18

「野球肘だね」

 診察室の中、医者が撮ったばかりのレントゲン写真を見ながら言った。

「最低でも三ヶ月、ボールは投げちゃダメだ」
「三ヶ月って……!」

 荒北の顔が青ざめる。二週間後には県大会を控えている。

「一日だけ投げても……」
「なにを言ってるんだ。早期発見だったからいいけれど、これ以上投げたらもっと悪化するよ。試合含め、ちゃんと療養すること。じゃないと、二度とボールが投げられなくなるよ」

 残酷な医者の言葉に、荒北は絶句する。その後の医者の話は半分も覚えていないまま、病院を後にした。

 子どもの頃から野球が好きで、現在に至るまで野球を続けてきた。中一の時は新人賞を獲って、今度の県大会で華々しくデビューするつもりだったのだが――野球肘になって、計画は泡と化した。
 県大会で活躍すれば、高校スカウトが期待できる。結果によっては野球名門校の横浜綾瀬からスカウトされ、プロ野球選手の夢にぐんと近くなるだろう。なのに、よりによってこんな時期に、肘を壊して出場することができなくなってしまった。
 オレは一体、これからどうすればいいんだ。荒北が迷いかけた時だった。

「靖友」

 住宅街の歩道で息を切らしたバッテリーに会った。
 コイツにはなんて言おう。荒北は一瞬涙ぐみ、涙をこらえるように唇を結び、努めて平静に結果を伝える。

「ワリィ、県大会出られねェ。肘の痛み、野球肘だった」

 南雲の目が大きく見開く。
 昨日の練習試合、南雲は肘の痛みに耐える荒北を見た。南雲の想像した最悪の結果が現実となってしまったのだ――。

「……そっか」

 荒北と共に、県大会に出場することがかなわなくなった。
 残酷な現実に南雲もまた動揺を隠せない。なぜなら彼にとっても大事な試合だったからだ。

「でも、治療すれば治るんだよね。また次の大会で頑張ろう」

 また次があるさ。胸の内の不安を無理やり追い払うように、南雲は明るく笑った。

「こんなところで君は終わらないだろう?」
「……あぁ。終わるもんか」

 まだ、胸の奥にある不安は消えない。……だが、こんなところで夢を諦めるものか。
 南雲の言葉に荒北は自身を奮い立たせ、拳を握る。

「オレのいない間、練習サボんなよ。復活したらすぐ試合に出るからな」
「はいはい」

 家に向かって歩く荒北の隣に南雲が並ぶ。

「……靖友。気づかなくてゴメンね」

 バッテリーの小さな声に、荒北はまたしても涙ぐんだ。


 その後荒北は医者の言うとおりに従って日々を過ごし、三ヶ月後には投球の許可を得た。
 すぐに野球部に戻り、練習に励むが――

「ナイス、靖友」

 南雲が笑ってボールを投げ返す。
 それをグローブで受け止める荒北の顔色はよくない。野球部に復帰してから、以前のようにボールを投げることができないからだ。
 力強い球威が自慢で、周囲からの期待も高かった。だが、肘の故障をきっかけに、自慢の球威は見る影もなくなった。
 これはただのブランクだ。地道に練習を積み重ねていれば、きっと球威は戻る。
 荒北はそう信じて、南雲と投球練習を続ける。「頼れるエースはいなくなった」――最近、部員のそんなささやきを耳にしてしまったけれど。それでも彼は諦めずに練習を続けた。

「南雲ー、オレと投球練習しようぜー」

 ボールを持った同学年の古館が南雲に声をかける。

「靖友と練習が終わったらね」
「そんなヤツ放っておけよ」
「アァ?」

 聞き捨てならない言葉に、荒北は古館をにらむ。古館はニヤリと笑い、

「荒北ァ。自覚ないみたいだから言ってやるけど、お前は終わったんだよ。肘壊してから前みたいな投球できないの気づいてんだろ? お前がもうマウンドに立つことはないんだよ」

 ずきりと、荒北の心が軋む。

「テメェッ――!」
「待って、靖友っ!」

 古館を殴ろうとする荒北を、南雲が羽交い締めにして止める。
 荒北が怒りをむき出しにして、空に向かってほえる。

「野球なんて辞めてやらぁっ!! 球遊びじゃねェかこんなモンッッ!!」


 三日連続で野球部の練習をサボった放課後。バッグを携えて階段を下りている途中、会いたくない人物に出会ってしまった。

「おい、荒北」

 体育教師の佐々部が呼び止める。佐々部は体育教師でもあり、野球部の顧問も務めている。

「部活休むのならちゃんと連絡しろ」
「うっせ。オレにはもう関係ねーんだよ」
「なんだその言葉使いは。先生に対して――」
「なにいまさら先公ヅラしてんだよっ!! 肘の故障に気づかなかったくせに、偉そうなこと言うな!!」

 ポケットに入れていた退部届けを佐々部に投げつける。
 佐々部が怯んでいる隙に、荒北がすばやく通り抜けた。

「待て、荒北っ!!」

 上から佐々部が叫ぶも、荒北は早足で階段を駆け下りる。
 一階に下りた瞬間、またもや会いたくない人物と出会ってしまった。

「靖友……」

 三日ぶりに見たバッテリーが呆然と立っている。
 荒北は南雲にかける言葉が見当たらず、黙って横を通り抜けた。

「靖友が野球部に戻ってくるの、待ってるから――!」

 しかし荒北は、その後野球部に戻ることはなかった。


 雨が地を打つ音で、荒北はゆっくりと目を開いた。
 視界に飛び込んだのは部屋の天井。上半身を起こし、深いため息をつく。
 また、野球部の夢を見た。前にも思ったように、もう野球に未練などないのだが……なぜ今、夢に出てくるのだろうか。
 ベッドから下りて、カーテンを開ける。今日の天気も大雨だ。昨日見舞いに行ったは元気になっただろうか。