栄光のサクリファイス 112話

 次の週の日曜日、荒北さんに公園に呼び出された。待ち合わせ場所に行くと、子どもたちが野球の試合をやっていて、荒北さんは遠くの位置で黙って見ていた。
 荒北さんに無言で促されて野球の試合を見る。どこにでもある平和な光景。……だが、よく見てみると人数が少ないことに気がついた。たしか、野球に必要な人数は両チーム合わせて十八人のはずだ。なのに九人が守備についていて、三人だけが順番に打席に立っている。控えにいる選手もいないし、わざわざ少ない人数で野球をやっているのはなんだか不自然だ。

「……気づいたか?」
「人数が少ない……?」
「そう。当たり。この前PTAで話題になったんだと。野球は本当に必要なのかってな。……八百長騒ぎの一件も絡んでいるらしい」

 荒北さんが寂しげにまぶたを伏せる。

「遊び気分で野球をやっちゃいけない。野球は黒いスポーツだ。勝手なことをぬかしている大人たちが子どもに野球をやめさせる。面倒見てやったガキにそれを聞いた時にはショックだった。おまけに八百長投手呼ばわりされた時にはさすがにこたえたよ」

 荒北さんが苦笑する。彼は明るく振る舞っているけれど、彼に合わせて笑う気分にはなれなかった。

「……なぁ、。ずっと考えてたんだけどさ、舞園が許せない理由がやっとわかった。オレはアイツに大好きな野球が汚されるのが嫌なんだ。……ガキの頃親父に連れられて初めて野球の試合を見に行ったんだ。その時に見た投手の剛球が忘れられなくて、野球の世界にのめりこんだ。……野球は選手だけのものじゃないっていうことはわかってる。オレの想像以上の金が動いていることもわかってる。けどよぉ、仕組んだ試合のなにが楽しいんだ。変なうわさが広まって、このままたくさんのヤツらが野球から離れていく。正々堂々と戦っているヤツのことは知りもしないで」

 荒北さんが拳を握りしめる。

「舞園の言うとおり、海外に行きゃあ自由に野球できるだろうさ。けど、オレがあの日憧れた投手を、熱くなった野球をここまでめちゃくちゃにされるのはたまらない」
「…………」
「ワリィな、愚痴っぽくなっちまって。お前にはカッコ悪いところ見せてばっかりだ」

 うつむいた荒北さんに、なかなか答えが出ない問題について考えを巡らせる。
 このままでは舞園の思いどおりに野球界が作り変えられてしまう。私が荒北さんにできることはこれ以上ないのだろうか――。


「はぁ……」

 平日の昼休み、中庭にあるベンチに座って空を仰ぐ。
 これからどうすればいいのだろう。大きすぎる問題に、何度目になるかわからない自問自答をする。
 ――その時、後ろから人の気配を感じた。

さんっ」
「わっ! ……なんだ、真波くんか」
「びっくりしたー。そんなに驚くなんて」
「私もびっくりしたよ……。それより、なにか用?」
さんがなにか悩んでるみたいだったから、なんとなく気になっちゃって」

 真波くんが私の隣に座る。一瞬、はぐらかそうと思ったけれど澄んだ瞳に見つめられると嘘をつくのをためらってしまう。
 ……もし、彼に真実を話したら、ひょっとしたらなにかいい案をくれるかもしれない。
 そう思ったら自然と口が開いていた。

「実は、友達が八百長騒動に巻き込まれてて……。友達自身は潔白なんだけど、大本が主催者の人だから反抗することもできないし、かといって簡単にやめることもできないし。どうしたらいいかわからないんだよね……」
「ふーん。よくわからないけれど大きな問題ですね。オレ、力になれないかも」

 あははと笑う真波くんをジト目で見る。――しかし。

「だったら、福富さんたちに相談してみたらどうですか? 福富さんのお兄さんやお父さんってロードレーサーなんでしょう? プロの人が身近にいるからなにかいい案出してくれるかもしれないし、新開さんや東堂さんたちだってきっと力になってくれますよ」

 福富くんたちに相談してみるか……。今までさんざん悩んでも思いつかなかった方法に、虚をつかれてしまう。

「あの時、さんがもっと速くなれるって言ってくれた後、追い出しレースで東堂さんに自由に走れって言われて完全にふっきれました。一人であんなに悩んでたのに、誰かの言葉で簡単に救われることってあるんだなってあの時のオレは思いました。……だから、一人で考えるよりも、誰かに打ち明けた方が案外うまくいくかもしれませんよ」
「そう……だね。そうしてみる」

 そうと決まったらのんびりしている場合じゃない。今すぐ福富くんたちに連絡をとって、放課後みんなに話してみよう。

「ありがとう、真波くん」

 真波くんにお礼を言って中庭を後にする。
 「頑張れ、さん」中庭を去る時、真波くんが小さくつぶやいた。


「……それで、どうすればいいかみんなの知恵を借りたいんだ」

 放課後、部室の中にある会議室を借りた私はそこで福富くんたちを集め、八百長騒動のことについて一通り説明した。
 自転車とは全然関係のないことだが、福富くんたちは真剣に耳を傾けてくれた。
 だが、規模の大きすぎる問題に説明が終わった後もみんなは口を開こうとしない。やはり、高校生がどうにかできる問題ではなかったのだろうか。
 諦めかけた時、福富くんがいつもどおりの強い口調で言った。

「簡単だ。オレたちが道の上で実力を示すように、そいつらはグラウンドの上で潔白を示すがいい」
「だがフク。どこもかしこも舞園の息がかかっている。それは難しいと思うぞ」
「舞園が認めている所でしか野球ができないわけじゃないだろう。それなりの土地を借りれば、どこだって野球はできる」
「こっそり野球をやったとして、誰が試合を見に来るんだ? マスコミも舞園の手のひらの内だし、徒労に終わるんじゃないかな」

 福富くんの案はいい案だと思ったが、潔白を示す試合をしたところで見てくれる人がいなければ無意味に終わってしまう。新開くんの言うとおり、マスコミに頼ることはできない。
 それに、こっそりやるのならばそれなりの注意が必要だ。今やろうとしているのは、学校には認められていない非公式試合。万が一舞園の肩を持つ人物の耳に入ってしまったら、試合をやめさせるに違いない。
 だとしたら……。眉間にしわを寄せて考え事をしていた時だった。たまたま、監督からの頼まれごとでプロジェクタの機材をしまっていた織田くんが笑った。

「ふふふ。マスコミがいなければ注目できないのは昔の話です。流行に敏感な東堂さんも、そこらへんは全く知識がないようですね」
「なんだとっ」
「今はネットでもテレビの真似事ができる時代なんですよ。ほらほら、見てくださいこの動画」

 織田くんが懐から取り出したスマートフォンを操作して、動画サイト内にある動画を再生する。
 デザイナーズマンションを思わせるきれいな部屋の中に、一人の男性が映っていた。机の上に並べた期間限定のお菓子を一個一個指さして解説をしている。

「これはロンソーから新しく販売された抹茶もち! 餅の中には黒みつと抹茶ホイップが入った、抹茶好きにはたまらない一品なんですよ~!」

 アマチュアのテレビ番組だと思ったが、司会者は話上手で気がつけば見入ってしまった。我に返って織田くんを見上げた時、彼は得意気な顔をした。

「実はこれ、生放送なんです。テレビに負けず劣らずおもしろいんですよ。スポンサーなどのしがらみはなく、自分の作りたい番組を作ることができる……。この生放送を先輩たちの言っている問題にも生かしたらどうですか?」
「おもしろそうだけど、みんな野球中継なんて見るかな。しかも今はアンチ野球ブームだ。野球の生放送なんてやったら、荒らしがたくさんわくかもしれない」

 困った顔をして言う新開くん。だが、織田くんはそれもお見通しですといわんばかりに眼鏡のブリッジを押して、キラリとレンズを光らせた。

「それならば人気の配信者を起用してみてはどうでしょうか? そういった人の野球中継ならみんなも見る気になってくれるでしょう。生放送の間、コメントは荒れるかもしれませんが、わざわざ現地に行って暴れる人なんてそうそういないでしょう。リスクはないとは言い切れませんが、一番の方法だとボクは思います」
「……織田。人気の配信者とやらに連絡を取る方法はあるのか?」
「まっ、待って福富くん! これから先は荒北さんたちに相談しないとちょっと……!」

 みんなに相談したことでようやく光が見えてきたけれど、ここから先は荒北さんたちに相談をした上で念密に計画を立てていかなければならない。

「ならば、今日の作戦会議はここで終了だな!」

 東堂くんが手を打って場の雰囲気を変えてくれた。まだ物足りないのか、福富くんが私に視線を向ける。

「ところで、横浜綾瀬の荒北とはどういう関係なんだ?」

 いずれ誰かに聞かれるだろうと思っていた質問を、福富くんにぶつけられた。それに対して私は――

「……荒北さんは、大切な仲間だよ。彼が困っているのを見過ごすわけにはいかない。畑違いかもしれないけど、みんなの力を借りたいんだ」

 ――こう答えることしかできない。荒北くんのことを言えば混乱を招くだろうし、荒北さんは彼とは違う。
 極端に言えば他人だけど、彼のことを見てみぬフリをして夢から覚めることなんてできない。
 ……たぶん、荒北くんも、私と似たような場面に遭ったらそうするだろう。なんだかんだ言って彼は仲間思いの人だ。
 納得してもらえないだろう精一杯の答えを口にした時、新開くんが頬を緩めた。

「どういう理由にしろ、がオレたちに助けを求めてくれたんだ。に借りのあるオレたちは、全力で力を貸すよ」
「そうだ。君はオレと巻ちゃんとの仲を取り持ってくれた。ちゃんのお願いならばこの山神、力になろう」
「荒北とどういう縁があったのかはわからないが、オレたちはお前の味方だ。……任せろ」

 みんなの言葉におもわず涙ぐんでしまう。奥にいる織田くんも、私を見て微笑んでいる。

「ありがとう、みんな」

 荒北くんのことは全く知らないのが少し悲しいけれど、今のみんなは私の背中を押してくれる。
 ――みんなとならきっと、この状況を打破することができる。ずっと迷っていた暗闇の中に光が差し込んだような手応えを感じた。


 福富くんたちに八百長騒動のことについて相談した週の日曜日、駅で荒北さんと南雲くんと待ち合わせをした私は、彼らを箱根学園に連れていった。
 箱根学園に着いた時、荒北さんが立ち止まって学校を見上げた。

「ここが……箱根学園。緑に囲まれたいい学校だな」
「この学校、野球部はないんだよね」

 グラウンドを見渡した南雲くんが言った。南雲くんの言うとおり、箱根学園に野球部はない。昔起きた不祥事が原因で、多くの学校に見られる部活はこの学校にないのだ。

「だからオレは、ここに来たんだな」

 荒北さんの言っていることが、すぐに荒北くんのことを指しているのだとわかった。なにも知らない南雲くんは不思議そうな顔をして小首をかしげている。

「ワリィ。行こうぜ」

 切なげな顔で校舎を見ていた荒北さんが、真剣な表情で部室のある方角に向かって進む。私と南雲くんも、荒北さんに続いて歩き出した。


 会議室に行くと、福富くんたちはそれぞれ席について待っていた。荒北さんの姿を認めた瞬間、東堂くんが立ち上がる。

「貴様が荒北か。ちゃんを困らせた――もごもごもごぉ!!」
「あんまり長居すると泉田たちを困らせる。無駄話はなしで行くぞ」

 東堂くんの口を抑えた福富くんに、荒北さんは動揺しながらも席につく。南雲くんはこのやりとりに微笑することなく着席した。……たぶん、八百長騒動のことで笑う余裕がないのだろう。
 この前話した件について、今回は荒北さんと南雲くんを交えて本格的に話を進めていく。もたもたしていると冬休みに入り、その後受験が本格的に始まってしまう。作戦を決行するならば、なるべく早い方がいい。
 東堂くんから手を離した福富くんが何事もなかったかのように座り、対の席に座っている荒北さんたちを射抜くような眼光で見据える。

「お前の事情はから聞いた。自分の身の潔白を示すには、グラウンドで戦うことが一番だと思っている。……だが、学校側、舞園がおもしろく思うはずがない。この計画を実行したら最後、お前はプロ野球どころか退部を言い渡されるかもしれない。十八年間の努力が水の泡になるんだ。それでも、」
「……あぁ、それでもいい。オレはもう、覚悟を決めた。プロ野球で役者になるくらいだったら、ここで華々しく散ってやる」

 凛と言い切った荒北さんの口調に迷いは一切感じられない。荒北さんの隣に座っている南雲くんは、うつむいて黙っている。優しい彼は荒北さんがこんな道を歩んでしまうことに、今も責任を感じているのだろう。

「迷いのない覚悟だな」
「今まで散々悩んできたからな。ここに来る前に腹括ったぜ、鉄仮面」
「て、鉄仮面……!」

 荒北さんの発言に、東堂くんの顔が真っ青になった。新開くんがヒュウと口笛を吹いている。

「お前みたいなヤツが部活にいたら野球が楽しくなりそうだ」

 福富くんのどこが気に入ったのか、荒北さんは好意的だ。

「オレは野球はさっぱりわからん」

 真顔で返す福富くん。ツッコみどころはそこじゃないと思うんだけど、今は黙っておこう……。

「ダメだ、フクの横取りは許さんよ! 引退したが、コイツは自転車部の人間だ!」
「野球やってる寿一かぁ……。キャッチャーだったら似合ってるかも」
「……靖友って、時々天然なところあるよね」
「な、なんだよ。オレ、なんか変なこと言ったか?」
「コホン!」

 福富くんが突然咳払いした。荒北さんが変なことを言うものだから話が脱線しすぎてしまった……。
 静かになった会議室の中、新開くんが一番最初に切り出した。

「叔父さんにグラウンドの経営やってる人がいるんだ。その人になんとかグラウンドを使わせてもらえないか、打診してみるよ」
「じゃあオレはファンクラブの女子たちを集めよう。女子たちの応援があった方がやる気が出るだろう」
「この前は保留になったが、織田に生放送の件を詳しく聞いてみる」
「ボクたちはチームを集めるよ。そういうのはボクたちの仕事だから」

 前にある程度話をまとめていたおかげもあって、トントン拍子に話が進んでいく。
 こんな時に不謹慎だけどドキドキしてきた。みんなで力を合わせれば舞園に対抗することができるかもしれない……。


 その日の晩、眠っている最中久しぶりにミヅキに会った。
 いつもと変わらない病室の中、ミヅキはクスクスと笑っている。

「楽しくなってきたねェ」

 まるで傍観者のように、八百長疑惑に苦しむ荒北さんたちを見て楽しんでいる。
 そう思ったら荒北くんにそっくりな顔をしてても、我慢の限界が来た。

「他人事みたいに笑わないで。荒北さんは、今舞園に必死に抗おうとしている」
「ふふふ! 最近までウジウジしてたのに、随分強気になったねェ! 言っとくけどオレは、君がみんなの力を借りると思っていたよ。君は充分にやったつもりだろうけれど、こんなことで運命は変えられない!」

 なおも笑い続けるミヅキをにらむ。
 話し合いの末、再来週の日曜日に試合をすることが決まった。……それまで、私もミヅキと一度じっくり向き合うべきなのかもしれない。