栄光のサクリファイス 95話

 先頭を走る福富たちまであともう少しでたどり着く。今負けじと走っている荒北ももうすぐ力尽きるだろう。
 荒北さえ振り切ってしまえば後は簡単だ。いくら福富たちが強くとも、あちらは二人、こちらは六人。空気抵抗に勝るものはない!
 待宮が勝利を予感し、唇を舐める。
 表彰台に立った時には、無様に立ち尽くしている箱学に向かって笑ってやろう。そしてこう言うのだ。地元のインハイで負けた気分はどんな気持ちじゃあ!?!?
 インハイで優勝すれば、一気に有名人になるだろう。女にモテて、周りからもちやほやされて……。なにか大事なことを忘れているような気がするのだが、そんな瑣末事はどうでもいい!
 さぁ落ちろ荒北!! お前の出番はここで終わりじゃあ!!
 待宮がペダルの回転数を上げる。荒北は苦しそうな顔をしながら必死に喰らいつく。
 あぁ、あともう少し! もう少しでたどり着く!! まさかこんなに簡単に勝負がつくなんて思いもしなかった!

「敵じゃないなァ、今年の箱学は。……ひっくり返してやるんじゃ。去年のあの日を……第二ステージのあの痛みを――今ここで!!」

 毎晩毎晩夢にうなされながら必死に練習してきた!!
 いつかインハイの表彰式で、絶望する箱学たちを高いところから見下ろすことを目指して強くなった!! この復讐は誰にも邪魔させない!!

 ――いつか、部員の誰かが言った。

「今年は惜しかったけど仕方ないよなぁ。箱学には誰も勝てねェよ」

 それも、今日で終わりだ。これからは呉南が新の王者になる。

 ――いつか、箱学の誰かが言った。

「気ィつけろよ。オレたちを誰だと思ってるんだ!」

 お前らなんか豪華な玉座より地に這いつくばっている方がお似合いだ。水色のサイクルジャージはいつ見ても反吐が出る。

 ――いつか、福富が言った。

「それはできない。オレにはやることがある」

 お前のせいで!! お前のせいで!! 第二ステージの優勝を取ることができなかった!!!!
 箱学なんかに優勝を取らせるものか!! 今年のインハイで勝つのは呉南だ!!!!

 旗二本分まであともう少し。
 荒北を蹴落とそうと、ペダルを踏もうとした時。
 ――空から鳥の鳴き声がした。
 一瞬だけ心を奪われて、すぐに我に返る。
 そして、
 隣を見ると荒北は、
 不敵な笑みを浮かべていた――。


「ん、んん……」

 まぶしい光を顔に浴びて、待宮栄吉が目を開ける。
 ドラマに出てきそうな立派な旅館の一室。そういえば昨日東堂の手引でここに泊まったんだっけ……。ぼんやりと昨日の出来事を思い出して、さっきから気になっている違和感に視線を向ける。
 誰かが隣で寝ているような……。ここは待宮一人だけの部屋だったはずだが……。
 布団をめくると、中年の女性が待宮に添い寝をしていた。たしかこの女は仲居の村上といったような……。
 待宮と村上の視線が交わる。待宮より先に起きていた村上が片目を瞑る。

「おはようございます、ご主人様☆」
「ぎゃあああああああ!!!!」

 ◆

 放課後、荒北くんと一緒に図書室に向かっている最中、すれ違いそうになった教頭に声をかけられた。

「あら、これから受験勉強?」
「はい」
「頑張りなさい」

 教頭がにっこりと笑い、その場を去っていく。優雅に歩く教頭先生の背中をじっと見つめる。
 この前も荒北くんと一緒にいる時に声をかけてくれたけれど、もしかして……。

「後藤のヤツ、やけに上機嫌だな」
「荒北くんのことが気になってるんだよ」
「ア? なに言ってんだ、
「教頭先生年上だしなぁ。大人の魅力にはかなわないや」
「し、知らねーヨそんなの! オレはその、のことだけしか見てない――っておいコラッ!! 逃げんなっ!!」

 顔を真っ赤にして怒る荒北くんから笑いながら逃げて、廊下を走る。その時、

「わっ」
「うおっ!」

 廊下の角で田島くんとぶつかりそうになった。田島くんが床に尻もちをつく。

「ご、ゴメン田島くんっ! 怪我はない!?」
「転ぶのは慣れてるから平気。それより、ここにいたんだ」

 田島くんが腰についたほこりを払い、立ち上がる。

「荒北くんたちに会いたがっている人がいるんだ」


「昨日ぶりじゃな」

 田島くんに連れられて一階の廊下に行くと、満面の笑みで片手を上げる待宮くん。それに対して荒北くんは、

「田島、オレコイツ知らない」
「え、そうなの? でもこの人、荒北くんに会いたいって言ってて……」
「だから知らないっつってんだろ。オメーが代わりに遊んでやれよ」

 と言っては、くるりとUターンをする――。

「いやいやいやいや、知り合いじゃろ!? 昨日会ったばかりの顔を忘れたんか!?」
「なんで今日も来てんだよ! 広島に帰れっ!!」

 邪魔な犬を追い払うように、荒北くんが手を大きく払う。……昨日のことを思い出して頭が痛くなってきた。

「言っとくけどなぁ、ここ一応私立だから警備固いんだぞ。オメーなんかすぐに警備員にとっ捕まって放り投げられるぞっ」
「その心配の必要はない」

 待宮くんが独特の笑い声を上げて、胸につけている札を見せる。札には「来客」の二文字。事務室で必要な手続きをしたときに借りられる札だ。

「さっき事務室の人とモメたんじゃがのぅ。その時、三角メガネのおばさんが通りかかって、『アラキタくんの知り合いです』と言うと二つ返事でにっこり札を渡してくれたんじゃ」
「……教頭先生、やっぱり荒北くんのことが好きなんじゃ」
「だからァ、オレはだけだっつうの!! 後藤の気持ちなんざ知らねーよ!!」
ってさんの下の名前? 荒北くんってさんと付き合ってるの?」

 田島くんが言った瞬間、荒北くんが田島くんの後ろに回り、すばやく手刀を叩き込む。気を失った田島くんが床にうつ伏せに倒れた。

「今聞いたことは忘れろ!!」
「……せっかくここまで連れてきてくれたクラスメイトになんてことをしてるんじゃ……。ま、細かいことはえぇ。それよりもキミたちに頼みたいことがある」

 ニヤニヤしながら前髪をいじる待宮くん。

「今からワシに校内案内をするのじゃ!!」
「…………行こうぜ、

 荒北くんに肩を押され、その場を立ち去る――わけにはいかない。踏ん張って荒北くんに振り返る。

「待って荒北くんっ。待宮くんを野放しにしたら最後、学校中の女の子が待宮くんに泣かされちゃう」

『エッエッエッ。ロードレースの集団と同じで、オンナは用なしになったら縁を切るんじゃ』

 高そうなソファに座って足を組む待宮くん。床には涙で頬を濡らした女の子たちが、待宮くんの周りを囲んで座っている。
 きっとこの後、荒北くんに校内案内をしてもらえなかった待宮くんは、そこら辺にいる女子に手当たり次第声をかけるのだろう。不幸にも待宮くんのナンパに引っかかってしまった人たちが、枕を涙で濡らす姿が容易に想像できる――!

「だから校内案内してあげて。箱学の平和を守るために」
「チッ、しゃーねェなぁ。が言うならちょっとだけ付き合ってやんよ」

 こうして、無意味な校内案内が始まった。
 まず荒北くんが待宮くんを連れてやってきたのは教室。受験が近づいてきたせいか、教室に入ると誰もいなかった。教室に入るなり待宮くんが、教室にエアコンがついていることに驚いたり、ワシの学校よりも高そうな机と椅子じゃと言っては物珍しそうに見ていた。

「荒北はどこの席じゃ?」
「そこだよ、窓側の一番後ろ。ちなみには前だ」
「なんじゃとっ!? ワシなんか先生に『うるさいから前にいろ』って言われて一番前じゃというのに!」
「知らねーよオマエの学校のことなんか。あと、それ自業自得だろ」
「なぁ、ちゃん。授業中、荒北のヤツ寝てるんじゃろ」
「……たまに」
「余計なこと言うんじゃねーヨ!」

 怒る荒北くんをよそに、待宮くんがじろじろと荒北くんの席を見つめる。

「カノジョが前の席かぁ……。そしたら、アレができるな」
「なんだよアレって。ま、どうせロクでもねーことだろ」
「荒北、そこに座れ」

 荒北くんの席に座った待宮くんが、私の席を指差す。荒北くんは怪訝な表情をしながらも、私の席についた。

「……なぁ、
「テメ待宮、のこと名前で呼ぶんじゃねェ――」

 荒北くんが、後ろを振り返った時だった。待宮くんが荒北くんの耳元に、大きく息を吹きかける。

「ひゃあっ!」

 色っぽい悲鳴が教室中に響いた。
 ……今のは私や待宮くんじゃなくて、荒北くんの声だ。
 もう一度言おう。荒北くんの声だ!!

「…………」
「…………」
「…………」

 笑いたくても笑えない、気まずい沈黙が流れる。荒北くんの額からピキピキといくつもの筋が立つ。あぁ、お約束の展開が待っている……!

「テッメェ待宮あああああ!!!」

 荒北くんが待宮くんにアッパーをぶちかます。何度荒北くんに怒られても、めげずに荒北くんをイジり続ける待宮くん。ここまで来ると尊敬の念を抱いてしまう。


 怒る荒北くんを宥め、次に訪れたのは食堂。

「食堂じゃぁあああ! 私立というだけあって広いな! しかも、放課後の時間になっても開いている!」

 そんなに珍しいのか、オーバーリアクションで感激する待宮くん。周囲の視線が痛くて、待宮くんから距離を取ってしまう。

「せっかくじゃし、なにか食っていくか。荒北のオススメは?」
「ゴールデンカレー」
「早速食べてみるか! そこのきれいなおねーさーん!」

 すっかりハイテンションになった待宮くんが、食堂のおばさんに言葉巧みに近づいていく。

「……荒北くん、嘘ついた」
「いいんだよ、アイツにはこれくらいで」

 荒北くんが悪態をついて、ゴールデンカレーを注文する待宮くんを見やる。
 しばらくして、お盆にゴールデンカレーを載せた待宮くんが戻ってくる。席につき、スプーンを手に持って、カレーを一口食べる――!

「これはうまいのぅ。もう一杯食べられそうじゃ」

 平気な顔で、何回もカレーをスプーンですくって食べる待宮くん。予想外の反応に荒北くんと二人で困惑する。

「なんでだよっ! 辛くねェのかっ!」
「地元に激辛つけ麺があってのぅ。その辛さに慣れてるからこんなの序の口じゃ」

 ……そう。ゴールデンカレーとは学食の裏メニューであり、本当の名前は激辛カレーという。激辛カレーが食べたいという生徒の要望により特別に学食に取り入れられたもので、一日に三食しか売らない伝説のメニューだとかなんとか。……もちろん私は食べたことがない。

「くっそ、テメェの苦しむ顔を見るはずだったのにっ」

 荒北くんが頭を抱える。0勝二敗、荒北くんの負けだ。


 続いてやってきたのは部室。部室に行くと、今は部活の真っ最中で、数人の部員たちがローラー練習をしていた。

「エリートの学校は違うのぅ。こんなにローラー台があるなんて」
「……いいのか、練習光景なんて見せて」
「いいんです。減るものじゃありませんし。もし、部活の妨げになるようなことがあれば荒北さんが止めてくれると思うので」

 「鉄拳制裁で」隣にいる泉田くんが言った。荒北くんは口を一文字に結んでなにも言わない。……まぁ、泉田くんがああ言うのだから大丈夫なのだろう。うん。
 みんな頑張ってるなぁ。引退後も変わらない部活の様子を見て、久しぶりに家に帰ってきたような安堵感を覚える。懐かしい部室に、ついじっとしていられなくて、色んなポスターが貼ってある掲示板に引き寄せられるように近づいた。
 掲示板には色んなものが貼ってある。これから先にあるレースのポスター、この前の部活集会で配られたであろう注意喚起のプリント。様々な掲示物の中に、一枚目を引かれるものがあった。

「金剛山ヒルクライム……」

 大阪と奈良の二つの県に跨る、大きな山のヒルクライムレース。レースの日付を見ると開催月は十月。詳細を見てみると一般向けのレースで、アマチュアの選手がコースを走っている写真が載っている。

「このレース、泉田くんたちは出るの?」
「いいえ。同じ日に栃木にあるクリテリウムレースがありまして……。部活で出る人は今のところいません」
「そっか」
「参加するんですか? 一般の人メインですし、いいと思いますよ」

 泉田くんが金剛山ヒルクライムレースのポスターを見つめ、穏やかに言った。その時、部室の外で泉田くんの名前を呼ぶ人の声が聞こえた。

「ごめんなさい、ボクはこれで……」
「部活、頑張ってね」

 部室を出る泉田くんの背中を見送って、ベンチに座っている荒北くんたちを見る。自転車雑誌を読んでいる荒北くんの横で、待宮くんはローラー練習に励む部員の姿をじっと見つめていた。