栄光のサクリファイス 121話

「よ、荒北。また今日も実験か? 根詰めすぎて倒れるなよ」
「天野チャンこそ、ゆっくり休んだ方がいいと思うよォ。頭に寝癖ついてるヨ」
「あ、本当だ!」

 頭上にあるアホ毛に気づいた天野が驚く。
 洋南大学の学生であり、夏休みの間だけ総合研究所の助手を務めている荒北靖友はクスクスと笑い、研究室の中へと入っていく。
 病院を連想する真っ白な部屋。壁際には大掛かりな機械と、部屋の中央にはシングルベッドが置いてあり、ベッドのシーツの上にはヘッドギアが置かれている。
 慣れた手つきで機械を操作し、ベッドに腰掛けてヘッドギアを被る。ヘッドギアを着けたまま仰向けになり、目を閉じた。

 人間の愚かさを追及するのはもうやめだ。これからは前に進もう。そう決心した荒北は以前よりも精力的に実験に励むようになった。
 今の荒北にとって、このシミュレーターはもはや必要のないものだ。しかし、あの時新聞社の名前を記憶に残してほしいと言ったがこれからどうするのか、最後まで見届けたい。
 終わりは寂しいけれど、時間が止まったままでは彼女たちは幸せになることができない。意を決して目を開けた時、荒北は無数の星空の中にいた。手を伸ばし、一段と強い輝きを放つ星をつかむ。
 さぁ、最後の物語を始めよう。誇り高きエースアシストと心優しいマネージャーが共に紡いだ物語の終盤へと――。
 まばゆい星の光が、荒北の体を優しく包む。

 ◆

 久しぶりに訪れた部室は、活気に満ちあふれていた。泉田くんがストップウォッチを持ち、ローラー練習をしている部員たちに大声を上げて活を入れている。その横でメカニック担当の部員たちが慌ただしい様子で備品室を行き来し、トレーニングレースの準備を進めている。
 部活の様子を見ながら長椅子に座って待っていると、更衣室から織田くんが出てきた。

「お待たせしました。七海新聞社から取り寄せた新聞と写真です」
「ありがとう」
「にしても、よく見つけましたね。その新聞記事」
「なんか、新聞社の名前が強く記憶に残ってて……たぶんどっかで見たんだろうね」

 七海新聞という地方の新聞に、インハイの記事が載っている。
 どこかでそれを知った私は、織田くんを通して新聞記事を取り寄せた。四ヶ月以上も前の新聞だから諦め半分で依頼したものの、欲しかったものを無事に受け取ることができてよかった。
 受け取った写真と新聞記事を一目見る。これだけあれば、アルバムの最後のページを埋めることができそうだ。

「またなにかあったら言ってください。協力します」
「本当にありがとう」

 私がいなくなり、自転車部で唯一のマネージャーになった織田くんは、見ない間に一段とたくましくなった。
 最近ではマネージャーの仕事をこなしながら自転車の練習や筋トレも一緒にしていて、さっき織田くんから聞いた話によると今度のレースに初出場するそうだ。
 最初は部活の偵察目的で自転車部に入った織田くん。合宿の頃から自転車のおもしろさに気づいた彼は、今は立派なライダーの一人だ。
 うわさによれば夜一人で自主練習をしているとか。もしかしたら、三年生になった時に、靖友くんみたいにインハイに出場しちゃったりして……。織田くんの未来を想像すると、自然と頬が緩んでしまう。

「そうだ、さん。この前真波から聞いたんですけど、またなにか変なことに首を突っ込んで病院に行ったんですって!? 困っている人を見過ごせない正義感は立派だと思います。けど、なにも考えずに間に入って止めるなんて馬鹿と同じです! こういうときはまず冷静になって周りの状況を確認して、周囲の人に助けを求めてから――」
「私用事思い出した! じゃあね織田くん、また今度!」
「あっ、待ってくださいさん!」

 制止を振り切り、部室を出て一息つく。まさか織田くんにまでガミガミ言われるとは思わなかった。色んな人に怒られたし、これ以上のお説教は充分だ……。もう一度息をつくと、冷たい風に体が震えた。両肩をさすり空を見上げる。
 追い出し走行会が終わり自転車部を完全に引退して、あっという間に十二月になった。
 ……もうすぐ、クリスマスだ。受験生だから浮かれている場合じゃないことはわかってるけど、靖友くんと過ごす初めてのクリスマスについつい浮かれてしまう。
 マフラーを首に巻いて歩き出す。帰ったら早速アルバムの整理をしよう。


「なぁ、。クリスマスイブ、どこ行くか」

 翌日、帰り道の途中でビアンキを押しながら歩く靖友くんがぽつりと言った。

「こういうのよくわかんねーけどアレか。イルミネーションでも見に行きゃあいいのか」
「それもいいけど、海に行きたいな」
「海……? 今行っても泳げねーぞ」
「わかってるよ。浜辺を歩くだけでいいの。寒いかもしれないけど、海の波打つ音を聞いてゆっくり過ごしたい」

 タイトルは忘れちゃったけど、昔見たドラマのワンシーンで恋人たちが冬の浜辺を歩く姿が強く印象に残っている。
 子どもの頃に思い描いたささいな願望……いつか、好きな人と冬の海を一緒に歩いてみたいと思っていた。
 靖友くんをちらりと見ると、彼はなにか考え事をしている。

「やっぱり、寒いし嫌だよね」
「いや、いい。前はオレのワガママに付き合ってもらった。今度はオレが、のワガママに付き合ってやんよ」

 冷たい風が吹いて、靖友くんが体を震わす。

「さっみ。早く帰ろうぜ」
「うん」

 靖友くんと一緒に、夕日の光が差す帰り道を歩く。
 寒い帰り道も、春になれば訪れる別れのことを考えれば、この時間がずっと続けばいいのにと思ってしまう。