福富くんたちと別れて教室に戻る。次の授業まで少し時間があるけれど、さっきクラスの人に教えてもらった情報を頼りに授業の予習をしなきゃ。二度目の転校だから慣れっこだけど、授業は転校生を待ってくれない。一日でも早く内容に追いついて、授業を受けられるようにならないと……。

「……おい」

 机の中から現代文の教科書を取り出す。たしか今芥川龍之介の羅生門やってるんだっけ。

「おい」

 この前は全文を一通り読んだそうだから、授業が始まる前に目を通しておこう。

「…………おい」

 ……ん? これなんて読むんだろう。ちょっと辞書で調べてみようかな。

「おい!」
「はっ、はい!」

 後ろから声をかけられて、驚いて大声で返事をしてしまった。
 後ろを振り返ると、机の上で頬づえをついた荒北くん。眉間にしわを寄せているけれど、やっぱりなにか悪いことしたかな……?

「オマエ、福チャンのダチか?」
「ふくちゃん……?」

 ふくちゃんって誰のことだろう? 疑問符を浮かべていると、荒北くんがすぐに言い直した。

「福富のコト」
「あぁ、福富くんね。うん、友達だけど……」
「昨日、オレがサイクリングロードにいたことは言うなよ」
「なんで?」
「なんでもだ」

 そんなに秘密にしたいのか、荒北くんは念を押すようにキッとにらんだ。

「私からも一個聞きたいんだけど……」
「なんだヨ」
「私、なにか悪いことした?」
「ハァ?」
「だって、朝のホームルームの時私をにらんでたから……」

 思ってもみない質問だったのか、荒北くんがぱちぱちと瞬きをする。すぐに目を眇めて、

「してねーよ。午前中のあれはいきなりオレに話しかけたらクラスのヤツらが不審がるだろ? だから視線で釘刺した」

 だからあの時にらんだのか……。新開くんから口が悪い人だって聞いてたけど、こんなにぶっきらぼうな人は初めてだ。……やっぱり、これから先、荒北くんとうまくやっていけるのかな。

「……荒北靖友」

 荒北くんがぼそっと自分の名前を名乗る。

「私は――」
「知ってらぁ。朝黒板に書いてただろ」
「そ、そうだね……」

 突然周囲が慌ただしくなった。前の方を見れば、現代文の先生が教室に入ってきた。クラスメイトたちが自分の席に戻っていくのに合わせて、私も体の向きを変える。
 その後始まった授業で一生懸命ノートをとっている最中、後ろから荒北くんのいびきが聞こえてきた。


 転校初日の一日はあっという間に終わった。正門を出て、桜の花びらが舞う帰路を歩く。
 学校から二十分ほど歩いた所に私の家がある。本当は寮がよかったんだけど、新入生が入ってきたばかりのため寮は満員で、近くの一軒家を借りて一人暮らしするしか選択肢がなかった。
 今日のごはんはなににしよう。晩ごはんの献立を考えていると、後ろから自転車の走る音が聞こえてきた。
 私の横を通り過ぎた自転車を見ると、チェレステカラーのビアンキの自転車。黒髪の男の人は間違いない。

「荒北くんっ!」

 荒北くんが急に止まって、目を眇めてこちらに振り返る。いけない、何の用もないのに呼び止めちゃった。

「ンだよ、テメーか。何の用だ!?」

 案の定怒らせてしまった……。慌てて話題を考える。

「えっと、部活の練習中?」
「たりめーだ! テメーと話してるほどヒマじゃねーぞ」

 それはなおさら悪いことをしてしまった。
 怒っている荒北くんから目をそらすと、彼の乗っている自転車に目が留まった。そういえば、荒北くんに聞きたいことがある。

「その自転車、福富くんからもらったの?」
「なんで福チャンのだってわかるんだ」
「中学の時、福富くんがその自転車によく乗ってたから」

 言い当てたことがそんなに意外だったのか、荒北くんの目が大きく見開く。

「……いいや。この自転車は福チャンに借りてンだよ」

 荒北くんがビアンキに視線を落とし、優しげに目を細めた。
 中学の頃、福富くんはその自転車に乗って、たくさんの大会で多くの勝利を勝ち取ってきた。その愛車を彼に貸すということは、荒北くんになにかを見い出したのだろうか――。

「荒北ー! なにをサボっているのだ!」
「げっ、東堂。ウザいのが来た」

 遠くから聞こえた男の人の声に、荒北くんが嫌そうな顔をする。
 後ろを振り返ると、白の自転車に乗っているカチューシャを着けた男の人。私と荒北くんの前で停止すると、荒北くんに向かって人さし指をさした。

「規定時間内にコースを周回しなければならないというのに余裕だな! しかも通りがかりの女生徒を捕まえて絡んでいる!」
「絡んでねーよ。逆に絡まれたんだっつーの」
「ん……? 君、福富の幼なじみのさんだな?」
「はっ、はい」

 突然話を振られてびっくりした。福富くんはこの人とも親しいのかな? 近くで見ると整った顔の男の人だ。そのことに気づいたらなんだか胸がドキドキしてきたような……。

「オレは東堂尽八。登れる上にトークも切れる! さらにこの美形! 天はオレに三物を与えた!! 箱根の山神天才クライマー東堂と覚えておくがいいっ!」

 ……きれいな人だと思ったけれど一部追加。おもしろい人だ。
 荒北くんがそっとペダルを踏んで走り出す。

「東堂、先行くぞ」
「あっ、待て荒北! さん、これからよろしくなー!」

 東堂くんも走り出して、荒北くんの背中を追いかける。
 遠くで二人の言い合う声が聞こえる。仲がいいなぁ。おもわずくすりと笑みがこぼれてしまった。
 荒北くんに福富くん、新開くんに東堂くん。彼らがいる部活はにぎやかできっと楽しいだろう。
 私が自転車部のマネージャーかぁ。マネージャーをやるのは初めてだけど、みんながいるのなら頑張れそうだ。
 桜の花びらが舞う帰路を歩きながら、そんなことを考えた。