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 下り坂を歩いていると、向こうから学ランを着た男の子が自転車に乗って坂を登っているのが見えた。なぜか口が動いている。耳を澄ますと、歌を歌いながら登っているようだ。
 景色に視線を戻し、違和感に気づいてもう一度男の子を見る。よほどのクライマーでないと攻略できないであろう急勾配の坂。こんな勾配の坂を、男の子はダンシングもせずにママチャリで登っている――!
 男の子は私に気がつくと顔を赤らめ、ふらりと車体が傾く。大きな音を立てて落車した。

「だ、大丈夫!?」

 駆け寄って男の子の状態を確かめる。
 眼鏡をかけた小柄な男の子。男の子は尻もちをついて、二、三度大きく瞬きをすると視界に私を捉えた。

「はい、大丈夫です……。転ぶことには慣れているので」

 くりっとした大きな目で私を見上げる。真波くんとは違ったかわいさを持った男の子だ。

「あの……もしかして、総北の方ですか?」
「ううん。私は箱根学園。神奈川にある私立の学校なんだけど……知らないよね」

 予想どおり、男の子は首をかしげている。

「君、中学生?」
「はい。今度学校見学で出さなきゃいけない書類があって、自転車でここまで来たんですけど……」
「自転車……ううん、ロードレースやロードバイクの経験ってある?」
「えっ!? ろーどれーすってマラソンかなにかの類ですか!? ボク、運動は全然ダメで……!」

 こんなことを聞かれるとは思わなかったのか、男の子が慌てて答えた。
 アスファルトの上に倒れたママチャリを見る。急な勾配の坂を容易に走れるようになにか工夫がしてあるのかと思ったが、そのようなパーツは全く見当たらない。
 何の変哲もないママチャリでこの坂を登っているということはすごいことだ……! 自転車部に入れば、クライマーとして活躍することは間違いないだろう。

「……あの、ボクのことずっと見てましたけど、もしかして……」

 やっぱり、自転車の経験があるのだろうか。そう思って覚悟していたら――

「ラブ☆ヒメ好きなんですか!?」
「らぶ……ひめ……?」

 頭の中で疑問符が浮かぶ。どこかで聞いたことあるような……。

「ボクのことじーっと見てたんでもしかして……って思ったんですけど、好きなわけじゃなかったんですね。ラブ☆ヒメっていうのは今放映中のアニメで、さっきその主題歌を歌っていたんですけど……」

 男の子が恥ずかしそうに顔を赤らめる。
 ……そうだ、思い出した。最近クラスの田島くんが、「ラブ☆ヒメっていうアニメが熱い!」ってクラスメイトに力説してたような……。たしか、魔法少女の女の子が主人公のアニメだったっけ。それ以上は覚えてないや。
 男の子が倒れた自転車を見やる。なにかを思い出したのか、「あ、いけない!!」と声を上げた。

「そろそろ学校に行かないと……!」
「引き止めちゃってゴメン」
「いえ、こちらこそすみません。じゃあ、ボクはこれで」

 男の子が自転車を起こし、サドルに跨る。私に一礼するとペダルを踏み、再び坂を登り始めた。
 この男の子は総北高校を志望しているけれど、もし私が声をかけたら、箱学に来てくれるだろうか。
 遠くなる背中に声をかけようとしてやめた。千葉と神奈川じゃ距離が遠すぎる。ここでこんなことを言っても、男の子を困らせるだけだろう。
 自転車部に来たらエースの仲間入り間違いないと思うんだけどな。名残惜しく思いながら、下り坂の散歩を再開した。


 散歩を終えて正門前に戻ってきたけれど、いまだに福富くんからの連絡はない。さっきメールを送ってみたものの、返事はこないままだ。
 不安になって正門をくぐり、敷地内に入る。

「……あ!」

 部室に着く前に、偶然にも巻島くんとばったり会ってしまった。

「あっ、あの……」
「あっ、あの……」

 言うタイミングが重なって、二重奏になってしまった。前回会ったのが二日目の表彰式の後だったのでなんだか気まずい……。
 先にどうぞと目配せをすると、巻島くんはうなずいて口を開いた。

「東堂から電話で福富が来てるって聞いたけど、まさかお前まで来てるなんて」
「色々あって……。東堂くんには内緒でお願い」
「ん? まぁいいショ。今金城と福富は外で走ってるっショ。しばらくは帰ってこないと思うぜ」
「そっか……」

 道理で遅いわけだ。散歩には飽きたし、これからどうしたものか。

「その……なんだ。ヒマならちょっと付き合ってほしいっショ」

 階段の段差に巻島くんと二人で座り、部活動をしている生徒たちを見る。箱学より狭いグラウンドの中で、ラグビー部が練習試合をして、手前では陸上部が走り込みをしている。

「あの……さ、田所っちのこと、悪く思わないでくれよ。あの時福富を殴って驚いただろうけど、田所っちは金城のことを思ってやったっショ」
「……うん」
「金城、あれから来年は箱学に負けないって意気込んでるっショ。だから、来年は絶対に負けない。山岳賞はオレが頂くっショ」
「そんなの、東堂くんが許さないよ。山神って異名がつくくらいの実力の持ち主だし」
「スプリント賞は田所っちが全部頂き」
「もうすぐスプリンターの新開くんが復帰予定なんだ。だからスプリント賞も渡さない」
「最後に金城が一位を獲るっショ。アイツは執念深いぞ」
「こっちにはエースの福富くんと、アシストの荒北くんがいるよ。なおさら渡さない」

 巻島くんと顔を見合わせて、同時に大きく笑った。さっきまでなにを話せばいいのか迷っていたけど、巻島くんが変なことを言うからこっちも負けるまいって思って……。子どもの言い合いみたいになってしまった。
 巻島くんが笑い涙を手の甲で拭う。

「インターハイの後、東堂からが福富の幼なじみだって聞いたっショ……。落ち込んでると思ってたけど、心配はいらなかったみたいだな」
「うん。私、もっと強くなるって決めたんだ。もう福富くんみたいな思いは誰にもさせない」

 あの日ボロボロになった幼なじみを見て、なにもしなかった自分を強く悔やんだ。今まで私がやってきたことは全部自己満足なんじゃないかって思えてきて、なにもかも疑わしくなってしまったけれど。
 私が後ろ向きになっている間に、今も来年のインハイを目指して練習を頑張っている部員たちがいる。そのことに気がつくと、最早立ち止まっている暇はないって思って……私は、前に進むことを決めた。

みたいなマネージャー、ウチに欲しかったっショ」

 巻島くんの言葉に、総北高校に入った自分を想像してみる。もしここに来たらそれはそれで楽しそうだけど、箱学で会った人には必然的に会えなくなる。
 たとえば……と思い、真っ先に荒北くんの顔が浮かぶ。

「あれ……?」

 違和感に気づき、小さな声を漏らす。
 最近、時々感じるよくわからない違和感。何気ないときにふと、荒北くんのことを考えている時間が多いような。まれに甘酸っぱく感じたり、胸が締めつけられるような思いをしたりすることもある。

「どうしたっショ?」

 巻島くんが首をかしげた時だった。ポケットの中にある携帯が振動する。確認すると、福富くんからメールが返ってきた。

「そろそろお開きだな。次会うのはレースかインハイか、どっちかわからないけれど……お互いに頑張ろうぜ。東堂によろしく伝えてくれっショ」
「うん。巻島くんも元気でね」