栄光のサクリファイス 113話
部屋の電気を消して布団の中に入る。昼の今あんまり眠気はないけど、目を閉じて昔のことを思い出していればいつか寝れるだろう。
どうか徒労に終わりませんように。荒北くんのことを思い浮かべながら眠りにつく。
……荒北くんって、どういう顔で笑うんだっけ。荒北さんやミヅキ、二人の記憶で上書きされて、彼の笑った顔がうまく思い出せない。
やることを全て終わらせたら荒北くんのもとに帰ろう。手に持ったお守りを握りしめて目を閉じ続ける。
目を開けた時、願った場所にいることに気がついてほっとした。
白い天井、白い壁、白い天井。ここは何度も訪れた病室だ。周囲を見渡すと、ミヅキはすぐ傍にいた。椅子に座ったまま目を閉じて眠っている。すやすやと眠る様に、風邪をひかないようにブランケットをかけてあげたくなるがぐっとこらえる。ここで彼を起こすような真似をするわけにはいかない。
今まで、ここに来てはミヅキと話してばっかりで、中の様子などろくに確認したことがなかった。この部屋にはなにかが隠されている。そう思った私は足音を立てないように静かにベッドから下りて、ミヅキの横を素通りした。
部屋の出入り口付近に間仕切りカーテンで隠された場所があった。カーテンをそっと開けて中をのぞくと、大掛かりな機械が設置されていた。一台の大型機械には複数のボタンと色んな箇所からランプが光っている。見た目は放送室にある機械と似たようなものだ。
病室には不自然な機械。これは、ミヅキが使っている機械なのだろうか。
機械にそっと触れると、はずみでなにかのボタンを押してしまった。途端、頭の中に電流が走る。意識が、暗転する――。
目が覚めた時、私は星の海の中にいた。真っ暗闇の中に大小様々な星が浮かんでいる。
今にも消えてしまいそうな弱々しい光の星。一等星にも負けないほど力強い光を放っている星。その中で一番近くにある金色に輝く星をつかんでみた。すると――
『オレは取り返しのつかないことをした。シフトチェンジに失敗して焦った時……前に出た金城を見てとっさに手を伸ばしてしまった』
これは、福富くんの記憶だ。視界に不安そうな表情を浮かべた私が映っている。
星を手放した途端、記憶の再生が終わってしまった。
呆然として、星空の海を見渡す。……この星はみんなの記憶の欠片だ。この中にミヅキの欠片もあるのだろうか。
試しに泳ぐように手足を動かしてみると、意外と簡単に移動することができた。
星の海の中を泳いで進んでいくと、真っ暗な星を見つけた。注視しなければ見落としてしまいそうな星。その星に手を伸ばすと、視界が光に包まれた――。
◆
水滴の音がする。
体がひどく冷たい。
うっすらと目を開けて、大浴場にいることを理解する。
……オレは、こんな所でなにをやっているのだろう。右手に持っていたナイフを見た時、うっすらと思い出した。
そうだ。八百長騒ぎの一件で、周囲からのバッシングに耐えきれなくなったオレは、合宿先の大浴場で人のいない時間を選んで……。
最後の最後で、勇気がなかった自分自身を恨めしく思う。
水の冷たさに、どんどん意識が遠くなっていく。
「靖友……? 靖友、靖友!!」
近くでバッテリーがオレの名を呼ぶ声が聞こえる。
……なぁ、南雲。オレはどこで道を間違えたんだろうな。
合宿所から病院に搬送されたオレは、病室の中で目覚めた。
どこからか聞こえてくる声に顔を上げる。カーテンで仕切られた先に、両手で顔を覆っているお袋と、医者のシルエットが浮かんでいた。
「靖友くんは精神的に非常にダメージを受けています。しばらく、ここで入院した方がいいでしょう」
医者の言葉でやっと今の自分の状態に気がついた。
オレは壊れたんだ。今まで、バッシングなんて屁でもないと思ってたけど……虚勢を張りがちなオレの心は脆くできている。
冷静に考えればこれは、起こり得る結末だった。
数時間して、バッテリーの南雲が不安そうな顔をして見舞いに来た。スツールに腰掛けてうつむいたまま言葉を探している。
「靖友……」
「ワリィな、南雲。オレ、何のために野球しているのかわからなくなった」
「……ゆっくり休みなよ。靖友にはちょうどいい休暇だ」
泣きそうな顔で笑った南雲とは、それを最後に会うことはなかった。
ボクと会えば、靖友は野球のことを思い出してしまうだろう。たぶんアイツはそう思って、オレから離れることを選んだんだ。
いくらオレでも、六年間一緒にいたバッテリーのことくらい簡単にわかる。……アイツは今どうしているのか、オレにはわからない。
舞台に立てなくなったオレはプロ野球から除名された。
なにもかもが白紙になってしまったオレは、一浪して大学を受験することになった。
野球を失ってしまったオレには何もない。正直、大学なんて受かればどこでもいいと思っていた。
たまたま足を運んだ大学の説明会に行った時、大きな転機があった。
とある学部に人だかりができていた。興味本位でのぞいてみると、なにかの授業をやっている。
「テレビで度々出てくる『右脳派』と『左脳派』。実はこれ、右脳と左脳でそれぞれ役割があることに違いはないのですが、誰しもがどちらかの脳に偏っているということはないのです。アンダーソン率いる研究者チームが――」
聞き取りやすい声でわかりやすく語る教授の声に、見学に来た高校生たちは真剣に耳を傾けている。
オレには縁のない学問だ。ポケットに手を突っ込んで去ろうとした時、腕章を着けた私服姿の男が前に現れた。
「君も心理学に興味があるのかい?」
「いや、全然」
「じゃあ、人混みに惹かれて来たんだね」
即答する男に、勝手に心を読まれたような気がして口元がひきつる。
だが男はオレが嫌な顔を見せたことを気にも留めず、話を続ける。
「集団心理って知ってるかい? 乱暴だけど、今のも集団心理の一種だよ。人混みを見つけたとき、人は自然とそれに惹かれてしまう。……おもしろいと思わないかい? この学問を知れば知るほど、人の心って意外に単純にできてることを思い知らされるんだ」
その時オレはこの学問に惹かれた。あの時は理由がわからなかったが、今なら簡単に説明できる。
舞園に踊らされた人間を、こんなことで簡単に操られてしまうんだって証明してバカにしてやりたかった。なにもなくなったオレには、この学問はちょうどいい暇つぶしだった。
そうしてだんだん学問の虜になっていく。
気がつけばオレは教授の助手の真似事を任されるようになっていた。
「荒北くんは勉強熱心だね。ここを卒業したら、大学院に進むんだろう?」
「実は君にいい話があるんだ。平行世界のシミュレーターを作っている先生がいてね、被験者を募集しているそうだ。実験の期間は夏休みの間。君もどうだい?」
教授から持ちかけられた話に、オレは二度頷いて了承した。
それからオレは、初めて使ったシミュレーターで靖くんを見つけた。
中学の時に肘を壊し、野球の道を諦めたオレが選んだのは、自転車に乗ることだった。
インハイ最終日でチームのために走り、決して記録に刻まれることのない誇り高き走りを見せた靖くん。彼には、という女の支えがあった。
どんな苦しい状況も乗り越えてしまう靖くんが、オレにはうらやましかった。
オレは八百長の濡れ衣を着せられたことをきっかけに野球の道を諦めた。学問に逃げたオレがいる一方で、アイツらは光輝いている道を歩いている――。時間が経つにつれて、憎らしいと思うようになった。
「人の過去を覗き見するなんて悪趣味だヨ」
――映像が突然途切れ、自分を見下ろすミヅキと病院の天井が視界に映った。
ズキズキと痛む頭を抑え、起き上がる。
……今のは、ミヅキの過去だ。もしかして私が今までに接してきた荒北さんは、これからミヅキのような道を歩いてしまうのだろうか。
「ふざけてないで教えて。ミヅキの本当の目的ってなに?」
以前、ミヅキは私が荒北さんと接したとき、彼がどう変化するか見てみたいと言っていた。
だが、ミヅキの過去を見た今、それだけが理由ではない気がする。彼には心の奥に秘めている本当の目的があるはずだ。
ミヅキがうつむき、声を押し殺して笑う。
「人間の愚かさを証明するためだよ。オレたちはオレたちが思っているほど自由に生きていない。現にオレの運命は変えられないことを証明したかった。無様に膝をつくオレの姿をもう一度見ることで、オレはもう過去を振り返ることなく研究に打ち込むことができる。だからねェ、オレはいつ君が降参するか楽しみにしてるんだ。『私には荒北さんを守ることができなかった』『元の世界に帰りたい』『荒北さんを助けて』みっともなく頬に涙を流して、オレに助けを乞う顔が見てみたい!!」
だからミヅキは荒北さんも、私の味方もしない。荒北さんのたどっている道は、ミヅキが既に通った道だった。私と会ったことで多少の違いはあれど、この先の展開を知っている彼は荒北さんが壊れるときを楽しみに待っている。
光悦と語るミヅキに、今の彼とは決して相容れないことを悟る。
「私は荒北さんを守る。絶対にミヅキと同じ目には遭わせない!!」
「前にも言ったけど、こんな展開オレは予想してたよ。君が自転車部の仲間と一緒に、舞園に立ち向かうだろうって。……でも残念。君は一つ大事なことを見落としている。試合の日を迎える前に君は気づくことができるかな?」
高笑いするミヅキ。
ミヅキに挑戦状を叩きつけられた今、この勝負から逃げるわけにはいかない。逃げたら最後、荒北さんはミヅキと同じ道を歩んでしまう。
寂しそうに笑う荒北さんの顔を思い浮かべる。……荒北さんはもっと、陽の当たる道を歩くべきだ。
試合前日、サイクリングロードに足を運んだ私は川が一望できる所で物思いにふけっていた。
ここは、荒北くんとの思い出が詰まった場所だ。彼の笑った顔がうまく思い出せなくなってきた今、終わりに近づきつつあるこの時間をここで過ごしたかった。
ミヅキは、私が気付いていないことがあると言った。試合前日になった今日もそれはわからないままだ。
舞園の内通者が近くにいるのだろうか。明日の試合は選手、観客含め信用できる人のみに話を通している。
だが、全ての人がそうだとは限らない。信用してた人の中に内通者がいてもおかしくはないのだ……。
誰かはわからないけれど、それでも明日は誰にも邪魔させない。明日の試合を中断したら最後、荒北さんはミヅキと同じ道を歩んでしまうのだから。
ポケットの中にある携帯が振動する感触に、現実に引き戻される。
携帯を確認すると、荒北さんからメールが届いていた。
しばらくして、荒北さんが手を振って駆けつけた。
「箱根にいるとは思ってたけど、まさかこんな所にいるとは思わなかった」
「ゴメンね、ここまで来させちゃって」
「いいんだ。会いたいっつったのはオレだから」
荒北さんが、手すりに立てかけている私のロードバイクに視線を向ける。
「それ、お前の自転車か?」
「うん。あんまり乗らないけどね」
膝を折ってまじまじとロードバイクを見つめる荒北さんに口元が緩む。
「でも、いいの? 大事な試合の前に、私に会いに来て」
「気合入れて練習してたら針野に目つけられる。それに、試合を迎える前にお前と、じっくり話がしたかったんだ。明日はたぶん、ゆっくり話している時間はない。試合を終えた次の日も、しばらく会えなくなると思う」
寂しげにまぶたを伏せる荒北さんに、これから後のことを思い浮かべる。
野球の試合を生放送という形でネットに公開したことにより、舞園や学校にはいずれ情報が入るだろう。「これはあくまでも個人の試合です」荒北さんたちはそう言い張る予定だけど、大人たちは見逃す、なんて甘いことは絶対にしてくれないだろう。部活の退部命令、ドラフト入りを白紙に戻す手続き……私たちのことなんて考えてくれない、大人たちの都合のいいように物事が片付けられる。目まぐるしい日々の中、荒北さんと再会できるのは物事に整理がついてからだ。
……いや、その前に私は彼と会えなくなる。今日になってから、時々視界がちかちかと点滅している。たぶん、目覚めの時はもうすぐ迫っている。本当に彼と会えることができるのは明日までだ。
このことは決して荒北さんには言わない。大事な試合を控えている時に、少しでも余計なことは口にしたくない。
そう思っているうちに長い沈黙が続いてしまった。荒北さんはフェンスに手をついて、ゆっくりと流れている川を見ている。
「なぁ、。自転車に乗っている時のオレの話を聞かせてくれよ。お前と会ったオレが、どういう道を歩いてきたのか知りたいんだ。……そしたら、覚悟も固まるから」
言おうかどうか迷ったけれど、穏やかな顔で川を見つめる荒北さんを見て決心する。
かつて誇り高きエースアシストとして、インハイで活躍した彼のことを語ろう。
中学の時、肘を壊した荒北くんは途方に暮れた末に自転車部に入ったこと、二年の時、このサイクリングロードで私に会ったこと、そしてインハイ最終日のスプリントリザルト前でエースアシストとして立派な働きを見せ、リタイアしたことを伝えた。
私と荒北くんのことについては省いてしまった。それを話したら今すぐにでも荒北くんに会いたくなってしまいそうな気がしたからだ。
「ネットで調べたことがあるんだけどさ、アシストって珍しい役割だよな。記録に残るのってエースとか勝負に勝ったヤツだけなんだろ? その裏で誰が支えてたなんかは決して記録に残らない」
「オレはそういうのゴメンだな。全力でやったのに何も残らないなんて虚しいじゃねーか」当たり前のように言う荒北さんにつられて苦笑する。
「アイツはなんでそういう道を選んだんだろうな」
「自転車始めたのは高校の頃だったし、成り行き半分だったと思うけど……でも私は、そんな荒北くんのことを誇りに思ってる」
「……なんか、いちいち優しそうな顔で話すよな、お前。好きなことがバレバレだっつーの」
荒北さんが苦笑する。
たぶん彼は、私と荒北くんがどういう関係なのか気づいている。
「オレも野球やれなくなったら自転車やろっかな。目指せ最強の運び屋なんてどうだ?」
「いいと思うよ。なんなら、私が自転車教えるよ」
この後、私がどうなっているかはわからない。だけど、素の私はどういうきっかけがあったかわからないけども自転車の楽しさを誰かにも伝えたいという共通の夢を持っているようだ。
もし、荒北さんが自転車に乗りたがっていることを知れば、喜んで協力するだろう。そしたら、荒北さんは野球ができなくなっても苦しまずにすむ――なんて、
「なーんてな。いまさら他のスポーツに逃げれない。オレは根っからの野球バカだから」
朗らかに笑い飛ばす荒北さんに涙がこみ上げる。
……心のどこかでわかっていた。彼には逃げるという選択肢は最初からないのだ。
「こうやっている今も、野球のことで頭がいっぱいなんだ。敵チームに加賀っていう因縁のバッターがいるんだけど、どうやって三振を取ろうとか、そんなことばっかり考えてる。だからオレには無理だ。自転車乗っても、野球したいなぁーって絶対に考えちまう。……でも、すっきりした。遠い世界のオレは、賞は何ももらえなかったけれど、少なくともお前の記憶に残るような走りをすることはできた。オレはそいつに負けたくない。オレにはオレのできることで、ここにいるんだって証明したい」
空の向こうに見える茜色の夕日が荒北さんの横顔を優しく照らす。
この先、つらい結末が待っていたとしても、荒北さんは野球をやりたいと言う。
本当にこの方法しかないのかという気持ちは正直ある。荒北さんのことを深く知ってしまった私は、できるだけ彼に幸せになってほしいとも思ってる。
だけど彼の決心は固い。……なら、私のやるべきことは……。
「日も暮れてきたし帰るか。明日は決戦だ」
荒北さんと一緒に、夕日が差す川から背を向けて歩く。
明日の試合はなんとしてでも最後までやらせてあげたい。それが、私が荒北さんにできる唯一のことだ。