栄光のサクリファイス 114話

 バスから降りて、目の前の球場を見上げる。
 こじんまりとした球場を想像していたが、実際に来てみると思ったより広い。この球場ならばおもいきりバッドが振れるだろう。
 荒北靖友は不敵に笑み、後ろを振り返る。後ろには、この戦いに賛成してくれた仲間たちがいる。普段あまり仲のよくない古館がいることが少し気になるが、人手が集めにくい中些細なわがままは言っていられない。
 球場の中に入り、支度を済ませ、グラウンドに出る。
 バッテリーの南雲が遅れて出てきた時、観客席の空気が変わった。

「せーのっ」
「「「「「南雲くーん、球種のサイン出してー!!」」」」」
「うっぜ」

 女子たちの黄色い歓声に荒北が苦い顔をする。隣にいた南雲は苦笑を漏らした。

「なんだあの集団……? 横浜綾瀬の人間はオレたち以外いないはずだろ?」
「箱根学園の東堂くんが、ファンクラブの女の子たちを連れてくるって言ってたけど、もしかしてその子たちじゃないかな」
「あぁ、どうりで応援し慣れてるわけだ……」

 ご丁寧にうちわや横断幕まで用意している。もしかして南雲のガチのファンと化したんじゃないのか……。荒北はそう思ったが、今は深く考えることをやめた。
 荒北が観客席を見渡す。観客の中に少人数ではあるが吹奏楽部の人間や応援団がいる。
 今回対戦する堂島学園も観客を何人か連れてくると言っていた。彼らが協力してくれたおかげで、広い観客席も半分とまではいかないが寂しさを感じない程度までには埋まっている。
 悪くない。これから野球ができなくなることを思えば、観客はこのくらいいた方がいい。荒北は思い、南雲の肩をポンと叩く。

「南雲。今日は全力で行くぞ」
「……うん」

 南雲の目にはもう迷いの色はない。バッテリーがこの試合で投げると決めた以上、彼もまたここで戦う意思を固めていた。

 ◆

 放送室に入ると、席についた響子が今日使う資料に目を通していた。私が入ってきたことに気づき、顔を上げる。

「ゴメンね、響子。こんなこと任せちゃって」
「いいのいいの。前に他校の男友達に頼まれてうぐいす嬢やったことあるし。ここは私に任せて」

 資料を下ろした響子が私に向き直る。

「練習試合だって言ってたけど、今日はにとって大事な戦いなんでしょ? アンタが受験勉強そっちのけで準備に取り組んでたのは知ってる。……なにかは知らないけど、うまくいくといいね」
「……うん」

 窓の外からグラウンドで打撃練習をしている荒北さんたちを見やる。頑張れ、荒北さん。

 ◆

 東堂庵と書かれたワゴン車が球場の前で停まり、車から数名の男女が降りる。
 お礼を言って球場に向かう人たちを見て、車を運転していた東堂麗子はふうとため息をついた。

「送迎も楽じゃないわね……」

 一人ごちる麗子に、着物を着た中年の女が、車の窓越しにペットボトルのお茶を差し出した。

「麗子さん。お茶をどうぞ」
「あら、ありがとう村上さん。ちょうど喉が乾いてたのよね」

 麗子は村上からペットボトルを受け取り、早速飲んだ。ようやく潤った喉に口紅のついた唇から艶やかな息が漏れる。

「あと一回駅に行けば私もゆっくりできるわね。……まぁ、尽八の将来のお嫁さんの言うことなら、なんだって聞いちゃうんだけどね!」
「あらあらあら、まぁまぁまぁ!!」

 東堂とが和風の式を挙げている姿を想像し、互いに盛り上がる二人。

「……にしても、あの子が東堂庵に来た時はびっくりしたわ。しかも、よりによって自転車とは全然関係のない野球のことだし」

 あの時切羽詰まった表情で麗子に助けを求めるは、時間がないように見えた。
 学校には認められていない試合だと聞いた時には断りそうになったが、畳に額をつけるを見て、麗子は彼女の力になることを決めた。

「頑張りなさいよ。私も頑張るから」

 ぽつりぽつりと人が行き交う会場を見やり、麗子がつぶやく。
 今日は快晴。野球の試合をするにはちょうどいい日和だ。


 外野席の隅に、中年の男女二人が座っている。帽子を目深に被る様は、まるで知り合いの誰かに見つかることを避けているようだ。

「十一月となるとやっぱり肌寒いですねぇ」
「よかったらどうぞ」
「まぁ、ありがとう」

 男が差し出したブランケットに、女は喜んで受け取り膝にかけた。野球観戦は今までに一度も経験がないのでこういう気遣いは非常にありがたい。男の優しさに女――後藤は深く感謝しながら、ブルペンを見やった。ブルペンには投球練習をしている荒北と南雲がいる。

「佐々部さんは、彼は八百長をやっていないと信じるのね」
「アイツはそんなことをしてまで上に登りたいと思う卑怯なヤツじゃありません。きっとこの戦いも、野球の本当のおもしろさを伝えるための戦いなんだと思います。子どものクセによくここまで仕込んだものだ」

 佐々部が顧問を務める野球部でもなかなか借りられないであろう球場に、試合の邪魔をしない観客。きっとこれらを仕組んだ子どもたちは佐々部が思っている以上に狡猾で、この試合をどうしても実現したかったのだろう。
 荒北や南雲に八百長疑惑がかかっていることを知った佐々部は、二人のことを心配した。元野球部の人間のつながりを頼りに情報を探った結果、今日ここで学校非公認の試合をやることを知ったのだ。
 今はバレなくとも、試合後は必ず学校に伝わって問題になるだろう。
 もし、荒北たちが非難されたとき、自分がやるべきことといえば――

「教頭先生、お願いがあります。もし、彼らになにかあったら……」
「えぇ。その時は私たちで彼らを守りましょう」

 力強い言葉に、佐々部は一瞬だけ呆然とした。
 ……そうだ。この人は普段は厳しいが、常に生徒のことを思いやり行動する人だった。思い出した佐々部は綻んだ顔でブルペンを見やる。

「昔、誰かに教えられた気がするの。全力で物事に取り組んでいる生徒の邪魔をしちゃいけないって。……不思議なものよね。私の半分も生きていないくせに、未だに生徒たちに教えられることは尽きないの。これって、変かしら」
「いいえ、全然。……すてきだと思います」

 小声で言った佐々部に、後藤は顔を赤らめた。気分を紛らわすためにブルペンに視線を移したが、いつの間に投球練習が終わったのか二人の姿はなかった。


「きょ、今日の野球の生放送を担当させて頂くたっくんと申します。よ、よろしくお願いします……」

 気弱そうな眼鏡の男が、荒北と南雲の前で頭を下げる。眉根を寄せた荒北が南雲の耳元に口を寄せる。

「おい、南雲。コイツ本当に大丈夫なのか?」
「動画見た時はもっと明るいイメージだったんだけど……眼鏡外したら性格変わるのかな」
「ま、いいけどよ。おもしろい野球に実況なんざいらねーよ」

 肩をすくめる荒北。南雲の指摘したとおり、彼が眼鏡を外すと性格が変わることを数分後になって知ることになるのだった。

 ◆

 響子と話を終えて内野の観客席に戻ると、遅れて球場に来た田島くんがいた。よほど珍しいのか、せわしなく球場を見渡している。

「うわー、うわー、なんだか甲子園みたいだねー!」
「半分も埋まってないですけどね」

 膝にタブレットを置き、たっくんと名乗る配信者の生放送を待っている織田くん。田島くんの方が年上なのに、こうして見ると織田くんが年上に見える。
 二人の後ろには、東堂くん、新開くん、福富くんがいる。

「オレは野球の事はさっぱりわからん! 新開、解説を頼む」
「オレもそこまで詳しいわけじゃないんだけどな。わかるところまで説明するよ」
「いよいよ、だな」

 福富くんが言ったと同時、最後の練習をしていた野球部のみんなが本塁前に集まり、全員一斉にあいさつを交わす。
 ――いよいよ、試合が始まる。
 私はこの試合を最後まで見届けなければならない。

 ◆

 試合開始を告げるブザーが鳴る。
 今日の試合は先攻が堂島学園、後攻が横浜綾瀬だ。荒北はマウンドに立ち、キャッチャースボックスに佇む南雲のサインを確認する。
 最初の球種は外角のストレート。慎重な南雲らしい配球ではあるが、ストレートは荒北が最も得意とする球種だ。観客の目を惹き付ける意味でもこの投球がベストだろう。荒北がうなずき、大きく振りかぶる。
 ――さぁ、戦いを始めよう。

 ◆

「ストライク!」

 ボールがミットに収まる音と共に、小さな歓声が湧く。

「まさか二人が出る試合が生で見られるなんて夢にも思わなかったよ」

 田島くんがきらきらとした目で二人のバッテリーを見つめている。

「剛球が売りの荒北。荒北の球を受け止められる人材で、的確なサインで鉄壁の守備を作り上げる南雲。横浜綾瀬はワンマンバッテリーだけど守備に強いチームなんだ。相手チームだって負けていない。今年はメインの選手の二人が故障で療養してて、夏の甲子園には参加しなかった堂島学園。堂島には三番バッターの加賀がいるんだ。アイツと横浜綾瀬のバッテリーは因縁の関係だ」

 饒舌に語る田島くんに、不安になりながら二人を見やる。
 試合をやるからには勝つと荒北さんは言っていた。今日の試合、荒北さんは勝つことができるのだろうか……。