栄光のサクリファイス 126話
卒業式が終わってから、慌ただしい日々が続いた。
卒業式の翌日、福富くんと新開くんは箱根を発った。私は靖友くんと連絡を取りながら、引っ越しの準備や大学の課題を片付ける日々に追われていた。
そんなある日、東堂くんから連絡があった。メールを見た私は急いで自転車に乗って、とある夏の日に訪れたことのある公園に向かって走り出した。
公園に着くと、東堂くんはベンチに座っていた。
「東堂くん」
「すまんね、いきなり呼び出して。大した用ではないのだが、ここを発つ前に君に会っておきたかったんだ。……まぁ、なんだ。こっちに座るといい」
東堂くんに促されて隣に座る。前には桜の木があった。満開の桜が、小風に吹かれるたびに揺れて花びらを散らしていく。
「卒業式の日に、たくさんの女子から告白された。オレは女子が好きだが、それ以上に自転車が好きだ。全員の告白を断ってしまったが、中には恋がかなわないことを承知で告白することを決めたと言った人がいてな。不思議に思ったオレは、なぜ傷つくことを承知で告白をしたのだと聞いたら、その子はなんて言ったと思う? 胸に秘めたままではなにも伝わらない。だから言葉で伝えにきたのだと言っていてな……。当たり前なことだが、大切なことだとオレは思ったよ。なにも言わないままでは、なにも伝わらないのだからな」
すぅ、と息を吸う東堂くん。
「だからオレは今日、ちゃんに告白しようと思う」
……? 東堂くん、今なんて言ったんだろう。たしか、告白って単語が出てきたような……?
やきもちを焼く靖友くんの顔を想像して、額に汗が伝う。
「ま、待って東堂くん。私、前にも言ったけど靖友くんと付き合っていて……!」
「ちゃん、今までありがとう」
しばらくの間、沈黙が流れた。
お互いにきょとんとした顔のまま見つめ合う。……あ、あれ? 言葉が被っちゃってよく聞こえなかったけど、私、なにか勘違いしていたのだろうか?
「東堂くんゴメン。もう一回言って」
「……コホン。今までありがとう。君がいなければオレは、巻ちゃんを笑って見送ることができなかった。それに、君は二年間、自転車部に尽くしてくれた。部活を頑張る君の姿に、オレは何度も励まされたよ。オレも頑張らなければならんなってな」
桜の木を見上げる東堂くん。
「オレはこれからフクや新開、荒北とは違う道を歩く。いつか巻ちゃんと道が交わることを信じて……強い自分であり続けようと思う」
「なれるよ、東堂くんなら」
笑んだ東堂くんがベンチから立ち上がる。
「前におごられたままだったし、なにか飲み物をおごってあげよう。なにがいい?」
「じゃあ、ベプシ」
一緒に自販機に行くと、ベプシは売り切れていた。
「残念。ベプシは売り切れだ」
「じゃあ、東堂くんのオススメで」
「オレのオススメはそうだなぁ……」
東堂くんの手がさまよう。迷った末に東堂くんはお茶を二本買った。
「レースが終わった後は巻ちゃんとよくこうして、自販機で買った飲み物を一緒に飲んでいた。これは、オレの親愛の証だ」
私にお茶を差し出す東堂くん。
「ありがとう」
東堂くんからのプレゼントを、両手でそっと受け取った。
「尽八ー! そろそろ行くわよー!」
遠くから女の人の声が聞こえてきた。声が聞こえてきた方を見ると、車に乗った麗子さんが東堂くんを呼んでいる。
「すまん。そろそろ時間だ。……じゃあな、ちゃん。また会おう」
「うん。元気で」
東堂くんが車に向かって走っていく。
ありがとう、東堂くん。だんだん遠くなっていく車を見ながら、心の中でお礼を言った。
翌日、予約していた引っ越しの業者が来て、家の中がからっぽになった。
靖友くんが来るまでだいぶ時間がある。これからどうしようか……。フローリングの床に手をついてのんびりと考え事をしていると、玄関のチャイムが鳴った。
待ち合わせの時間まで早いけど靖友くんが来たのだろうか。疑問に思いながら玄関のドアを開けると、私の家を訪ねたのは真波くんだった。
「遊びにきちゃいました」
にこっと笑う真波くん。私は苦笑して、真波くんを家の中に入れた。
リビングに入ると、真波くんは周囲を見渡した。
「わー、なにもないですねー」
「ついさっき、引っ越しの業者が来たばかりなんだ」
「さんが引っ越すなら、オレこの家に住んじゃおうかな」
「いやいや……」
ただでさえ広い家に住んでるのに、もう一軒住む場所を増やしてどうするつもりなのだろう……。フローリングの上で、真波くんが大の字になって仰向けに寝る。気持ちよさそうなので私も真似してみた。
こうしてみると、なんだか変な気分だ。からっぽになった私の家は、他人の家のように感じてしまう。
「……ねぇ、さん」
ぽつりと真波くんが言った。
「行かないで」
驚いて半身を起こし、真波くんの顔を見る。
「なーんて、嘘です。……本当は、行ってほしくないけど」
真波くんは寂しそうに笑っていた。
「オレね、高校入って初めて部活に入ったんです。そこで東堂さんに荒北さん、福富さんに新開さん……色んな人たちに出会いました。もう荒北さんに怒鳴られたり、新開さんにパワーバー分けてもらったり、福富さんと一緒に走ったり、東堂さんの長い話を聞くことができないと思うと……きゅっと胸が苦しくなるんです」
「真波くん……」
「オレに走ることの楽しさを思い出させてくれてありがとう。さんがあの時背中を押してくれたから、今のオレがあるんです。オレはインハイで初めて負けることの痛みを知って……色んな重さに、押しつぶされそうになりました。あれから追い出し走行会の時にね、東堂さんにこう言われたんです。『自由に走れ、真波』って。それまで箱学の名に恥じない走りをしようとか色々考えてたけど、東堂さんにそう言われたらだいぶ楽になりました」
床で寝ていた真波くんが起き上がる。
「今年のインハイ、絶対に見に来てくださいね。オレ、山岳賞取ったらさんに花束をプレゼントします。……あ、でも、荒北さんヤキモチ焼いちゃうかな? ま、いっか」
明るく笑う真波くん。持ってきたショルダーリュックを持って立ち上がる。
「ここにいると長居しちゃいそうだし、ひとっ走り行ってきます」
「今日は部活はないの?」
「えへへ、今日のオレは自主練です」
もうすぐ二年になるのに、真波くんは変わらないなぁ。
でも、それでいい。坂を楽しんで登ることは、彼の強さの一番の秘訣なのだから。
「真波くん」
家を出ようとする真波くんを、遠くの位置から呼び止める。
「坂、好き?」
真波くんは一瞬きょとんとして、満面の笑みを見せた。
「――はい、大好きです!」
チャイムが鳴る音を聞いて玄関のドアを開けると、靖友くんが立っていた。
「準備、できたか?」
「うん」
「じゃあ、行こうぜ」
バッグを片手に、靖友くんと一緒に駅に向かって歩く。
プラットホームで靖友くんと二人、もうすぐ来るであろう電車を待つ。
「結局オレが最後に取り残されちまった。見送るっつーのも、寂しいもんだな」
寂しそうな顔をして笑う靖友くん。東堂くんは昨日発って、私は今日この町から出ていく。靖友くんは、後日寮を出る予定だ。
「四月二日、来るんだろ? 引っ越しした次の日で荷物全然片付いてねェと思うけど、待ってるから」
四月二日……。そう遠くない日だけど、靖友くんと会える日が待ち遠しい。
卒業してからは毎日のように会っていたわけじゃない。電話で済ます日もあれば、声も聞かずメールのやりとりだけの日もあった。なのに、離れてしまうことを考えると、やっぱり寂しくなってしまう。
靖友くんの手に触れる。靖友くんが指をからめて手をつないでくれた。
「ねぇ、靖友くん。大人になったら、二人でまたこの町に来たい」
「……あぁ、いいぜ」
靖友くんが私の手をぎゅっと握る。
『一番線に電車が参ります』
スピーカーからアナウンスが流れ、遠くから踏切警報機の音が聞こえてくる。もうすぐ、靖友くんとお別れだ。
「そうだ、これ」
別れの寸前であることを思い出した。バッグの中から靖友くんに借りっぱなしだったある物を取り出す。
「これは……」
「遅くなっちゃったけどアルバム。最後のページまでちゃんと埋めておいたよ」
「すっかり忘れてた」
アルバムを受け取る靖友くん。
電車が到着して、扉が開いた。
「じゃあ、私行くね」
「」
電車に乗ると、靖友くんに呼び止められた。
「困ったことがあったら絶対に連絡しろよ。すぐに駆けつけてやっから」
電車の扉が閉まる。靖友くんとガラス越しに見つめ合った時、電車が動き出した。
靖友くんの姿が見えなくなった頃、空いている席に座って、流れゆく景色を見つめた。
この町に来て、色んなことがあった。靖友くんに出会って、福富くんと新開くんに再会して、東堂くんたちとも出会って……。
これから先、私は色んな人に出会うのだろう。時には道に迷うことだってあるだろう。その時には高校生活の日々を思い出そう。そうすればおのずと前に進む勇気が出るはずだから。
遠くに、自転車に乗って平坦道を走っているライダーの集団が見えた。
高校生活で過ごした日々を思い出しながら、私は新しい日々に一歩踏み出した。