栄光のサクリファイス 100話

「金剛山ヒルクライム?」
「うん。今月末にあるレースなんだけど、よかったら真波くんも一緒にどうかなぁって……」

 翌日の放課後、部活で休憩中の真波くんに金剛山ヒルクライムレースの話を持ちかけてみると真波くんは眉尻を下げた。

「でもそれ、箱学は出ないんでしょう? そんな中オレが出ても……」
「せっかくの機会だし登ろうよ。私、真波くんともう一度一緒に走りたい」

 強く訴えてみるものの、真波くんは首を左右に振った。

「……さん。あの時のオレは無名だったからいいけれど、今は箱根学園の看板を背負っているんです。もう、気軽にレースに参加することなんてできません」
「いいじゃないか。レースに出ろ、真波」
「泉田さん……」

 どこから話を聞いていたのか、気づいた時には泉田くんが現れて真波くんの肩に手を置いた。

「当日は私物のジャージを着てアイウェアでもかけろ。久しぶりになにも考えずに走るのもいいだろう」
「でも……」
「今回はお前以外誰も出場しないレースだ。当日優勝を狙うか、集団に紛れてのんびり走るか、どっちでもいい。監督にはボクから言っておく」

 「真波のこと、お願いします」泉田くんが私にぺこりと頭を下げる。今や主将の威厳が備わった泉田くんに、つられて私も頭を下げてしまいそうになる。

「……ちょっと、考えさせてください」

 ぽつりとそう言って、真波くんは部室に消えた。金剛山ヒルクライムに出てくれるといいんだけど……。不安な気持ちで真波くんの背中を見送った。

 ◆

「ハァ、ハァ」

 ペダルを踏む足に力を入れすぎないように、回すような感覚を意識して自転車を走らせる。
 山頂まで、あともう少し。荒北靖友は顔に流れる汗を拭わないまま懸命に坂を登り続ける。
 急勾配の坂が終わり、やっと頂上にたどり着いた。すぐさま自転車から降りて、地面に腰を下ろす。天高く昇る太陽、肌寒い風。寂れた山頂には、先に頂上にたどり着いた真波山岳の姿があった。

「最後の激坂、キツかったな……。のヤツ、去年あれ登ってたのかよ……」

 足利峠を登るのは今回初めてだが、想像以上に急勾配の坂で体力を余計に消耗してしまった。今まで、何度もロードレースに出場してきたから体力には自信があったものの、最近は自転車に乗らずに受験勉強に専念しているせいか体力が落ちてしまった……。これを機に、たまには自転車に乗ろうと荒北が心の中で誓う。

「荒北さん」
「なんだ?」
「なんで今日、オレを登坂に誘ったんですか?」

 不思議チャンにしては珍しく直球で聞くじゃねェか。荒北が思い、まぶたを伏せる。
 真波を登坂に誘おうと思ったのは一週間前のことだ。

『だから放っておけないよ。なにもしないなんてできない』

 インハイの重責に苛まれている真波の話になった時は途中でそう言って走って去っていった。今でも時間が解決するのを待つべきだという自分の主張は間違っているとは思わないし、今こうやっていることもかえって逆効果なのかもしれないと思う時がある。――だが、それでもなにもせずにはいられなかった。彼女がなにか解決策はないか必死に探している最中、自分だけ傍観していることはできなかった。だからこそあの時道端に止まって頭をかいて、すぐに真波に連絡したのだ。

『おい真波、オレだ。……今週の土曜、空いてっか? 空いてなくても空けろ。足利峠登るぞ』


「……借りを返すためだ。が落ち込んでいた時、オメェ色々やってくれたろ。お前には返さなきゃいけない借りがあんだよ。……それに、本当なら、お前が立ち直るまで黙ってやるつもりだったけどよ、でもそれじゃあガマンならねーっつうヤツがいるんだ。だからオレは貴重な勉強の時間を割いてここまで来た」

 こんなこと、が絡んでなきゃ絶対やんねーよ。心の中で悪態をついて、真波を見据える。

「……ねぇ、荒北さん。前から聞きたかったことがあるんですけど」
「なんだよ。言ってみろ」
「――荒北さんがさんと一緒にいるのは同情ですか?」

 一迅の冷たい風が吹いた。荒北が瞬きをした先には、ガラス玉のように透き通った目でこちらを見ている真波が立っている。唇を見ても、一文字に結ばれていて心の奥底にどんな感情を秘めているのか察することはできない。

「フェンスの落下事故から、荒北さんはさんと一緒にいるようになった。『オレのせいでさんが怪我をした。これはオレが一生を賭けて償わないといけないことだ』たぶんそう思って、荒北さんはさんと一緒にいるんです。……違いますか?」
「あぁ、違うね。それはとんだ勘違いだ」

 腰をはたき、立ち上がる荒北。いまだに真意がつかめない真波に、荒北は毅然とした態度で問いに答える。

「オレがアイツの隣にいるのは、二度とアイツを失いたくないと思ったからだ。これは同情なんかじゃねえ。もしそうだったとしたら、途中で絶対にボロが出る。半端な覚悟で一緒にいるわけじゃねーんだよ、オレもアイツもな」

 荒北の脳裏に浮かぶのは、落下するフェンスに身を呈して守ってくれたの姿。
 あの日から、明日は今日と同じ日がやってくるとはかぎらないことを知っている。のことを離したくないと思ったのは、彼女がかわいそうだからでもなく、申し訳ない気持ちが根底にあるわけでもない。たとえスランプで走れなくなったとしても、彼女と一緒に生きたいと思ったのが本当の気持ちだ。だからこの気持ちは決して同情なんかではない。
 飾り気のない気持ちをぶつけると、真波は黙ったままなにも言わない。その様子を見て荒北は次の言葉を継いだ。

「なぁ、真波。オレもオメーにひとつ言いたいことがある。……つらいときでも、大事なモンは絶対に手放すな。お前から山バカ取ったらなにになる? ただの不思議チャンになるじゃねーか」

 「まだオメーは故障したわけじゃねーんだし、挽回するチャンスなんかいくらでもあるだろ」かつて待宮に自分の過去を話した時、真波が聞いていたことを思い出した荒北がつぶやいた。

「先人の意見ってヤツですか。そんなこと言われてもオレには……」
「別に大した答えは期待しちゃいねーよ。オレが言いたいのは、その場しのぎで大事なモン投げんなってことだ。……お前がこれからどうすんのかは、お前自身でじっくり考えろ」

 ぶっきらぼうに言って、自転車を起こしサドルに跨る荒北。「じゃ、今日はここで解散だ」言うだけ言って、真波の返事を待つよりも先に坂を下って去っていってしまった。

「……ひどいや、荒北さんは……。今まで散々オレのこと認めないって言ってたのに……」

 一人になった山頂の中、真波の頬に一粒の涙が流れる。真波の心の中を覆うもやは、いまだ晴れることはない。

 ◆

「あと一分ッッ!! ゴール前だと思って精一杯走れっ!!」

 ストップウォッチを見ながら荒北くんが大きな声で言った。自然とつられてペダルの回転数を高める。

「ま、待って荒北くんっ! これ以上回したら明後日に響いちゃう……!」
「あと五十秒ッッ!!」
「は、はい~~っっ!!」

 涙目になりながらペダルを回す。鬼だ、今目の前にいるのは運び屋でも飢えた野獣でも直線鬼でもなく、本物のスパルタ鬼だっ!!
 そういえばすっかり忘れてたけど、荒北くんは人に物を教えるのがどちらかといえば下手な方でしかもスパルタ思考だ。それを今思い出してすっごく後悔している……!

「あと二十秒ッッ!!」

 泣いている場合じゃない。無心でペダルをひたすら回し、時間の経過を待つ。
 荒北くんがくわえた笛が鳴った時、ぜいぜいと息をついて惰性でペダルを回す。ローラー練習を終えて自転車から降りた時はふらふらで、すぐさま近くの長椅子に座った。
 夜の部室に私と荒北くんのふたりきり。まさか、部活を引退した後でここに来て、しかもこんなにハードな練習をするとは思わなかった……。いつも練習を見る側だったから、やる側になると結構つらい。荒北くんは毎日こんなことをやってたんだ……。いまさらながら感心して、息が収まるのを待つ。

「はぁ、はぁ……。な、なにも優勝取るわけじゃないんだからここまでしなくても……」

 荒北くんに言ったつもりが、いつの間にか彼の姿が見当たらない。更衣室には行ってないみたいだしどこに行ったのだろう……。まだ収まらない呼吸を整えながら数時間前の出来事を思い返す。――それは放課後のことだった。

『金剛山ヒルクライムレースのために体力作りしてるんだ。よかったら練習に付き合ってほしいんだけど……』

 ちょっとしたデートのつもりで誘ったのがいけなかった。次からは一人で練習しよう……。そう心に誓いながら、ドアの開く音に顔を上げて見やる。荒北くんが二本のベプシを持って部室に戻ってきた。

「ほら、ベプシ」
「ありがとう」

 自販機から買ってきたであろうベプシを受け取る。荒北くんが隣に座り、ベプシのふたを開けた。

「よかったな。真波、レース出ることになって」
「うん。ギリギリのエントリーで焦ったけどね」

 昨日の放課後、今日は早めに帰ろうと正門に向かっている途中真波くんに呼び止められた。「オレ、金剛山ヒルクライムレースに参加します」真波くんの勇断に顔がほころんで、レースの公式サイトをチェックしてみるともうすぐエントリー締切ではないか。慌てて部室に行き、織田くんのノートパソコンを借りてエントリーの手続きをした。あの時は慌てたけど、これで真波くんと一緒に走ることができる。

「もし、周りのヤツらに箱学の真波だってバレりゃ嫌でも悪口言われるぜ。それに、と一緒に走ったところでアイツはなにも変わりゃあしねーかもしんねェ。それでもは……」
「真波くんと一緒に走るよ。今までみんながそうしてきたように、走ることで初めて見つかるものもあると思うんだ」
「……そうか。それならいいけどよ」

 ベプシを持つ手にぐっと力がこもる。金剛山ヒルクライムレースは明後日の日曜日に行われる。どうなるかわからないけど、今は私にしかできないことをやるのみだ――。
 覚悟を決めて、ベプシのふたを回す。炭酸が抜ける音がした。

「にしても明後日かぁ。台風とかで延期になんねーかなぁ。そしたら見に行けるのに」

 残念そうに言って荒北くんがベプシを飲む。明後日のレース、荒北くんは見に行きたいって言ってたけれどその日は法事があって行けないそうだ。その話を聞いた時、ちょっと安心した。いつもは荒北くんを応援する側だったから、応援されるのはなんだか気恥ずかしい。

「……そうだ、にいいモン貸してやるよ」

 「危うく忘れるとこだった」ベプシを椅子に置いて、ポケットの中をまさぐる荒北くん。
 なにかを取り出した荒北くんが、手に持って私に見せる。青い生地の上に「安全祈願」と書かれているお守り。……これ、インハイ前に私が荒北くんにあげたお守りだ……!

「あげるんじゃねーからな、これは貸しだ。終わったら絶対に返せよ」

 まさか、インハイ前にあげたお守りをここまで大事にしてくれるとは思わなかった……。くすぐったさを感じながら、荒北くんの手からお守りを受け取る。

「本当はオレも行けりゃあいいんだけど。なにかあったときはのところにすぐに行けねーし、あの不思議チャンじゃ頼りなさそうだし……。……それくらい、大して荷物になんねーだろ」
「ありがとう、荒北くん。当日ジャージのポケットに入れておくよ」

 なくさないように、ポケットの中にお守りをしまう。

「それと、もうひとつある」

 荒北くんの顔が急に近づく。何事かと顔を向けると、唇に柔らかいものが触れた。
 ――部室でこんなことしていいのかな。いまさら思ったけどやめる気にはなれず目を閉じる。掛け時計の秒針の音がはっきりと聞こえるようになった時、荒北くんが顔を離した。

「……気をつけて行ってこい」

 顔を赤らめることもなく、ふざけることもなく、荒北くんはストレートに言った。「……うん」ようやく出た言葉は、心臓が波打つあまり少しだけ声が上ずってしまった。