栄光のサクリファイス 99話

「泉田のヤツ、うまくやってんじゃナァイ」
「オレが見込んだヤツだ、当然だ」
「織田くんも頑張ってる。引退しても変わらないなぁ~」

 長椅子に座って自転車部の様子を見守る。
 放課後、福富くんと荒北くんの三人で自転車部の様子を見に来ていた。自転車部の見学に来たことに大した理由はない、ただの息抜きだ。

「……あ、織田くん葦木場くんにパワーバー押し付けてる」
「学習しねェな、アイツ……」

 英語の教科書を持った荒北くんがあきれて言った。それに苦笑して再び自転車部を見やる。三年生が抜けた自転車部は変わらず活気に満ち溢れている。ストップウォッチを片手に持って指揮を取る泉田くん。部員たちが汗を流しながらローラーを懸命に回していて、メカニック担当の部員が部室を慌ただしく行き来している。久しぶりだけど変わらない部室の雰囲気。こうやって見ていると手伝いたくなってしまうけれど今はガマンだ。仕事は織田くんに任せた今、私は手を出すべきじゃない。

「……あれ? そういえば一年生がいないね」
「一年は今外でトレーニングレース中だ」
「そうなんだ。私行ってみようかな」
「オレたちも後から行く」

 腕を組んだ福富くんが荒北くんに視線を向ける。「そのページに書いてある英単語三十個覚えるまでは動かん」福富くんの言葉に荒北くんが怒鳴る。「ノルマキツすぎなんだよ福チャンッッ!!」
 ……頑張れ、荒北くん。心の中で応援して部室を出る。爽やかな風が頬をなでた。


 今日のトレーニングレースは坂を中心としたレースだ。部活で何度も登った山を、久しぶりに徒歩で歩いてみる。
 秋の木々は橙色に染まり、時々風が吹けば落ち葉がひらりひらりと舞い落ちる。桜が咲く時期と似ているけれど、どこか物悲しくなるのはなぜだろう。他愛もないことを考えながら落ち葉を踏みしめて坂を歩く。
 ――目の前に真波くんの姿が見えた。不安定なダンシングをしていて、耳を澄ませば荒い息が聞こえる。
 歩調を速め、真波くんの背中を追いかける。平地に入った時、地に足をついて休んでいる真波くんに追いついた。

「真波くん」

 額に汗を流した真波くんが私に振り返る。

さん……。どうしたんですか? こんな所で」
「一年生のレースを見に来たの。……それより真波くん、大丈夫……?」
「えへへ、オレは大丈夫です。あの時、大事な場面で総北に負けたから……もっともっと強くならなきゃ」

 作り笑いを浮かべて、ペダルに足を置く。

「じゃあ、レース中なんで」
「ダメッ、真波くんっ」

 彼の前に回り込んで両手を広げる。今の真波くんは体力を消耗しすぎている。これから落車して怪我をする可能性を考えたら、今は棄権を勧めた方がいいだろう。

「なんですか、さん」
「残念だけど今回は棄権した方がいい。今の真波くん、登り方が不安定でとても見てられないよ」
「ちょっと調子が悪いだけです。すぐによくなりますから……」
「私にはそうは思えない。今すぐ自転車から降りて」
「邪魔しないでくださいっ!! さんはもう部活を引退した身じゃないですかっ!! オレのことは放っておいてくださいっ!!」

 真波くんの怒声が響く。
 風が吹いて木々の枝が揺れ、枝に止まっていた鳥が空に向かって飛び立つ。初めて真波くんが怒る場面に直面して、少しの間言葉を失った。
 私は間違ったことは言っていない。でも、真波くんの鋭い眼光には、なにも言えなくさせる力強さを感じてしまう。
 風がやんだ頃、真波くんは目を伏せた。

「……ゴメンなさい。オレ、最近なんだか気分が優れなくて……。今のは忘れてください」

 消え入りそうな声で言うとペダルを踏み、坂を登りはじめた。
 「本当にゴメンなさい」かすかに聞き取った声に、私はなにも言えなかった。


 自転車部に寄った帰り道、自転車を携えた荒北くんと二人で歩く。

「……ねぇ、荒北くん」
「なんだ?」
「真波くん、大丈夫かな……?」

 さっきの出来事は誰にも言っていない。けど、最近真波くんが苦しそうにしているのは誰の目から見ても一目瞭然だ。
 前に新開くんのことで相談に乗ってもらった時のことを思い出して、おもいきって荒北くんに相談してみる。彼ならなにかいい答えを教えてくれるかもしれない。

「部活サボって登りに行くような山バカだ。今はあんな調子だけど、いつか元気になんだろ」
「退部するんじゃないかってうわさも流れてる」
「うわさはうわさだ。信用すんな」
「真波くんになにか、できることはないかな……」

 荒北くんが急に立ち止まる。慌てて私も立ち止まり、荒北くんに向き直る。

「……なぁ、。前にも言ったけどよ、人はどん底に落ちたとき、どんなに気の利いた言葉をかけてもそいつにはなにも聞こえねーんだよ。お前の気持ちはわかる。けど、お前がなにをしたところでアイツの心は何も変わらねェ。……今はアイツが落ち着くのを待て」
「待てないよ……。待つことも大事だし、本当はその方がいいかもしれないけど……」
「……。今の自分の立場わかってんのか? 今お前は自転車部のマネージャーじゃなくてただの受験生だ。月末にはレースもあるし、人のこと気にかけてる場合じゃねーだろ」

 荒北くんの言うことはもっともだ。今は真波くんのことは見守ることにして、受験勉強に専念した方がいいことはわかっている。
 ――でも、今の私には、真波くんと交わした約束がある。

「前に荒北くんのことで悩んでいてすっごく苦しかった時、真波くんに助けてもらったんだ。足利峠の登坂に誘ってくれて、それからもう一度荒北くんと向き合おうって思って……。最初は放っておいてほしいって思ったこともあるけど、今では真波くんに助けられたって感謝してる。……だから放っておけないよ。なにもしないなんてできない」
「じゃあどーすんだ。今のお前になにができる」
「それはこれから考えるよ……」

 話すにつれて、いかに私がなにも考えていないのか自覚させられる。ひょっとしたら、今私がやろうとしていることって無意味なんじゃないだろうか? むしろ真波くんをもっと傷つけてしまうのではないだろうか。
 一年前、憂鬱な日々が続いていたあの日のことを思い出す。あの時、真波くんの助けがなかったら今の自分はなかった。……だから、今度は私が真波くんを助ける番だ。

「ゴメン。先に帰るね」

 家まであともう少しの距離だった。逃げるように走って、荒北くんと別れる。

「はぁ。……ったく、メンドクセーなぁ」

 頭を掻いた荒北が携帯を取り出し、耳に添える。数コール後、相手と電話がつながった。


 ベッドに寝ながら天井を見上げる。どうしよう、荒北くんとケンカ別れみたいになってしまった……。明日会ったらどういう顔をして会えばいいんだろう……。

「まぁ、大丈夫かな」

 自信のないことを言ってこてんと横になる。なんだかんだで優しいし、明日には何事もなかったかのように接してくれるかもしれない。
 荒北くんのことはさておき、今は真波くんだ。真波くんに私ができることって言ったらなんだろう……。
 色々考えてみるけども、答えが見つからなくて気がつけば随分な時間が経ってしまった。
 ――やっぱり、私にはなにもできないのだろうか。弱気になっている自分に気づいて、これじゃあいけないとベッドから起き上がる。なにかいい方法はないものだろうか……。

『ねぇさん。勉強はこのくらいにして、山、登りに行きません?』

 一年前、荒北くんと袂を分かつと決めた時、ずるずると悩んでいた私に真波くんは足利峠の登坂を提案してくれた。
 今まで、ヒルクライムなんて本格的に挑戦したことはないからいい経験になった。登坂している間は気が紛れたし、アズナさん――御堂筋くんと会うことができた。そして、完全登坂を達成した時、荒北くんにもう一度向き合おうって決心がついた。

「登坂……か」

 改めて思う。あれから一年が経ったんだ。そういえばあの日から真波くんと一緒に走ってないな……。部活で忙しくて、今日まで機会がなかった。あの時見えた白い翼をもう一度この目で見たい。今の真波くんでは見られないかもしれないことを考えると、きゅっと胸が苦しくなる。
 携帯の着信音が鳴った。携帯を手に取り、受信したメールを確認すると金剛山ヒルクライムのお知らせのメールだった。

「あ……」

 メールを開く前にひとつのアイデアが頭に浮かぶ。これだったら私にもできるかもしれない。