どうだ実験は?」
「思ったより楽しかったヨ。そっちは?」
「オレんところは全然うまくいかねー。けど、完成したらあれ、どうすんのかな。公の場で発表したら、間違いなく混乱が起きるだろ」
「じゃあ隠せばいいんじゃナァイ? たとえば……使われていない教会の地下とか。幽霊スポットにでも置いておけば、誰も近寄らないと思うよォ」
「そういう問題なのか……? まぁいいや。オレ、教授に呼ばれてるからまた後でな」

 慌ただしく去っていく天野にひらひらと手を振りながら外に出る。
 久しぶりに太陽の光を浴びた気がした。実際に時が流れたのは四時間だけだが、体感時間としては二ヶ月以上寝たきりになったような気分だ。度重なる実験に体が慣れてきたのかどこにも異常は感じない。だが、運動不足のような気だるさがあって、久しぶりに愛車で走ろうとミヅキは考えた。
 駐輪場に行くと、自転車が数台並んでいる。その中にチェレステカラーのロードバイクを見つけ、フレームをなでた。
 初めて別の世界の自分を見た時、乗り心地が気になって奮発して買ったロードバイク。靖友が乗っていたロードバイクと似ているが、こっちはエントリーモデルの値段が一番安いものだ。日々実験に追われているためこれには数回しか乗っていないが、ミヅキはとても気に入っていた。
 自転車に乗り、サイクリングロードを目指して走る。


 サイクリングロードは平日ということだけあって無人に近い状態だった。自転車専用道を渡り、風を切って走っていく。
 コーナーに差し掛かったところで、ミヅキはあることを実践することに決めた。
 このカーブをギリギリのブレーキングで駆け抜ける。いずれはレースに出て賞を取りたいと思うミヅキにとって、カーブを滑らかに曲がることは目標のひとつでもある。
 カーブに差し掛かり、スピードを調整する。だが、ブレーキをかけるのが遅れ、車体が傾いて横転する――

 ガランッ!!

「だっ、大丈夫ですか!?」

 尻もちをつくと、後ろから自転車のブレーキ音と女の声が聞こえてきた。女がミヅキに駆け寄る。

「痛ったァ~い……」

 痛そうに声を上げるミヅキに、目の前にいる女がおろおろする。
 ミヅキが目を開けると、女と目が合った。

「立ち上がれます……?」

 女がしゃがんでミヅキに手を差し伸べる。
 女の顔を見て呆然としたミヅキは、

「ガキじゃねーし一人で立てらぁ」
「……えっ」
「なーんてネ」

 女の手をつかみ、立ち上がった。

 夢の中で会った女は言った。ミヅキにも彼のような強さがあると。
 過去から背を向けて一歩前に踏み出した時、空に昇る太陽のまぶしさに、体を包む風の優しさに、周囲にいる人たちの温かさに改めて気がついた。
 数年にも渡る悲しみは簡単に消えてなくならない。だが、膝の痛みを抱えてもなおマウンドに立つ自分に、このままくすぶっていられないと思う気持ちが彼を強くする。

 空は青く澄んでいる。呆然とする彼女の前で、ミヅキは久しぶりに、心から笑っていた。