栄光のサクリファイス 127話
部屋には空っぽになった家具と、何段にも積み重なったダンボールが置いてある。その中で荒北靖友は空いているスペースに座り、一人ぼうっとしていた。
箱根学園に入学する時はどうせすぐに学校を辞めるだろうと思っていた。しかし、自転車の世界にのめり込んでからは憎いと思っていた野球のことを忘れ、やりたいことを成し遂げてこの学校を卒業することができた。
業者が来るまでまだ時間がある。暇つぶしになりそうなマンガや雑誌はダンボールの中にあるし、これからどうしようか……。周囲に視線を巡らせた時、バッグに入れっぱなしのある物に気がついた。
バッグの中からアルバムを取り出し、手に持ってページを開く。最初のページはと一緒に見た時と変わらない、子どもの頃の自分の写真があった。
正直、自分の写真を見るのはあまり好きではない。どこぞのカチューシャのようにナルシストでもなければ、客観的に自分を見るという行為になんとなく抵抗を感じるからだ。
そんな荒北が、なぜわざわざ実家からアルバムを取り寄せたのか。それは、大切な人に、自分のことをもっと知ってもらいたかったからだ。
そういえばあの時は自分のことを語ってばっかりで、のことは聞けずじまいだった。今度会うときはのことを聞こう。そう思いながら荒北はアルバムのページをめくる。
家族の写真や、少年野球をやっていた時の写真、中学で部活に入って、マウンドに立っている自分の写真。今自転車に乗っている自分とは、大きく違う自分が映っている写真が続く。少し前の自分だったらアルバムを見ることすら嫌がっていたかもしれない。こうして笑ってアルバムを見ることができるのは、のおかげだ。
彼女と一緒に見た記憶のある、最後のページにたどり着く。まだ開いていないページにはどんな写真が貼られているのか。勇気を出して、次のページを開く。
「ハッ」
荒北が吹き出した。新しいページには、リーゼント頭でサイクルジャージを着ている荒北の写真があった。こんな写真、一体どこで手に入れたのだろう。ページ全体を見渡せば、まだ幼さが残る福富や新開、東堂の写真もあった。
リーゼント頭の荒北の写真は一枚だけで、その後の写真に映っていた荒北はばっさりと髪を切ってローラー練習に励んでいた。
ロードレースに初出場したものの、途中で力尽きてリタイアした二宮ロードレースの写真。その後、真鶴のレースで優勝し、一位の表彰台に立つ荒北の写真が貼ってあった。
一年の頃は福富に基礎練習をやらされてばっかりだった。あの時はバカにしているのかと苛ついたこともあったが、今となっては、インハイの舞台に立つために必要なことだったのだと福富に感謝している。二年目の合宿の写真を見ながらページをめくると、荒北は息を呑んだ。
様々な写真の横に、が荒北の自主練習を手伝っている時につけていた練習日誌のページが添えられていた。荒北の喜ぶ顔を想像して、日誌を切り取ってはアルバムに貼り付けたのだろう。見覚えのある字に胸に愛しい感情がこみ上げて、練習日誌の切り抜きにそっと手を触れる。
荒北にとって強く印象に残っている伊那ロードレースの写真がアルバムに貼られている。ここで荒北は、苦戦の末に二度目の優勝を果たしたのだ。
練習日誌に書かれている記録は、順調に上がりつつある。だが、インハイの日を境に記録は止まった。
今となれば理由がわかる。心の大きな変化についていけず、スランプに陥ってしまったのだ。
必死に練習に励むものの、記録は伸びない。アルバムには写真がないが、とある雨の日のレースで荒北は、を突き放したことを思い出した。
それから、は自主練習に顔を出さなくなり、練習日誌がない、写真だけが貼られたページが続く。この時参加したレースで何度も優勝をしているものの、写真に映った荒北の顔はあまりうれしそうには見えなかった。
次のページを開く。頬にガーゼを貼った自分自身の写真を見て、荒北は小さく笑った。事があった翌日、周りの人にしつこく理由を聞かれてははぐらかしたが、中学の時に一緒に野球をやっていた南雲たちに会い、自分なりのけじめをつけて……それでできた青春の証だ。
その前に起きた旧校舎のフェンスの落下事故を経た荒北はのことを二度と離さないことを誓い、何事にも全力で取り組むようになった。
ページの隅に、新開の練習に付き合っている荒北や東堂、福富の四人が映った写真がある。そういやこんなこともしたっけ……。懐かしい気持ちで次に進むと、練習日誌が貼られていた。退院した彼女が、荒北の自主練習を再び手伝ったのだ。
あんなに伸び悩んでいた記録は、嘘のようにとどまることを知らない。と向き合い、過去に向き合った荒北にはもう恐れるものなどなにもなかった。
春から福富のアシストとして活躍し、レースで全勝する日々が続いた。そして、夢に見たインハイの日々に突入する――。
インハイ一日目。この日は、箱学と総北と京伏の三校が同着三位となった衝撃的な一日だった。当時荒北はゴール前で総北の今泉と激しいアシスト勝負をした。この時の写真が、アルバムに貼られている。
インハイ二日目。親友が念願の優勝を果たした日。荒北は目立った活躍はしなかったが、福富なら必ず優勝するだろうと信じて疑わなかった。
次のページをめくろうとして思いとどまる。次が最後のページだ。
インハイ最終日、荒北はスプリントリザルト前でリタイアした。カメラを持った部員は、勝利の瞬間を記録に収めるためにリザルト地点やゴールにいることが多い。自分自身の走る姿は、インハイ二日目で見納めだろう。
寂しい気持ちでページをめくる。するとそこには、新聞記事と、二枚の写真があった。
自転車に跨ったまま、顔を伏せて地に足をつけた荒北の写真。それと、救護テント行きの車に乗り込む前に、見知らぬ少女に向かって笑う荒北の写真。
新聞の記事を読んで、荒北の脳裏にインハイの記憶が蘇る。
――インハイ二日目の夜、彼女と初めて口づけを交わしたこと。
――みんなで約束したのに、結局自分だけが彼女に花束を渡せなかったこと。
――死ぬ気で引いたのに、総北に優勝を奪われてしまったこと。
――それでも、高みにたどり着いたことを誇りに思っている自分自身がいること。
アルバムに荒北の涙が落ちる。何度手の甲で拭っても、涙が止まらない。
今度彼女に会ったら、この感謝の気持ちをどう伝えればいいのだろう。荒北は頭を垂れて、涙が枯れるまで泣いた。
アルバムの最後のページに貼られた新聞記事にはこう書かれている。
今年行われたインターハイ自転車ロードレース。ここで記者は、エースアシストというロードレース特有の変わった役割について紹介しようと思う。
エースアシストは己の名誉にこだわらず、エースをゴールにまで導く。前を走りエースの空気抵抗を減らし、時に脅威となる敵の足止めをする。献身的な役割にサクリファイスと比喩する人もいる。写真に映っている少年も、エースアシストの一人だ。
最後まで全力で走っては仲間を引き、スプリントリザルト前で彼は棄権した。彼は賞をとることはなかったが、その場にいた多くの人たちが彼の力強い走りに見入られた。星渡学園の取材をしていた記者もおもわず、カメラのシャッターを切ってしまったほどだ。
決して記録には刻まれることのない誇り高きエースアシスト。彼に敬意を表してこう呼ぼう。――『栄光のサクリファイス』と。