栄光のサクリファイス 110話
校舎裏で、一人昼食をとっている荒北くんを見かけた。お弁当を片手に、勇気を出して声をかける。
「一人? よかったら一緒にごはん食べない?」
片手に持ったお弁当を少しだけ上げて、努めてさりげなく言った。
彼とは特別仲がいいわけじゃない。ただ、一人孤立している姿を見て、なんとなく放っておけなかったんだ。
だが、荒北くんはごはんを食べる手を止めて険しい表情で私を見る。
「……オレのことがかわいそうだとか思ってんだろ」
「かわいそうだなんて……」
「じゃあなんでオレに近づく!? 理由も知らないでいい子ぶって近づくテメーみたいな偽善者が一番迷惑だッッ!!」
荒北くんの心からの拒絶に自然と怯んでしまう。――私は、彼の触れてはならない部分に触れてしまった。
「オレはもう終わったんだ!! もうどこにも行けねーんだよ!! 故障もしたことのないお前になにがわかる!! 傍観者のお前になにがわかる!! オレのことはもうほっといてくれよ!!」
食べかけのパンを乱暴にコンビニ袋にしまい、強い歩調で去っていく荒北くん。荒北くんの背中を呆然としたまま見送っていると、ミヅキの笑い声が聞こえたきた。
『あはははは!! ははははは!! 君は本当にバカだねチャン!!』
……声をかけた後で思う。こんな結末はわかりきっていた。
もし、私の声が届くのなら、今頃彼は自転車に乗っていない。私よりも先に出会っていた、南雲くんの手をつかんでいたはずなんだ。
『そうだ!! お前なんかになにがわかる!! 子どもの頃から追いかけてきた夢だった!! それを何も知らないお前なんかに簡単に心許すものか!! 今から自転車の道に誘っちゃう? ダメダメ、中学生の時に挫折したならまだしも、彼はもう長い年月を野球にささげてしまった!! 今頃他のスポーツに逃げることもできないんだよ!! さぁ、どうするゥ?』
私は……。
頭には荒北さんの思い詰めた顔が焼き付いている。このまま放っておけば、彼は今度こそどこにも帰れない。
『色仕掛けでもして気を向かせるゥ? 散々酷いことをされた君に、いまさら心を開かないと思うけどネェ!! あはは!! あはははは!!!!』
ミヅキの煽りはそれほど不快に感じない。ミヅキがどんなことを思ってそんなことを言っているのか、全く考える余地がないからだ。
苛立つのはミヅキではなく、なにもできない自分自身。私は荒北さんになにができる?
どうすればいいか答えは見つからない。こういう時、無力な自分がひどく嫌になる――。
一悶着あった練習試合の翌日、ぼんやりとしたまま学校に行って午前中の授業を過ごした。
高校野球連盟の八百長疑惑はテレビなどでは報道されていないものの、ネットでは昨日から半信半疑の騒ぎになっている。
「ねぇ、ネットで見た? 高校生で八百長とかヤバいよね」
「たしか、名門の横浜綾瀬のヤツらも八百長に加担してたんだろ。アイツなんつったっけな……そう、荒北! どんだけプロ野球入りしたくて手を回したんだよ」
ケラケラと笑う名前も知らない男子生徒に、気がつけば胸ぐらをつかんでいた。
「なんだよお前っ」
「荒北くんのことをバカにしないで!! よく知りもしないくせに、勝手なこと言わないでよ!!」
「!!」
福富くんが無理やり間に入り、私の手を取って社会科準備室に連れ込む。
誰もいない社会科準備室に入って、福富くんが後ろ手でドアを閉める。
「どうした、お前らしくもない」
「荒北くんが、根も葉もないうわさに傷つけられてる。みんなが八百長やってるって……。でも彼はそういう人じゃない!! 会って間もないけど、荒北くんはそういうズルは絶対にしない!!」
「だからと言って他人に訴えても何もならん」
「わかってるよ……。わかってるけど、じゃあどうすればいいの!! 私、荒北くんになにもできない。戦ったことのない私には、どうすればいいかわからないよ……!」
その場にしゃがみこみ、涙を流す。
ミヅキの言うとおりだ。私にはどうすることもできない。練習試合の後の苦しそうな荒北さんを見て、胸が引き裂かれそうな気持ちになった。
それまで、元の世界に帰りたいって思ってたけど、今の荒北さんをそのままにして帰ることなんてできない。
荒北さんとは連絡をとっていないけれど、彼が苦しんでいることは顔を見ずとも充分にわかる。もし、荒北くんが八百長なんて濡れ衣を着せられたら――いくら気丈な彼でもまいってしまうだろう。たとえそれが事実無根だったしても、頑張ってやっていることを否定されるのは誰しもつらいことだ。それが今度こそ上を目指すと誓った、彼ならなおさらのこと。
――ならばどうすればいいというのか。ミヅキの言うとおり、私には荒北さんにかける言葉が見つからない。たやすい慰めは、かえって荒北さんを傷つけるだけだ。それを元の世界の荒北くんが証明している。私には、本当にどうすることもできないんだ……。
「……らしくない」
福富くんがぽつりとつぶやく。
「らしくないぞ、」
つぶやいた言葉を、もう一度私に言い聞かせるようにはっきりと言った。
「お前はいつだって誰かとぶつかっていただろう。新開にオレ。……これは聞いた話だが、東堂に真波、泉田だってそうだ。オレたちが迷っていた時、お前は必ず手を差し伸べてくれた」
「それとこれとはわけが違うよ。今度はみんなが敵に回ってる! 荒北くんにかける言葉なんて見つからないよ……」
「お前は、いつもかける言葉を考えてから手を差し伸べていたのか? ……違うだろう」
……そうだ。時々迷ったりしたけれど、私は言葉を見つける前に福富くんたちと一緒にいた。
私は……
『底に落ちたばっかりのヤツって、こっちがなに言っても声が聞こえねェんだよ。心の整理がつくまではな』
二年の春の日、サイクリングロードで聞いた荒北くんの言葉を思い出す。あの時彼の寂しそうな顔を初めて見たからよく覚えている。
会ったところで、なにもできないかもしれない。もしかしたら逃げられるかもしれない。
それでも……会いに行かなきゃ。
「私、用事思い出した。先生には体調不良だって言っておいて」
「待て」準備室を出ようとすると、福富くんに呼び止められる。
「落とし物だ」
福富くんの手から緩やかに投げられたものを両手でキャッチする。
……これはお守りだ。荒北くんの顔が頭に浮かぶ。
……そうだ。私には彼に伝えられることがある。
「ありがとう。今度は絶対になくさない」
お守りをポケットにしまい、準備室を出て、校舎から出る。どしゃ降りの雨の中、傘をさして飛び出した。
『靖友が学校にいないんだ! 携帯に連絡してもさっきから連絡つかなくて……!』
横浜駅から出た時、南雲くんから電話があった。
今日は荒北さんは学校に来ていないという。横浜綾瀬でも荒北さんは寮で生活をしている。遠くに行く計画でも立てていれば、必然と大荷物になる。だが、誰もそんな彼の姿は目撃していないという。荷物を持っていないということは、そう遠くには行っていないはずだ。
南雲くんは手当たり次第に探してみると言っていた。私も協力しなければ……!
雨の中をひたすら走る。荒北さんはどこにいるのだろう。
この前訪れた喫茶店、ショッピングモール、スポーツ用品店……荒北さんの行きそうな場所を探す。だが、どこにもいない。
探しているうちに雨がどんどん強くなっていく。心臓が早鐘のように打って、焦りだけが募っていく。
行きそうな場所はすべてまわった! 荒北さんが他に行きそうな場所は一体どこだ!?
祈るような気持ちでポケットの中にあるお守りに手を触れる。もう随分会っていない荒北くんのことを思い出した。閃光のように、四月のとある日一緒に出かけた日のことを思い出す。
『野球やってた時、こっそり通ってた所があったんだ。ストラックアウトがあるのに使うヤツまったくいなくてさ。そこで投球練習やってた』
何気ない会話の中、荒北くんがぽつりと語ってくれた場所。もしかしたら、荒北さんはそこにいるかもしれない……!!
そこに行くと、誰もいない中繰り返しボールを投げている人を見つけた。
ストラックアウトに向かって、何度も振りかぶってはボールを投げている。雨の中で繰り返すそれは、壊れた人形のようだ。
「荒北さん!」
雨の中、彼の名を呼ぶ。だが、荒北さんは投げることをやめようとしない。
――ボールを投げる。5のパネルに当たったボールは、クッション代わりのネットによって小さく跳ね返って落ちた。
ストラックアウトの周りに落ちているボールを見る。……彼はどのくらいの時間をここで過ごしたのだろう。野球をよく知りもしない私でさえもぞっとするほどの数のボールが落ちていた。
「荒北さんっ!」
もう一度彼の名前を呼ぶ。だが、荒北さんは投げることをやめない。終わりのない投球練習に肘が悲鳴を上げたのだろうか、荒北さんの顔が苦痛に歪む。私は、傘を放り投げて、後ろから荒北さんを抱きしめた。
「離せよ!! オレはもう終わったんだ!! いつの間にか舞園にハメられて、気がつけば八百長投手呼ばわりだ!! 十八年間野球にささげたんだ!! お前なんかに……お前なんかにわかってたまっかよ!!」
荒北さんが私の腕をふりほどこうとする。だが、絶対に離さない。離したら荒北さんは、ボロボロになるまでボールを投げ続ける――!!
「離せっつってんだよ!! 何も知らないくせに偽善者ぶって近づいてくるヤツが一番迷惑だっ!!」
「信じてくれないかもしれないけれど聞いて!! 私は別の世界から来たの!! そこで荒北くんは肘の故障で挫折して、福富くんと出会って自転車に乗って……箱根学園に転校した私は、そこで荒北くんと会った!! だからわかる。荒北さんは八百長なんてやってない。今充分に苦しんでるのもわかる……!!」
荒北さんが私の手を強くふりほどく。彼と目が合った時、射抜くような眼光にわずかに怯んだ。
「誰が信じるかよそんな話!! まさかお前、舞園と同じでオレをハメようとしてるんだろ!! だからオレにあの時近づいてきたんだ!!」
「違う!! 私があの時会いに行ったのは、荒北くんに会いたい一心だった!!」
荒北さんの両肩をつかみ、強く訴える。
頬に流れるのは涙か雨か。大雨の中、どちらかはわからない。
「……本当に意味わかんねぇ。慰めるのならもっとマシな嘘つけよ……」
それまで頑なに私を拒絶した、荒北さんの腕の力が抜ける。
「けど、なんでだろうな。どっかで納得する自分がいるんだ……」
拒絶することをやめて、潤んだ瞳で私と向き合う。
「なぁ、。オレはこれからどうすればいいんだ」
雨の中、荒北さんがすがるように問う。私は、その問いに答えられなかった。