17

 廊下の壁に背をつけて、体調がよくなるのを待つ。真波くんが来た辺りで緊張が解けたのか、今になって身体がだるい。

「……大丈夫か?」

 リビングから出てきた荒北くんが声をかける。

「大丈夫だよ」

 頭はまだぼんやりとしてるけれど、意地を張って一歩歩く。
 ――ぐらり。視界が揺れて前のめりに倒れる。とっさに目を瞑るけれど痛みはない。代わりに、人肌のような柔らかい感触がして――

「ごっ、ごめん!」

 目を開けて荒北くんが抱きとめてくれたことに気がつく。

「バァカ。意地張ってんじゃねーよ。今日はこれ以上動くな、とっとと休め」

 私から離れた荒北くんが周囲を見渡す。

「お前の部屋はどこだ?」
「二階の、すぐ近くの部屋……」

 階段を指で示す。いつも上り下りしている階段だけど、今日の体調だと上るだけでも結構つらい。
 荒北くんは「めんどくせェ位置にあるな」と言うと、背中をこちらに向けて屈み、

「………………乗れ」

 えっ? 頭の中で疑問符が浮かぶ。

「背中に乗れっつってんだよ! 早く乗らねェとぶっとばすぞ!!」
「わ、わかった」

 荒北くんの背中に急いで覆いかぶさると、私の膝裏を持って立ち上がった。一気に高くなった視点に怖くなって、腕に力がこもる。

「バカ、しがみつくなっ」
「そう言われたって怖いし、落ちそうだし……!」
「あんまり抱きつくと落とすからな」

 荒北くんが一歩一歩ゆっくりと歩き、階段を慎重に上っていく。
 ワイシャツ越しの背中が温かい。細めの体だなって思ったことがあるけれど、こうやって間近で見ると男の人らしい大きな背中だ。
 荒北くんの手が太ももに触れている。普段誰も触らない場所に触れられていると思うと、一気に顔が熱くなった。
 ささいな振動が怖くて、また腕に力が入る。荒北くんはなにも言わないまま、階段を上り続ける。
 ふと、胸の鼓動がドキドキと大きく高鳴っていることに気がついた。これも風邪のせいなのだろうか。それとも、荒北くんにおぶられているから――?

「お前の部屋、こっちでいいのか?」
「え、あぁ、うんっ」

 荒北くんの声で我に返り、つい格好悪い返事をしてしまった。開けっ放しのドアの先は私の部屋だ。

「まっ、待って! 私の部屋、散らかってるかもしれない!」

 ここまで来て急に自分の部屋の散らかり具合が気になった。ベッドの上の布団はぐちゃぐちゃだし、昨日は疲れていたので床に脱ぎ散らかした制服がある。

「気にしねェよ。オレの部屋よりはきれいだ。……たぶん」

 フォローになっているのかよくわからない台詞を言いながら荒北くんは部屋に入り、ベッドの近くまで歩くと私を下ろした。

「福チャンたちにはオレから言っとく。後の心配はしなくていいからお前は休め」
「ありがとう……」
「風邪に一番いいのは休むことなんだからな。あんまりひどいようだったら病院行け」

 荒北くんはくるりと背中を向けて、

「それに……今日部活休みだったからいいけどよ。お前が抜けると色々と面倒なんだ」
「うん。頑張って早く治すよ」
「あぁ。早く元気になれよ」

 荒北くんが静かにドアを閉めて、去っていった。
 布団の中に入り横向きになる。荒北くんの背中のぬくもりが、まだ残っている気がした。


 目が覚めると、時刻は九時。喉の渇きを覚えベッドから下りる。
 まだほんのりと熱を感じるけれどだいぶ楽になった。階段を下りてリビングに向かうと、明かりがついていることに気づく。
 荒北くんたちまだいるのかな……? 寮の門限のことを考えながらリビングに入ると、中にいたのは真波くん一人。ソファで横になってすやすやと寝息を立てている。
 気持ちよさそうな寝顔にできればこのままそっとしておきたいのだけれど、なかなか帰ってこない真波くんにご両親が心配するかもしれない。肩を揺すると真波くんはゆっくりと目を開けた。

「あ……さん。おはようございますー」
「おはよう真波くん。もう九時だけど大丈夫?」
「えっ、もうそんな時間? そろそろ家に帰らなきゃ」

 真波くんが目をこすり、ソファから立ち上がる。

「自転車部の皆さんが帰る時、家の鍵はどうするんだっていう話になって。さんの目が覚めるまでオレがいることになったんです」

 真波くんが大きく伸びをする。そういえば家の鍵のことを全く考えていなかった。真波くんには迷惑をかけてしまった。

「ゴメンね、迷惑かけちゃって」
「大丈夫ですよー。すぐ近くですし。それに、今日は自転車部の人たちからたくさんお話が聞けました。特にあの東堂さんっていう人、クライマーなんですね! いつか一緒に登ってみたいなぁ……!」

 前に私が思ったとおり、真波くんと東堂くんは相性がいいみたいだ。

「箱根学園、頑張って目指してみようかな」
「うん、是非おいで」
「じゃあ、暇なときでいいんで勉強教えてください。オレどうしても文系は苦手で……」
「了解。喜んで教えるよ」

 真波くんを玄関まで見送ると、雨があがっていることに気がついた。

「じゃ、オレ帰ります。おやすみなさい。あと、お大事に」
「気をつけてね。おやすみ」

 玄関のドアが静かに閉まる。夕方はあんなににぎやかだったのに、ひとりきりになった今静かになってしまった。いつものことなのに、ちょっとだけ寂しいのはなぜだろう。
 早く風邪を治して学校に行こう。インハイまであと一ヶ月。ここで長く休むわけにはいかない。