栄光のサクリファイス 101話

 三日後の金剛山ヒルクライムレース。スタートまであと十分を切ったスタートゲートは既にたくさんの人で溢れかえり、スタートラインから後方の位置に私と真波くんはいた。今日はプロからアマまで参加する自由なレースで、周囲を見渡せば年配の人や私と同年代の人、大学生くらいであろう女性の選手などがいる。久しぶりにレースに参加するけれど、忘れかけていた感覚を思い出して心臓はばくばくと鼓動を打っている。福富くんたちはいつもこういうことをやっていたんだと思うと、なんだか偉大に思えてきた。
 遠くを見やれば、見覚えのあるサイクルジャージがあった。背中には黒字で「山王学園」と書かれている。たしかあの学校、クライマーに特化している強豪校だっけ……! 六人も揃っているところを見ると今日は優勝狙いで走るのかもしれない。慌てて総北がいないか視線を巡らせる。黄色のジャージが見当たらないことを確認して、ほっと一安心した。

「真波くん、大丈夫?」
「はい、大丈夫です」

 隣にいる真波くんが自然な声色で言った。今日の彼はアイウェアをつけていて、濃いレンズの奥に真波くんの澄んだ瞳が見える。今日は自前のジャージを着ているけれど周囲の人たちにバレていないだろうか……? もう一度周囲を見渡すけれど、周りの人たちは真波くんがいることに気づいていない。よかった、バレてないみたいだ。

「……うーん、やっぱりアイウェアはずしていいですか? 普段着けてないものを着けると、なんだか違和感がしてすっごく気になります」
「けど……それはずしたら真波くんが」
「いいんですオレは。もう、誰からなにを聞いたって、なんとも思いませんから」

 そう言って真波くんがアイウェアをはずす。はずしたアイウェアをジャージのポケットにしまった時、周囲が騒ぎ始めた。

「あ、あれ!? 箱根学園の真波山岳だっ」
「たしかアイツ、インハイ最終日に総北と争って負けたんだっけ」
「いや、見間違いだろ。箱学がここに来るはずないって」
「あのレース見た? すごかったよなー。まさかあの王者箱学が二位に転落するなんて」
「私あれ見てスカッとした。ハコガクってどこか調子に乗ってるとこあんじゃん? 準優勝になっていい気味っていうかぁ」

 耳を澄ませば澄ますほど、嫌な雑音が耳に入る。
 たまらずなにか言おうとした時、真波くんと目が合った。

「なにも言わないでください。今ここでさんに庇われたら、オレはもっとみじめな気持ちになります」

 冷たい目で言われて、口から出かけた言葉を呑み込む。私もつらいけど、今一番つらいのは真波くんなんだ……。自転車のハンドルを握りしめ、スタートの合図があるまでじっと耐える。
 やがてスタート開始の合図が聞こえた。気持ちを切り替えてペダルを回す。前にいる集団が動き出し、レースが始まった。


 サイコンに表示されている数字をこまめに確認しながら前方を見る。前方には様々なジャージの色の選手が走っている。

『優勝取らねェからってあんまり気緩めんなよ。わかってると思うけどヒルクライムに大事なのはペース配分だ。飛ばしても後で疲れるし、ゆっくりしすぎても無駄に体力消耗するだけだ。最悪タイムアウトなんてことにもなりかねない。まめにサイコンチェックして、自分のペースを守れ』

 この前言われた荒北くんのアドバイスを思い出す。時々私の横を通り抜ける選手に焦りそうな気持ちになるけども、荒北くんの言葉を思い出して気持ちを落ち着ける。
 ポケットにしまっているお守りにジャージ越しに触れて再びハンドルを握る。それだけであと三分の一の坂もなんとか登れそうだ。
 ――突然、私の後ろに続く車輪の音が途絶えた。真波くんになにかあったのだろうか? 地に足をつけ、後ろを振り返る。自転車から降りた真波くんが蒼白な顔色をしてチェーンをのぞき込んでいた。自転車を沿道側に倒し、真波くんに駆け寄る。

「どうしたの、真波くんっ」
「チェーンが外れちゃって……!」

 何度かシフトレバーを操作しているけども外れたチェーンは元に戻らない。真波くんが強張った表情で私を見上げた。

「……さん。オレのことはいいんで、先に行ってください」
「でも……!」
「また誰かの足を引っ張るのは嫌なんです」

 そう口にする真波くんは涙ぐんでいる。
 なおさら真波くんを置いていくわけにはいかない。意固地になって一歩前に出る。

「……さん?」
「真波くんは自転車抑えててっ! 私がやるっ」

 有無を言わさないために無理やり隣に並んで、チェーンをつかむ。部活の引退前は何度も自転車のメンテナンスをしたことがある。こんなことは朝飯前だ。

「あ、あれ……?」

 顔に流れた汗をゴシゴシと手で拭う。チェーンをギアに引っ掛けたはいいものの、うまくペダルが回らない。あれ、逆に回すんだっけ? もたもたしている間に横を通り抜ける自転車の音に、余計に焦りが募ってしまう。
 そうだ、反時計回りに回すんだ。時間差で思い出して、早く直ってと祈る気持ちでペダルを回す。元通りになったチェーンを見て、車体を支えている真波くんを見上げた。

「行こう、真波くんっ」

 切羽詰まった声で言うと、真波くんは急に口元を抑えて笑いだして――

さん顔っ」
「へっ?」
「顔が、油で汚れてる……!」

 くすくすと笑っている真波くんに慌てて顔を抑える。そういえばさっき、チェーンを触った手で顔に触れたんだっけ……! あぁ、そういえば今も触ってるからもっと汚れてるかもしれない! ジャージのポケットに手を触れる。中に入っているのはパワーバーにお守り……一瞬お守りで拭こうかと思ったけどそんなことしたらダメだ、荒北くんに絶対に怒られるし笑われるっ!

「ど、どうしよう……! でも今、格好にこだわっている場合じゃないし……!」

 こんなにも慌てているのに、相変わらず真波くんは笑っている。

「あはははは。さんおかしい! さっきまであんなにカッコよかったのに、汚れてるって言ったらすっごい慌ててるんだもん、おかしい」

 しまいには目に涙を浮かべ始めた。複雑な気持ちだけど、インハイが終わってから初めて心の底から笑う真波くんを見た。その顔を見たら色んなことがどうでもよくなって、自然と口元が緩んでしまった。
 笑いが収まった真波くんが私の顔に手を触れる。ひんやりと冷たい感触にとっさに目を閉じると、指を使って汚れているところを拭き取ってくれた。
 目を開けると、笑んだ真波くんと目が合う。

「あぁ、おもしろかった。なんか、さっきまで箱学の名に恥じない走りをしなきゃとか、一人で走った方がいいのかなとか色々考えてたけど、さんの顔見てたらどうでもよくなっちゃった」

 「だってさん、泥だらけのワンちゃんみたいな顔してるんだもん」思い出し笑いをしている真波くんに、そんなにひどい顔していたのかなと放心する。

「さぁ、行きましょう。さんにたっぷり引いてもらった分、今度はオレがさんを引きます。少し飛ばして行くので、頑張ってついて来てください」
「……うん!」

 自分の自転車を起こし、サドルに跨る。真波くんが私の前に出た時、タイミングを合わせて走り出す。勾配の急な坂の途中でのスタートはペダルが重かったけど、すぐに慣れた。あの日足利峠で見た、大きく広がる白くて美しい翼を見て――それだけで私は頑張って前に進むことができた。


 ゴールゲートをくぐり、人の密集していない所で自転車から降りる。ふらふらになって、地面に腰を下ろした。

「はぁ、はぁ……。なんとか完走できた……」
「お疲れ様」

 一足先にゴールした真波くんがポカリを差し出す。手を伸ばして受け取り、ふたを開けて飲む。カラカラに乾ききった喉に、ポカリの冷たさは心地よかった。息をついて真波くんを見上げる。

「久しぶりにレースに参加してみたけど、やっぱり大変だね。追い抜かれると速く走らなきゃって思うし、最後の激坂キツかった。……でも、その分達成感があった。みんなが走っている姿を見ると、私も頑張らなきゃって思って、ここまで走ることができた」

 足利峠で走ったあの日々のことを思い出す。あの時は真波くんと二人で走ってたけど、今日は名前も知らない大勢の人たちと一緒に走った。年配の人がすいすいと坂を登っていたり、私と同じくらいの歳の女の子が一人で登っている姿を見て、私も負けていられないなって思った。
 ゴールゲートをくぐった後で知った順位は、周囲に自慢できるほどいい成績ではない。でも、たしかに私は真波くんや周りの人たちの力を借りてこの山を制覇した。当たり前のことのように思えるけれど自分で走った今、それが大事なことのように思えて、胸の中は達成感で満たされていた。

「レースに出てよかった」

 自然と言葉が口をついて出た。それに真波くんがにっこりと笑い、私の隣に座る。

「真波くんはどうだった?」
「オレもさんと同じ気持ちです。久しぶりにのんびり走ったなぁ」

 「順位を気にせずに走ったのはいつぶりだろう」陰りを感じない声色で言って、真波くんが空を仰ぐ。

「ねぇ、さん。さんって、荒北さんに似てる」
「えっ!?」

 そんなに怖い顔をしていただろうか!? 手になにもついていないことを確認して、慌てて頬に手を触れる。「顔じゃないですよ~。考え方っていうのかな」真波くんに笑われて顔が真っ赤になる。なんでだろう、今日は真波くんに笑われてばっかりだ……。

「実は荒北さん、さんがヒルクライムレースの話を持ちかけるよりも前に電話してきて、土曜日オレと山を登れって強引に誘われたんですよね。荒北さんって普段、そういう面倒くさいことは絶対にやらない人でしょう? けどそうしたのはさんの影響なのかなって」

 「あれ、そうすると荒北さんがさんに影響受けてるのかな?」顎に指を当てて真波くんが考え込む。

「でも、オレの自転車のチェーンが外れた時のさん、必死にチェーン直そうとしててカッコよかった。インハイ最終日、全力で箱学を引いている荒北さんの背中を思い出しました」
「荒北くんに比べれば、大したことはしてないよ」

 自分でやると言っておきながら、チェーンを直すのに時間かかっちゃったし。顔が汚れて真波くんに笑われたことを思い出して、首を左右に振る。

「……うん、やっぱり二人は似てるや。オレは好きな子いないからそういうのよくわかんないけど、二人が惹かれ合ったの、なんとなくわかるような気がします」

 そんなに似ているのかな……? 私にとっては荒北くんの方がもっとまぶしい存在のような気がして、そうは思えないような、でもくすぐったいような、ごちゃまぜになった感情がこみ上げてくる。

「オレね、荒北さんに言われたんです。大切なものは簡単に手放すな、よく考えろって言われて……出そうとした退部届けを引っ込めて、今日までたくさん悩みました」
「真波くん……」
「オレ、自転車部にいてもいいんでしょうか……?」

 空を見上げる真波くん。
 「いてもいいんだよ」言おうとして、やめた。部活を引退した私にその言葉を言う権利はない。代わりに、違う問いを真波くんにぶつけてみる。

「……真波くんはさ、自転車が好き?」
「……好きです。総北に負けた今も、自転車が好きな気持ちに変わりはありません。……前にも言ったけど、登るときの痛みって、オレにとっては生きてるって証なんです。それを奪われたら、オレは本当に空っぽになっちゃう。あの時、坂道くん……総北に負けて二位になっちゃったけど、これだけは誰にも譲れない。たとえ、二度とインハイに出れなくなっても、登ることだけは絶対に譲れないんです」
「だったら、それでいいと思うよ。痛みを知った君はもっと速くなれる。……私の好きな人が、そうだったから」

 呆然とした真波くんの表情が次第に緩んでいく。「荒北さんも、つらいことを乗り越えてあそこまで上り詰めたんですよね」真波くんが満足そうに笑って、地べたから立ち上がる。

「ありがとう、さん。……オレ、しばらくは自転車部で頑張ってみようと思います。正直今も、オレがここにいていいのかなって思う気持ちはあるし、まだ、あの時の痛みは消えないけれど……登ることだけは誰にも譲れないから、今はひたすら強くなることを目指して練習を頑張りたいと思います」

 新たな決意をした真波くんの表情に迷いの色はない。
 大きな大会で二位になってしまった重責は、私の想像を遥かに超えたつらく苦しいものだろう。今回のレースに参加したことで簡単に癒えるとは思わないし、これからも真波くんは重責に苛まれる。
 ……けれど、今の真波くんなら大丈夫だ。山が好きだと改めて気づいた真波くんは、これから先どんなに強い風が吹いても、きっと立っていられる。

「応援してるよ、真波くん」

 強くなった真波くんをたたえて微笑すると、どこからかスピーカーを通した声が聞こえてきた。

『まもなく、表彰式が始まります――』
「どうしよっか」
「行きましょう。将来オレのライバルになるかもしれない人を、この目でしっかりチェックしたいです」

 真波くんが手を差し伸べる。その手をぎゅっとつかんで立ち上がり、地上に立つ。
 山頂には爽やかな風が吹いている。その風を背中に受けながら、自転車を携えて表彰式のステージへと走り出した。