栄光のサクリファイス 125話

 桜の花びらが風に乗って舞い上がる。大好きな学校とは、今日をもってお別れだ。
 お世話になった先生や響子たちに別れのあいさつは済ませてきた。他に行きたい所といえば……。ふたつの場所が思い浮かんだ私は、校舎から近い場所に行くことにした。
 校庭の隅にある飼育小屋。最近色々と忙しかったからウサ吉に会うのは久しぶりだ。
 小屋の中に入ると、一人先客がいた。

「新開くん」
「おめさんもウサ吉に会いに来てくれたんだな」

 ウサ吉を抱いて立ち上がる新開くん。新開くんも私と同じこと考えてたみたいだ。
 ウサ吉の頭にそっと手を伸ばす。頭をなでられて気持ちよさそうなウサ吉に、新開くんの表情が緩む。

「この前、ウサ吉を連れていこうか迷ってるって話しただろ」
「うん」
「すっげー悩んだんだけど、連れていかないことにした。オレが大学に行っている間ウサ吉を一人にさせちまうし、ここならみんなが会いに来てくれるからウサ吉が寂しい思いをすることはないし。……けど、卒業後もちょくちょくここに来るよ。ウサ吉はオレの大切な家族だから」

 ウサ吉の額をなでる新開くん。

「最近思うんだ。人との出会いは宝物だって。に寿一に靖友に尽八……。色んなヤツに会って、色んなヤツに支えられてきた。もちろん、ウサ吉も一緒だ。ウサ吉と出会わなかったらオレは……大切なことを見落としたまま自転車に乗っていたと思う」

 新開くんが潤んだ瞳で、私に視線を向ける。

。長い間、オレに付き合ってくれてありがとう。大学に行ったらまた寿一と二人に戻っちまうけど、時々連絡するよ。オレにとって、おめさんは大切な仲間だ」
「……うん。私も連絡するよ。中学の時はいきなりメールなんて送ったら迷惑かなって思ってあんまり送らなかったけど、もう遠慮なんてしない」
「あぁ。約束だ」

 新開くんとウサ吉と一緒に過ごして、飼育小屋を後にする。
 次は私にとって一番思い入れのある場所に行こう。


 自転車部の部室に向かって歩いている最中、向こう側から歩いてくる猫を見かけた。靖友くんがいつもかわいがっている黒猫のノラスケだ。
 いつも威嚇されて全然寄ってきてくれなかったけれど、ノラスケに会えるのは今日で最後だし、さよならのあいさつをしておきたい。

「おいで」

 しゃがんで両方の手のひらを出して、ノラスケに声をかけてみる。ノラスケは立ち止まってじーっと私のことを見つめている。
 …………やっぱり、前に靖友くんに言われたとおり私は動物に好かれないタイプなのだろうか。なにも進展しない状況に焦っていると、ノラスケが歩き出した。少し角度を変えて私の横を通り、素通りするかと思えば、体をこすりつけてきた。
 正直、無視されると思ってたからびっくりだ。こういうときどうすればいいんだっけ? オロオロしていると、ノラスケが離れてしまった。

「ニャー」

 短く鳴いて去っていくノラスケ。……今度靖友くんに会ったら自慢しよう。ノラスケを見送った私は立ち上がり、部室に向かった。


 L字型の広い建物を見て、懐かしい気持ちになる。
 ここで私は多くの時間を過ごした。放課後の時間になればすぐに部室に向かい、夜、靖友くんが自主練習をする時も、こっそりここを使っていた。
 部活を引退してからは部室に足を運ぶ回数が減ってしまったけれど、久しぶりに家に帰ってきたような、そんな気分になる。
 最後に、一目だけでもいいから思い出の詰まった部室を見たい。こんな時間に、鍵が開いているとも思えないけど……。
 諦め半分で取ってをつかむと、ドアは簡単に開いた。そして――

さん!」
「ご卒業おめでとうございます!」

 クラッカーを持った自転車部の部員たちが私を出迎えた。
 あ、あれ……? 今日は自転車部でお祝いされるなんて話聞いてなかったんだけどな。呆然としていると、泉田くんと織田くんがにこにこした顔で前に出てきた。泉田くんが大きな花束を私に差し出す。

「改めてご卒業おめでとうございます、さん。これ、ボクたちからの花束です」
「あ、ありがとう泉田くん……。でも、どうしてここに来るなんてわかったの?」
「そんなの、誰にだってわかりますよ。さんが一番この部室に長くいたんですから」

 織田くんの言うとおり、私は誰よりもこの部室で長い時間を過ごした。
 マネージャーの仕事をこなしたり、メカニックの仕事を手伝ったり。夜には靖友くんの自主練習を手伝ったりもした。

「追い出しレースの時はどうしても福富さんたちが主役になってしまうので、今日はさんの門出を盛大にお祝いしようとみんなで計画したんです。……さん。今までありがとうございました。あなたのおかげでボクは、自転車に乗ることの楽しさに気づきました」

 私に向かって頭を下げる織田くん。

「ボクも、二年間ありがとうございました。インハイの時にもらった雄二くんたちが描いてくれた絵、今も部屋に飾っています」

 泉田くんが微笑んで言った。
 ……雄二くんたちか。懐かしい。彼らとはまたいつかどこかで会えるだろうか。懐かしい思い出がまたひとつ頭の中に浮かび上がる。

「応援してくれる雄二くんたちのためにも、ボクはもっともっと強くなります」
「今までありがとうございました! 部活やめようって思った時、温かい言葉をかけられて……オレがここにいるのはさんのおかげです」
「レースでさんの声援聞いた時、もう少し頑張ろうって思いました!」
「好きです、付き合ってください!」
「そ、それはその……」
「嘘です」
「え、あっ、ちょっと! 今告白したの誰!?」

 人がたくさんいて誰が冗談を言ったかわからない。顔を真っ赤にして怒ると、みんながどっと笑った。つられて私も笑って、笑いと一緒に涙が零れてしまった。
 今気づいたんだけど、中には部活を辞めた人もいる。わざわざ私にお礼を言うために、ここまで来てくれたんだ。
 そう思ったら涙がとまらなくなった。拭いても拭いても、涙がとめどなく溢れてくる。

 二年間、多くの部員を見てきた。靖友くんたちのようにどんどん成長もする人もいれば、なかなか実力が伸びず、スランプに陥っている人。レースで勝ち星を取って喜びの雄叫びを上げる人もいれば、怪我をして部を去っていく人など、色んな人がいた。
 私はみんなと違って戦う側の人間じゃない。思い詰めている人にどうやって言葉をかけたらいいか悩んだこともたくさんあったし、なにもできない自分を強く憎む日もあった。私が部活で頑張れたのはみんなのおかげだ。みんなが支えてくれたからこそ、私はここにいることができたんだ。

「……みんな、本当にありがとう。初めて運動部のマネージャーになったんだけど、いつもみんなの足引っ張ってないか不安だった。でも、みんなにそう言ってもらえるのなら、マネージャーになってよかった。……今日のことは絶対に忘れない。みんなも、これから嬉しいことや苦しいことがたくさんあるかもしれないけれど頑張って」

 部室での最後の時間をみんなと一緒に過ごす。今日は私、泣いてばっかりだ。


 部室を出た後、遠回りをして帰り道を歩く。靖友くんや響子と一緒に歩いた道、よく買い出しに行ったコンビニ……懐かしい場所を目にしては、寂しい気持ちになる。
 坂を上り、見晴らしのいい場所に行くと、私と同じ箱根学園の制服を着た金髪の男の子を見つけた。私から背を向けて、眼下に広がる景色を見ている。

「福富くん」

「こんなところでなにをやっているの?」
「少し……昔のことを思い出していた」

 目を細めて、ここから少し離れた場所にある自販機を見やる福富くん。

「一年の頃、ここでオレは荒北に会った。部活の練習中、そこの自販機で飲み物を買っていたらアイツに絡まれてな。オレの自転車と荒北の原付どっちが速いか、近くにある坂で勝負をしていた。……結果は、言わなくてもわかるな」
「下りは特に速く走れる自転車の勝ちだね」
「あぁ。その後荒北は自転車部の門戸を叩き、頂上まで上り詰めた。……誰にも言ったことはないが、オレは日に日に伸びていくアイツの成長を見るのが楽しかった。それがもう見れないと思うと、少し寂しい気持ちになる」

 いつの日か靖友くんは言っていた。あの時福チャンに会わなかったら、今のオレは学校を辞めてどうしようもないヤツになっていたのかもしれないと。
 時々靖友くんの面倒を見る福富くんに、彼がこんなことをするなんて珍しいと思ってた時があったけれど、私と同じことを考えていたんだ。
 小さく笑う福富くん。これから福富くんはどんな道を歩くのだろう。

「子どもの頃教えてくれたよね。プロのロードレーサーになるんだって」
「あぁ。それは今も変わらない」
「いつか、テレビで福富くんを見る日が来るのかな」

 子どもの頃は隣の家にいたのに、だんだん遠くなっていく幼なじみ。そう考えるとちょっぴり寂しいけれど、それは福富くんが夢に向かって近づきつつある証拠なんだ。

「私、応援してるよ。福富くんの初めてのファンは私だから」

 福富くんが呆然とした顔をした後、くすっと吹き出した。

「そうだな。よく考えれば、お前はそういう立場になるのか。……いつも東堂や新開がファンからの応援を受けるところを見てきたが、自分が受けるとなると照れくさく感じるな」

 ほのかに頬を赤らめる福富くん。ほてった頬を冷ますように、柔らかな風が吹いた。
 風になびく髪を手で抑える。風がやんだ時、福富くんを見ると、彼はいつもの表情に戻っていた。

「じゃあな、。……またいつか」
「……うん。元気で」

 福富くんと反対側の帰路を歩く。
 こうして、卒業式の一日は終わった。