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 総北に行った日を境に福富くんが大きく変わった。主将としての威厳を備え、周りに目を向けるようになり、なにか判断に迷うようなことがあれば副将の東堂くんや私などに意見を尋ねるようになった。主将の心意気が伝播したのか、部活全体の士気も大きく上がった。
 福富くんが変わり、新開くんが自転車部に戻ってくるし、東堂くんは相変わらず強いし……。非常に幸先がいいように思うのだが、ひとつだけ気がかりなことがある。

「うーん……なんでだろう」

 ローラー練習に励んでいる荒北くんのすぐ近くでノートを見る。最近の記録を見返すと、インハイ後から全体的に右肩下がりで正直調子が悪い。前まではすこぶる調子がよかったから、その反動で今は停滞期にでも入っているのだろうか……。荒北くん自身、悩んでいるようだったので自主練習に付き合っている今結果が出ない原因を考えていた。
 データを見返しても原因がわからない。荒北くんに色々尋ねてみることにする。

「最近道の上を走って、前にはなかった違和感とかある?」
「違和感? そうだな……。なんか、ペダルが重いって思うときがしょっちゅうある」

 ペダルの回転数を緩めず、荒北くんが言った。

「オーバーワークかな? 故障の予兆だったりして……」
「故障しねェように休むときは休むし、二度も同じことは繰り返さねーよ」

「二度も」って以前、故障の経験があったのだろうか。聞こうとすると荒北くんの言葉が続く。

「寝不足ってワケじゃねェし……」
「悩み事があるとか」
「……あー、まぁ……心当たりはあるなァ」

 歯切れが悪い言葉。もしかしたらそれが不調の原因なのだろうか。

「たとえば……?」
「前にケンカ別れしたヤツの話覚えてるか? そいつとインハイでばったり会ったんだけどよ……オレとケンカしたこと、なかったことにしてんのか忘れてるのか知らねーけど……なにもなかったかのように振る舞いやがった」

 荒北くんの表情が曇る。前に祭の夜に見た悲しそうな顔を思い出して、きゅっと胸が締めつけられる。

「その時そいつと連絡先交換して、昨日、空いてる日に遊ぶぞって誘われたんだけど……なんか会う気になれねーんだよなァ」

 ……あれ、その人ってもしかして……。
 頭に嫌な予想がよぎって、深く考えるよりも先に口に出る。

「いまさらだけど……その人って、荒北くんの彼女?」

 荒北くんはペダルを回す足を止めて、ものすごくあきれた表情で私を見た。もしかして当たり――

「バァカ! 違ェよ! 男のダチに決まってンだろ!! 第一、オレに構う物好きの女オメェしかいねーし!!」

 一気にまくし立てて肩を上下させた。少し恥ずかしいような、うれしいような……。よくわからない感情がこみ上げてきて、反応に困っていると

「だ・か・ら・二度とンな馬鹿なこと考えるなよっ!」

 荒北くんは大声で釘を刺すと、ペダルに足を置いてローラー練習を再開した。そんなに怒ることだったかな……?
 さっきの話をもう少し詳しく聞きたかったんだけど、荒北くんはなぜか怒っていてとても聞ける雰囲気ではない。また今度詳しく話を聞こう……。そう思いながら再びノートを見る。

 あれこれ考えてみたものの、結局不調の原因はわからないままだ。クールダウンを終えた荒北くんが自転車から降りる。

「お疲れ様」

 タオルを差し出すと、荒北くんは「サンキュ」と言ってタオルを受け取った。顔には疲労の色が見える。

「大丈夫? なんだか顔色が悪いけれど……」
「大したことねェよ、こんくらい――」

 荒北くんの体がぐらりと揺れる。彼の体を抱きとめて、倒れるのを防ぐ。
 抱きとめた体からかなり高い体温を感じた。合宿の時に倒れた福富くんが頭によぎり、さらに不安になる。

「荒北くん……」

 荒北くんから離れて彼の顔を見る。荒北くんは弱々しく笑って、

「ローラーで飛ばしすぎただけだ。横になりゃ、すぐに落ち着くだろうさ」
「本当に?」
「あぁ。だからそんな顔すんな。が思ってるほどオレヤワじゃねェし」


 ベンチで仰向けに寝ている荒北くんの額に濡れタオルを乗せると、荒北くんが目を開けた。

「……お前、先に帰れっつったろ」
「荒北くんのこと放って帰れないよ。元気になるまで私もここにいる」
「前から思ってたんだけど、オマエ本当お人好しチャンだよな。誰彼かまわず優しくしてっと、いつか痛い目見るぞ」

 言うわりには優しく笑って、濡れタオルに手を触れている。
 荒北くんと私だけしかいないふたりきりの部室。外からは鈴虫の鳴き声が聞こえるようになって、やっと今月が九月であることを実感できるようになった。

「ローラーでぶっ倒れるの久しぶりだな」
「……荒北くん、倒れたことあったっけ?」
「お前が転校する前の話だよ。オレが入部したばかりの頃、福チャンにローラーに一日三時間乗れって言われた。最初はローラーが終わるたびにぶっ倒れて、初めて出たレースでも福チャンに追いつこうと全力で走ってぶっ倒れて……。今になって思うと、よくここまで来たなって思う」

 荒北くんが懐かしむように目を細める。

「荒北くんって、なんで自転車に乗るようになったの?」
「そういうお前はどうなんだよ」
「私は……小さい頃、福富くんが自転車に乗っているのを見かけて、どうして形の変わった自転車に乗ってるんだろうって興味が湧いて乗り始めたんだ。……荒北くんは?」
「オレも似たようなモンだ。福チャンに会って、初めてロードに乗った」

 時期は大きく違うけれど、私も荒北くんも、福富くんをきっかけに自転車に乗った。まさか荒北くんも同じだったなんて。意外な共通点を見つけて、少しうれしくなる。
 もし福富くんがいなければ、自転車部に入ることも、ロードバイクに乗ることすらもなかったかもしれない。そう思うと福富くんって、私と荒北くんにロードバイクに乗るきっかけをくれた大きな存在だ。

「そっか……同じだね」
「あぁ。同じだ」

 優しげな声で相づちを打って、荒北くんは目を閉じた。
 部室がしんと静まり返る。スツールに座って自転車雑誌を広げ、荒北くんが起きるまで雑誌を読んで時間をつぶすことにした。


 睡魔が襲いうとうとしかけた時、肩を叩かれる感触がした。肩を叩いたのは荒北くんだった。

「もう大丈夫?」
「とりあえずはな。……とっとと帰るぞ」
「うん」

 荒北くんと一緒に部室を出て、しばらく無言で歩く。分かれ道に着いた時、荒北くんに向き直る。

「じゃあ荒北くん、また明日」
「あぁ、また明日」

 踵を返し、まっすぐ帰ろうとすると「ちょっと待て」と後ろから荒北くんに呼び止められた。
 振り返ると、なにか言いたいことがあるのかこちらを見据えている。

「別に引き止めて言うことでもないケド……ありがとよ」
「うん」

 荒北くんの言葉に微笑し、もう一度正門に向かって歩き出す。
 不調の原因は結局何だったんだろう。さっきは真面目に悩んでいたけれど、荒北くんを見る限り元気そうだし、気に留めることでもないかなと思い始めてきた。
 これはきっと、ただのスランプだ。根気よく練習を続けていれば、いつかきっと抜け出せるはずだ。
 ぼんやりと考え事をしながら夜道を一人で歩く。空を見上げると、雲の切れ間から月が見え隠れしていた。