栄光のサクリファイス 111話

 ジャージに着替えて更衣室から出る。ずぶ濡れの制服から私服に着替えた荒北さんは、長椅子に座ってぼんやりと虚空を見つめていた。更衣室から出てきた私に気がつくと申し訳なさそうな顔をする。

「悪いな、それしかなくて」
「ううん。大丈夫だよ」
「洗濯したばっかだから柔軟剤の匂いしかしないと思うけどよ」

 荒北さんが弱々しい声でそう言うと、窓の外を見て再び物思いにふける。


 私の声に耳を傾けてくれた荒北さんと一緒に、横浜綾瀬高校から少し離れた場所にある室内練習場へ向かった。
 そこにはトレーニングルームやシャワー室があり、駐在しているスタッフがずぶ濡れになった荒北さんを見るなり慌てて中に入れてくれた。
 お言葉に甘えてシャワーを借りて、濡れた制服は乾燥機にかけている。あと数分もすれば、自分の制服に着替えることができるだろう。
 ――少し大きめのジャージ。だが、些細なことに気を取られている余裕はない。
 荒北さんを見つけたものの、事態はなにも解決していない。これから私たちはどうするべきなのだろう……。不安になってふと部屋の入り口を見た時だった。

「靖友っ!」

 南雲くんが荒北さんの名前を呼んで部室に入る。ぼうっとしていた荒北さんの目が見開き、すぐに目を伏せた。

「ワリィな、南雲。さすがに今回は参っちまった」

 らしくない発言に、私と南雲くんは一瞬だけ言葉を失う。

「……さんもありがとう。さんが見つけてくれなかったら今頃靖友は……」
「こっ、こうして無事に戻ってきたんだからいいだろっ!」

 ほんのりと頬を朱に染めて、荒北さんが怒る。
 ――まだ、荒北さんは完全に打ちのめされていない。そのことがわかった私は小さく笑ってしまった。南雲くんも同じことを思ったのか、唇が弧を描いている。
 頭をかいた荒北さんが、長椅子から立って私たちに向き直る。

「……それより、これからのことだ。オレはこれから、どうしたもんかな」
さんはどこまで知ってるの……?」
「さっきオレが話した。高校野球連盟の会長が大掛かりな八百長試合を仕組んでいたことも、監督がそれに加担したことも。これはの知らない話だから言うけどよ、甲子園の三回戦で植田高校と試合やってた時、監督が勝負するにはリスクがありすぎるサインを出したんだ。オレも南雲も首を横に振った。だけど監督はそれでもやれってサインを出して、結局それに従った。その結果ヒットを打たれて、優勢だった試合は一気に同点差になっちまったんだ。その後死ぬ気で動いて勝ったけどよ」
「ここの野球部は監督がいつも仕切ってるから。故障してプロになれなかった人だけど、実力は本物だ。ボクたちは監督の言葉を信じて、ここまで来たんだ」

 南雲くんが部外者の私にもわかりやすいように説明をしてくれた時、荒北さんがうつむき、下がったままの拳に力が入った。

「八百長したのは金のためっつってたけどよ、そういうのスポーツに一番持ち込んじゃいけねーもんだろっ」
「靖友っ」
「……ワリィ。針野のこと思い出したらムカムカしてきた」

 そっぽを向いた荒北さんの顔には、怒りと動揺の色が混じっている。南雲くんは困った顔をして、私に視線を向ける。

「舞園は甲子園を一種の見世物にしようとしている。キャラクター性のある投手、一試合ごとにあらかじめ作った脚本を用意して、観客を楽しませようとしている。お客さんを楽しませることが目的なんかじゃない。彼の一番の目的は、自分の懐に入るお金を増やすためだ」
「どうりでおかしいと思ったよ。異常すぎる野球人気、オレたちや周りの学校の選手は人気者のようにもてはやされる。……アイツは、オレたちのことをうまく使えば金がもらえる人形だと思ってんだ」

 拳を握りしめた荒北さんが、力強い視線で南雲くんを見据える。

「……決めた。舞園にケンカをふっかけよう。まともに話を聞いてくれるとは思わねぇけど、このまま塞ぎ込むよりは全然マシだ。……それに、じゃないと周りがみんなバカみたいだろ」


 荒北さんの意見に南雲くんは、少し迷って同行することに決めた。
 雨が上がった茜色の空の下、先に寮に帰ると言った南雲くんと別れ、荒北さんと二人で水たまりができた道を歩く。

「……なぁ、。別の世界から来たっつってたけど、お前の言ってることが本当なら、ずっとここにいるのか?」
「ううん。しばらくは帰る気はない。荒北さんのことを、放っておけないから」
「お人好しだな。それとも、元の世界のオレとそんなに仲がいいのか……。……いや、今はそれより、八百長騒ぎをなんとかしないとな。それ以外、余計なことは考えたくない」

 弱々しい声で言った荒北さんがちらりと私を見る。

「……やっぱり、お前もついていくんだな」
「うん。私も、部活の関係で偉い人とは何度も話したことがあるし。いざという時、力になれるかもしれない」
「お前にそんな大役期待しねーよ。……けど、いるだけで心強い。変なことに巻き込んじまったけど、お前が信じてくれるならまだ立てそうだ。……これからよろしくな」

 まだまだ見てて危うい面はあるけども、隣を歩く荒北さんは気丈に振る舞っている。
 ここまでどのくらいの時間が経ったのだろう。皮肉にも痛ましい事件が起こった後ではあるけれど、彼とやっと心を通わすことができた気がする――。


 それから数日後。荒北さんと南雲くんと横浜駅で待ち合わせをして、舞園がいる高校野球連盟本部に向かう。
 新宿からそう遠くない位置に今年新しくできた高野連本部がある。本部前にたどり着いた時、高いビルに空を仰いだ。この建物まるまるが高野連のものだというから驚きだ。甲子園でどのくらいの収入を得ているのだろう。今まで自転車にしか興味のなかった私にはわからない話だ。

「なんとかアポは取ったよ。数分しか話はできないけど」

 歩きながら南雲くんが言う。受付の人に話をして、事務室から出てきた人の後ろをついて舞園がいる部屋へ向かって歩く。

「失礼します」

 南雲くんが先陣を切った。ドアを開け、部屋の中に入る。
 部屋の壁には、歴代の高野連の会長であろう顔写真がずらりと並び、周囲にある大きな窓ガラスからは町全体を一望できる。舞園は後ろに手を組んで町並みを見ていた。私がドアを閉めると、ゆっくりとこちらに向き直る。

「忙しい身だか、どうしてもって言われて特別に時間を設けてあげたよ。ドラフト入りした南雲くんに荒北くん……そこの女の子は見ない顔だね。まぁいい。一体どういう用件だ?」
「時間が惜しいので単刀直入に聞きます。今年の甲子園は舞園さんが仕組んだ八百長試合だといううわさが流れています。それは本当ですか?」
「八百長だなんて人聞きの悪い! 私はただ、野球界を盛り上げているだけだよ。君たちは高校野球にどれだけのお金がかかるかわかっているかい? 君たちが乱暴に扱っているグローブ、遠征費、一試合出場するごとにかかる甲子園の莫大な費用。お金だけじゃない、多くの人手も必要になる。こんなにお金が動いている高校野球が、数十年もの間誰も利用しなかったのは信じられない話だ」

 舞園が肩をすくめる。荒北さんたちは険しい表情で舞園の話を黙って聞いている。

「君たちは知らないだろうが、今年の甲子園は廃止になる予定だった。多くの学校が甲子園を目指して練習に取り組むものの、予選で敗れて涙を飲んで去っていく。また、夏になると熱中症も問題になる。自分たちが好きでやってることなのに、炎天下の下野球をやらせるのはどうだと非難の声を上げる過保護な親も増えてきた。さらにやっかいなことに、甲子園そのものはいらないなどと年々、廃止を訴える人間が増えてきた。そこでこの私が任命された。私が甲子園そのものに手を入れたことによって、野球界は大いに盛り上がった。観客の求めていたものはこれだったんだよ」
「違う!! ただの茶番なんざ誰も求めてねーよっ!!」
「荒北くん、君なら充分に知ってるだろう。野球……いや、スポーツには見ていてつまらないゲームが山のようにあることを。高いチケット代を出したにも関わらず、見るに耐えないゲームだった時。時間を割いて観戦したのに、あくびが出るほど一方的な点数差のゲームだった時。あぁ、無駄な時間を過ごした。そう思ったことは一度くらいあるだろう。その負の連鎖が試合観戦への興味を失っていく一番の原因だ。だが、私は野球界を作り変える。作り込んだ脚本ほどおもしろいものはないからね」
「オレたちは駒じゃない! お前の思いどおりに従うと思ったら大間違いだっ!!」
「誰のおかげでドラフト入りしたと思ってるんだ」

 舞園の一段と低い声に、それまで怒鳴っていた荒北さんが一瞬だけ怯む。

「君たちも今まではスターになってもらうために甘やかしていたが、これからはそうはさせない。たとえばそうだなぁ……。どっちかが致命的な故障をして、故障をしていない片方のバッテリーが苦悩した上で一人グラウンドに立つ……いかにも観客が涙ぐみそうなエピソードだろう?」
「ふざけんなっ!! オレはコイツ以外のキャッチャーとバッテリーを組む気はねぇ!! どっちかがグラウンドに立つだぁ!? そん時オレは野球をやめてやらぁ!!」
「役者になれないのならこの国から出ていけ。海外に行けば、君の好きな野球が自由にできるぞ。ま、二十歳にも満たない子どもが海外で通用するとは思わんがな」
「会長、そろそろお時間です」

 ドア越しから秘書らしき女性の声が聞こえる。「もうそんな時間か」自分が優位だと判断した舞園は、私たちに断りもなく部屋をあとにしようとする。
 ――このまま舞園を行かせてはいけない。

「待ってください。野球をなんだと思ってるんですか」

 舞園の足が止まる。最初に一目見てからずっと私のことを見向きもしなかった舞園が、やっと顔を向けてくれた。
 だが、無表情の中にある冷たい眼光に自然と足が竦んでしまう。

「その制服は箱根学園だな。箱根学園といえば自転車部で有名だが、自転車競技も似たようなものだ。ロードレースは裏で八百長が絡んでいることが多い。野球と違って、非常に仕組みやすいからな。この前行われた阿蘇ヒルクライム。あの時優勝したアラン選手は――」
さん、行こう。もうこの人になにを言っても無駄だ」

 南雲くんが会話を遮り、私の背中を押す。荒北さんも納得していない様子ではあるがしぶしぶ南雲くんの背中を追う。部屋を出ようとした時、舞園が言った。

「さすが南雲くん、この状況下でも的確な判断だ。やはり私の見立てたとおり、聡明な子だ。プロ野球の舞台に立つのは君が一番ふさわしい」
「…………」

 今南雲くんはどんな表情を浮かべているのか。それは、見なくてもわかる。
 無言で部屋を出て、足早に廊下を歩く。本部の敷地内から出た時、荒北さんが塀に拳を打ち付けた。

「くそっ!! 野球をバカにしやがって!!!」

 「こんなことスポンサーや他の団体は許さないんじゃないのか!?」助けを求めるように荒北さんが南雲くんに問う。南雲くんはかぶりを振った。

「それはあんまり期待できないよ。舞園のしたことは許されないけど、それによって多くの団体が利益を受けている。この前取材に来た虎山新聞。あれは舞園の息がかかってる。舞園の息がかかっていない団体に訴えたところで、権力のある他の団体に簡単にもみ消される。靖友にも、被害が及ぶかもしれない」
「なにいまさら怯えてんだっ! オレは、舞園のもとで野球をやるくらいだったら――」
「靖友っ!! お願いだから、野球をやめるなんて簡単に口にしないで!!」

 舞園の前でさえも拳を握り冷静でいた南雲くん。だが、荒北さんの言おうとした言葉はもっとも聞きたくなかった言葉だったのか、南雲くんが突然を声を荒げた。荒北さんがばつが悪そうに目をそらす。

「……悪かったよ。……。お前も嫌な思いさせて悪かった。オレが言うのもなんだけどよ、舞園の言うことはあんまり気にすんな。あの手の大人は狡猾だ。いちいち真に受けたら最後、アイツの思いどおりになっちまう」

 ……そうだ。舞園にさっき言われた言葉は忘れよう。疑い始めたら最後、なにもかも信じられなくなってしまう。今はただ、どうやったら荒北さんたちの力になれるかだけを考えよう――。

「……横浜に帰るか。今日はこれ以上何もできねぇだろ」

 荒北さんが空を仰ぐ。
 プロ野球入りが約束された荒北さんが知った、甲子園の裏に八百長があったことの真実。それは、簡単には翻すことのできない高野連会長の大きな思惑があった。
 このまま行けば、荒北さんは舞園の操り人形になってしまう。だが、野球に人生の全てをささげてきた彼に、野球をやめろとは誰も言えない。それを言うならば荒北さんに死ねと言っていることと同じことだからだ。